夏目漱石『こころ』の先生は文学史に残る卑怯者である #1_2
早稲田大学・森川友義教授が恋愛学で読みとく「文豪の恋」。第1回『こころ』編の後編は、いよいよお嬢さんをめぐる先生とKの三角関係から、先生の自殺にまでいたる物語の6つのポイントを徹底分析します。
前編はこちら。
ポイント① 先生がお嬢さんに恋した時点で行動をとらなかったこと
まず奇異に思えるのは、先生は、なぜお嬢さんに恋愛感情をいだいた時点で、デートに誘うとか告白するといった行動を起こさなかったのかです。この点について『こころ』の文脈を整理して現代的に解釈すると、漱石の主張はおそらく以下のようになります。
まず先生は、お嬢さんに出会うと、すぐに「恋愛バブル」が生じました。「信仰にも似た恋愛」、つまり片思いをずっと続けます。片思いが長く続くと、ますます自分の気持ちを伝えることができなくなるものです。現代の私たちでもそうでしょう。
当時の時代背景も告白を困難なものにしていました。当時は二人きりのデートはおろか、街中を若い男女が歩くことさえも他人からいぶかしげに見られる時代でしたから、デートによって相手の気持ちを確かめるということすら難しかったわけです。デートもせず、手もつなぐこともせず、キスもせず、プラトニックのままで一生の伴侶をきめなければならなかったわけです。
ですから、好きという告白は、結婚したいという意思表示と同じでした。とはいえ、お嬢さんをすぐ妻にしたいという決断はなかなかできるものではなかった。先生は当時まだ東京帝国大学の大学生だったということもあり、できれば大学卒業が間近になったときに告白したいと思ったはずです――。
なるほど。漱石の描写は一応、筋が通っているようです。しかし、私は次のように反論したい。
片想い→結婚の時代であったとしても、お嬢さんを好きになった時点でなんらかの求愛行動があっても良いものです。「時代が時代」と言われれば「そうなんですか」、あるいは「勉強ばかりしている東大生だから奥手なんだ」と言われれば「確かにね」と納得するしかありませんが、下宿を始めたときにはすでに20歳前後だったわけで、いずれ奥さんに「お嬢さんをください」と告白するわけですから、片想いをした時点で、なんらかの行動を起こしても不思議ではなかったです。なんらかの行動とは、相手であるお嬢さんが自分のことをどの程度好きかを確認する行動、およびお嬢さんに自分のことを気に入ってもらうための直接行動の2つです。
片想いから一歩踏み出す行動がまったくないのがこの先生の特徴なのですが、私たち読者としては、少しくらいの行動があってもよいのではと思ってしまいます。たとえば、一緒に暮らして、毎日、お嬢さんの琴や生け花に触れる機会があったわけで、そのときに一言、「上手ですね」と褒めることができれば、承認欲求が満たされるので相手もうれしいし、楽しい会話につながってゆくものです(これはモテテクニックの代表的なもののひとつで「自己肯定戦略」と呼ばれています)。 あるいは、二人きりになったときに「お茶を一杯、いただきたいんですが」と言えば、上手に二人の時間をつくりだすこともできます(これは「戦略的服従」というテクニック)。
また、お嬢さんが自分のことをどのように思っているかについても知っておきたいところです。たとえば、「急に下宿するようになってしまってごめんなさい。ご迷惑ではありませんか?」(=「アドバルーン戦略」)とか「お嬢さんは、いま学校へ行ってらっしゃるんですよね。なにか分からないことがあったら言ってくださいね。勉強のお手伝いをしますよ。」みたいな言動(これも「補完性戦略」というデート戦略のひとつ)でも、自然です。 このように相手にボールを投げて、相手がそれをキャッチして、どのように投げ返してくるかで相手の自分に対する気持ちはある程度測れるものです。
ところが残念ながら先生にはそういう言動や行動が一切ありませんでした。
ポイント② 先生が「実は自分はお嬢さんが好き」とKに釘を刺さなかったこと
第2のポイントは、そもそもKをあっさりと自分の下宿先に同居させてしまったことです。Kは学費や生活費も払えず大学を中退しなければならないところまで追い込まれたのですが、先生は見るに見かね、奥さんを説き伏せて自分のいる下宿先に一緒に住むことにしました。これはその後の先生とお嬢さんの関係からすると大失敗でした。それは先生本人も認めています。
同情心からKを住まわせたこと自体はよしとしましょう。むしろ問題なのは、なぜKが引っ越してくる前に「先に言っておくけれど、下宿先のお嬢さんには手を出すなよ。おれ、すごく好きだから。」と言わなかったのか、です。
Kが先生の幼馴染で、お寺の次男坊で信心深かったので、油断してしまったのでしょうか。たしかに先生は、お人よしの一面があって、未亡人やお嬢さんに対して、Kは可哀そうだからなるべく優しくしてほしい、なんてお願いまでしています。
当初女性嫌いだったKも、だんだん下宿先の奥さんとお嬢さんに打ち解けてきます。打ち解けてゆくと、微妙にして典型的な「三角関係」になってゆきます。そうすると、先生はKがお嬢さんと二人きりで話していることが不快になり始めます。かといって自分はお嬢さんに対して好きだとか、Kに対してお嬢さんのことが好きだとか、二人きりでいるのは止めろとも言えません。ジレンマに陥るのです。しかし、Kがだんだんとお嬢さんを好きになっていることはわかってゆきます。
漱石はこのジレンマに苦しんでいることを克明に描くのですが、Kが入居する時点ですでに先生はお嬢さんのことが好きだったので、「実はお嬢さんのことが好きなんだ。彼女には手を出すなよ。」と言ってもおかしくなかった状況のはずです。
普通はそういうふうに言っておくものですよね。常識的に考えれば、親友ではありますが、Kは恋愛という競争市場における最大のライバルなわけです。そんなKに対して、事前に釘を刺しておくことは当然の行動です。
ましてやKは自分より能力的に優れている男性なのです。先生はKという人物を評して次のように述べています。
容貌もKの方が女に好かれるように見えました。性質も私のようにせこせこしていないところが、異性には気に入るだろうと思われました。(略)しっかりした男らしいところのある点も、私よりは優勢に見えました。学力になれば専門こそ違いますが、私は無論Kの敵でないと自覚していました。
つまり、見かけ(身長もKの方が高い)でも、性格でも、男らしさでも、知性でも、先生の方が劣っていることを自覚しているではありませんか。だったら、なおさらKが恋愛という競争において、強敵であることは分かっていたはずです。
しかしながら、幾度もチャンスがあるにもかかわらず、先生はKに一言も釘を刺しません。Kがお嬢さんと仲良くしていると嫉妬ばかりして、口に出してお嬢さんへの気持ちを伝えることもありませんでした。
自分よりモテ要素がたくさんあるKと先生が自由競争をしたら、必ず先生が負けるに決まっています。唯一、先生が勝てるとしたら、事前にKに対して「絶対に手を出すなよ」と自由競争を妨げる言動をする場合です。そうすれば、先生の温情によって下宿できるKとしては、お嬢さんに手出しはできなくなります。このような事前警告をしないのは、明治であろうが令和であろうが、納得できない点だと思うのです。
漱石に関して知っておかなければならないのは、恋愛は、そもそも奥ゆかしくあるべきと思い込んでいる点です。「I love you」を「月が綺麗ですね」と訳すべしという逸話が残っているくらいですから。この話が本当かどうかは別にして、漱石に、恋愛において直接的な表現・行動をすべきではないという哲学があったことは事実で、その考えが小説の中の先生に反映されていることは明らかです。
ただ、その哲学を現代の私たちが納得できるかというと疑問です。当然先生はKに対して先手を打ってお嬢さんが好きだと言ってもよいのに、そう言わせないというのは漱石のこだわりなのでしょうが、現代の私たちからすると釈然としません。
ポイント③ 先生が、Kからお嬢さんが好きって言われたときに、自分もそうだと言わなかったこと
結局、Kの方が先に「せつないお嬢さんに対する恋」を先生に告白してしまいました。小説の中では次のように記述されています。
Kの話が一通り済んだ時、私は何とも云うことが出来ませんでした。こっちも彼の前に同じ意味の自白(告白)をしたものだろうか、それとも打ち明けずにいる方が得策だろうか、私はそんな利害を考えて黙っていたのではありません。ただ何事も云えなかったのです。又云う気にもならなかったのです。
それはないよ、漱石さん。ここが読ませどころなのに。Kに自分の気持ちを何も言わない理由をもっと明確にしてほしかったです。さらに「先刻(の告白)はまるで不意うちに会ったも同じでした。私にはKに応ずる準備も何もなかったのです。」と続けますが、だったら、後日でも遅くありません、改めてKに自分のお嬢さんに対する恋愛感情を伝えればよかったのです。
漱石の描写が不十分であるものの、先生がKに対して何も言わなかったことは、とはいえ合理的な選択であったと私も思います。漱石に代わって、そのあたりを考察してみます。
先生には、Kへの対抗策として、3つの意思決定の選択肢がありました。
(a)自分がお嬢さんを諦める。
(b)お嬢さんに直接告白する。
(c)Kに後からでも「自分もお嬢さんが好きだ」と言う。
以上の3つですが、どれも取りづらかった策だと言えます。まず(a)ですが、先生にはたいへん大きな恋愛バブルが生じている以上、お嬢さんを諦めきれるものではありませんので、先生のとる行動としては除外できます。
(b)の「お嬢さんに直接告白する」は、優柔不断な先生にとってもっとも難しい行動であることも理解できます。
したがって、(c)の「Kに対して自分の気持ちを伝える」が3つの中では考慮に値する選択肢です。(c)に関する最大の焦点は、この選択肢をとると、先生の究極の目的である「お嬢さんを獲得する」に近づけるかという点です。
残念ながら、いまさら先生がKに自分もお嬢さんが好きだと言っても状況は何も変わりません。Kが入居する前なら効果がありましたが。なぜならそのあとに先生とKがこの件について話し合っても、先生の勝ち目がないからです。たとえば、「お互いの友情を優先して2人とも諦めよう」では恋愛を成就できません。あるいは「我々が決めるのではなくお嬢さんに決めてもらう」では、魅力度はKの方が圧倒的に上なので、先生には勝ち目がありません。
ですから、この時点で告白するには遅きに逸した感が否めないのです。それだったら直接奥さんに「お嬢さんをください」と懇願した方が、卑怯ではあっても、自分の恋愛を成就するという意味では成功の確率が高く、合理的な選択だったと思われるのです。
ポイント④ 先生がKを出し抜いて、奥さんに直接「お嬢さんをください」と言ってしまったこと
したがって、現代の私たちには、先生の奥さんへの直接行動は非常に奇異に見えますが、状況がこのようにひっ迫してきた以上、むしろ納得できる行動です。自由恋愛が少なく、恋愛で結婚に至るにしても、親の許可が必要だった時代ですから、先生が奥さんに「お嬢さんをください」と言ったこと自体は、不自然ではありません。
考えてもみてください。先生の「売り」は東京帝国大学の学生であり、親の遺産を多少なりとも受け継いだという2つの点です。人間的な魅力の観点からは、Kに完全に負けています。でも2人は同じ人を好きになってしまった。恋愛バブルが生じて、ぜひお嬢さんを獲得したいと思いました。だったら、高学歴と遺産という2つの武器を使って奥さんを攻め、結婚に持ち込むのが正しい選択ではありませんか? まだ20歳未満の女子に学歴だのお金だのといってもそれほど響きません。しかし、お金で苦労している奥さんには大いに響きます。したがって、奥さんに直接行動を起こすのは自然ではありませんか。
ここまでを時系列で整理します。
先生は「将を得んとするならばまず馬を射よ」とばかりに奥さんに直接告白します。「私は私にも最後の決断が必要だという声を心の耳で聞きました。私はすぐその声に応じて勇気を振り起しました。私はKより先に、しかもKの知らない間に、事を運ばなくてはならないと覚悟をきめました。」と心境を語っています。
先生は、仮病で学校を休み、奥さんと二人きりになったときに突然「奥さん、お嬢さんを私にください」と言います。「ください、ぜひください」、「私の妻としてぜひください」と。
奥さんが返答するまで時間はかかりませんでした。拍子抜けするくらい簡単に、奥さんは「よござんす、差し上げましょう」と言ってくれたのです。その日のうちに奥さんはお嬢さんにそのことを伝え、結婚が決まりました。お嬢さんに伝えたのは当時の実情からすれば形式的なもの、奥さんが承諾した時点で、結婚は決まったということになります。ですから、現代の私たちの慣習からすると奇異な行動ですが、当時の結婚のしきたりからすれば、ありえることなのです。
さて、問題なのは、そのあとの先生の行動です。ここが非常に不可解な点なのです。先生は再び「何もしない」に逆戻りしてしまいます。つまり、結婚が決まった先生は、その時点でKにすべてを告白しても良かったはずです。もう引き返せない選択肢を選んでしまったわけですから。Kに対して、お嬢さんのことはKが入居する前からずっと好きだった、先にKに告白されてびっくりした、でもお嬢さんを諦めきれない、そこで奥さんに相談したら結婚を認めてくれた、こんな卑怯な私を許してくれ、という経緯を説明し謝罪して許しを懇願してもよかったわけです。
ところが先生はずっと黙ったままでいました。「私はいろいろの弁護を自分の胸でこしらえてみました。けれどもどの弁護もKに対して面と向かうには足りませんでした。卑怯な私はついに自分で自分をKに説明するのが厭になったのです。」先生のこの態度、納得できません。
なぜなら、今回の一連の行動はいずれKにわかってしまうからです。Kを出し抜いて、奥さんに直接かけあったことで、お嬢さんと結婚することは、遅かれ早かれ、Kに知られてしまうのです。だったら、親友として最大のできることは、事後処理をスムーズに行なうことではありませんかね?
やっちゃったことはしかたがないです。恋愛バブルの勢いに任せて、お嬢さんを奪ったことは卑怯な振る舞いでしたが、お嬢さんを獲得するという観点からは合理的選択です。
しかし、その行動は、親友Kに対して「何もしない」の口実にはなりません。要するに、悪いことをした事実とそれをKに説明するかどうかは別な話です。先生は、いけないことをして、いずれは発覚するものなのに、Kから逃げ回ってしまったということです。逃げられるものなら、逃げればよいでしょうが、逃げられないものには逃げても無意味です。
しばらく日をおいて、Kは奥さんから先生とお嬢さんの結婚について知りました。すごくショックだったのでしょう、下宿先で自殺をはかり死んでしまいます。無理やりKを自殺させるために、漱石は、Kに何も言わせなかったと勘繰りたくなります。したがって、漱石のこのターニング・ポイントでの描写は納得いくものではありません。
ポイント⑤ Kが自殺してしまったこと
5つめのターニング・ポイントは、Kの自殺です。なぜKは自殺を選んだのか? 視点を先生からKに移して、Kの意思決定を探ります。漱石はこの点どのように自殺を正当化したのでしょうか?
これが驚くべきことに、漱石による理由の描写がありません。Kの遺書には理由はなにも書かれていないのです。単に「自分は薄志弱行で到底ゆき先の望みがないから、自殺する」という抽象的な表現だけでした。遺書にお嬢さんとのことが何も書かれていないから、逆に恋愛が理由だというふうに先生は解釈したようです。漱石は、Kが失恋したから、先生から裏切られたから、当然のように自殺したとでも言いたいように、自殺の理由についてなんの描写もしませんでした。
しかし、常識的に考えて、失恋したからといって自殺するなんていう行為に及ぶことはありませんよね。なにしろ私たちは誰でも失恋を経験するものだからです。とくに男性は失恋する動物です。失恋したとしても、いちいち自殺していたら、生命がいくらあっても足りません。そもそも失恋の痛手は時間が解決してくれるのですから、心配はいりません。この世の中に、生命より重要な恋愛というものは存在しないのです。
そもそもひとつの人生を選ぶということは、別の人生を選ばないということです。Kの場合、自殺したということは、自殺しない場合に生じたであろう人生を選べなくなってしまったということです。自殺しない場合の人生が損失したのです。
ここで生じる二者択一の問題を経済用語で「機会コストの損失」と呼んでいます。「機会コストの損失」とは、ひとつの選択をすることによって、別の選択で得られたであろう利益を失うことを指します。Kの場合、自殺を選んだわけですが、自殺しなかったときに得られた利益はすべて失われてしまったということです。Kの場合、機会コストは多大であったことが考えられます。なにしろKは先生と同じ東京帝国大学の学生です。当時の帝大生は、現在の東大生とは比較にならないくらい超エリートです。それに加えて、前述のとおりKは高身長で、性格もよく、男らしく、知性にも優れています。新しい素敵な恋愛をすることもできたでしょうし、仏教を極めて偉大な宗教家になることも可能でした。素敵な人生が待っていたはずです。それをすべて喪失してしまいました。その自殺の理由が、お嬢さんとの恋愛が成就しなかったから、ですか?
たしかに漱石も失恋だけでは自殺する理由として不十分と思ったのでしょう。先生はほかの原因、とくに孤独も原因なのではないかと思い直します。しかし、はっきりしたことはわかりません。漱石はKの自殺の原因をあいまいにし、私たち読者は納得のいく説明なしに次の事件へと連れていかれてしまうのです。
ポイント⑥ 先生が自殺してしまうこと
他方、先生の自殺はどうなのか? こちらの方が理解できます。なにしろ『こころ』という小説全体が、なぜ先生が自殺したのかを解説する内容だからです。漱石の中では、全体のプロットが決まったうえで書き始めたはずです。「私」がいて、「先生」がいて、親友「K」がいて、お嬢さん(静)と奥さんがいて、三角関係の中で、先生が出し抜いてKを自殺に追いやり、最終的に先生も自殺するといったところまでは事前に決まっていたはずです。ですから漱石は、その結末に向けて、随所に「なぜ先生は自殺したのか?」の答えをちりばめておきました。
表向きの理由は友だちを死に追いやった罪悪感です。Kを出し抜いたのはもちろん、その後、Kに対して何の事後説明もしません。Kの自殺の場面に遭遇してもオロオロするばかりで速やかな措置をとりませんでした。自分の妻となったお嬢さんにもKとの経緯を教えていません。それでいて妻とは精神的な距離を置きます。それに対して、愛する妻は悲しみます。八方ふさがりな状況が結婚後も続きます。
もうひとつ考慮しておかなければならないのは、結婚してお嬢さんへの恋愛バブルがはじけていただろう点です。冒頭に恋愛バブルは1.5年~2年で消滅すると申し上げました。小説内では、結婚してから何年が経過しているか正確な記述がありませんが、推定するに結婚後12年は経っていますので、結婚生活を通して、新婚当時には存在したドキドキ感はなくなっていたことでしょう。ですから、結婚当初では自分が自殺して妻と別れ別れになることはためらわれたことでしょうが、恋愛バブルがはじけるにしたがって、相対的に罪悪感からくる厭世観を増大させていったことは理解できます。
きっかけは、明治天皇の崩御と乃木大将の他界でした。先生の自殺は「明治時代の終焉」をシンボリックに描いたとする解釈がありますが、あながち間違った解釈ではありません。
*
私たち現代の読者の観点からすると、上記の6つのターニング・ポイントのうち、少なくとも②、④、⑤の3つの恋愛描写に関する限り、漱石の描写は十分ではありませんでした。「なぜ?」への答えを描写してくれていないのです。ですから、この小説はストーリーとしてはたいへんおもしろいのですが、現代人の私たちだったら、先生とは異なる行動をとるはずなので、ところどころ「釈然としない」読後感になっています。
最後に残る疑問
恋愛というテーマからややかけ離れますが、最後にもう一つ解き明かさなければならない、「おぞましい」点があります。名作と呼ばれる小説は「説かず、描かず」が基本です。余韻をもたせたところ、描いていないところに、著者が描こうとした小説の本質が隠れている場合が往々にしてあります。
『こころ』の場合、その「おぞましい」点とは
「私」は、先生の遺書を読んだ後、どうしたのか?
という問題です。
「私」だけに送られた遺書ですから、自分だけの秘密にしておくべきものでしょう。たしかに先生の遺書の最後に「私が死んだ後でも、妻が生きている以上は、あなた限りに打ち明けられた私の秘密として、凡てを腹の中にしまって置いて下さい」とあります。
しかし、だからといって、「私」は先生の奥さんに黙っていることができるでしょうか? 「するな」と言われれば、したくなるのが人情ですし。実は『こころ』の随所に、きっと「私」は先生の奥さんに遺書を見せてしまうだろうと思わせる性格が描かれています。とくに第1部の「上 先生と私」には、「私」の性格について丁寧な描写があります。
まず好奇心が旺盛です。見ず知らずの先生のあとをつけたり、「私」の方から先生に声をかけたりします。また、ぶしつけでもあり、先生の奥さんには「今奥さんが急に居なくなったとしたら、先生は現在の通りで生きていられるでしょうか?」と問い詰めたりします。さらには直情的でもあります。なにしろ、父親が危篤であるのに、先生のことが心配で勝手に電車に飛び乗ってしまうわけですから。
こんな性格ですから、「私」は先生の奥さんに遺書が存在することを教えてしまうだろうことが推測されます。
結局、「私」は先生を裏切るのか?
はい、裏切ります。というか、裏切りました。その裏切りというのが、この「手記」、つまりこの本なのです。『こころ』は、「私」が書いた手記で、おおやけになったものですから、奥さんはこの「私」の「手記」を読んで先生の自殺の経緯を知ったことでしょう。
これがどうしてわかるのか? それは第1部「先生と私」の第12章に
奥さんは今でもそれを知らずにいる。
とあるからです。なにしろ文章は現在進行形になっています。この一文こそ、奥さんはまだ存命中で、この手記によって、奥さんは先生の過去を知ったと暗示しています。
また続いて、「私」は以下のようにも言っています。
私は今この悲劇について何事も語らない。
これはうそです。なにしろこの小説自体が先生の秘密の暴露であり悲劇を語っているものだからです。ですから、「私」は、先生を裏切っていることになります。では、そんな「私」の裏切りに対して、先生は草葉の陰でどんなふうに思うことでしょう? なんてひどいことをするんだと憤慨するでしょうか?
いいえ、違います。先生は「私」が遺書を妻に見せることを前提にして渡しているのです。先生にとって「私」は赤の他人です。先生がずっと言わずにきた秘密を「私」にわざわざ暴露する必然性がありません。先生は遺書の中で「貴方に対する私の義務」と書いていますが、先生が「私」に長い手紙を書いてKとのいきさつを説明する「義務」はまったく見あたりません。「私」は先生の子どもでも親戚でもないわけですし。単に最近知り合った20歳前後の男子大学生です。
以上を勘案すると、奥さんに先生の過去の秘密を明かしてくれる人として「私」が選ばれたという結論にたどり着きます。「私」の役割は、先生の死後に先生と妻をつなぐメッセンジャーだったのです。先生は遺書の中で、妻になにも言わないで死んでゆくのは「ただ妻の記憶に暗黒な一点を印するに忍びなかったから打ち明けなかったのです。純白なものに一しずくの印気でも容赦なく振りかけるのは、私にとって大変な苦痛だったのだと解釈して下さい。」とあります。
この「私にとって」がキーワードです。先生は、自分から妻に告げることが嫌だった。自分から妻の記憶に暗黒な部分を残したくなかったのです。その代わりとして「私」に告げてほしかったということです。
このように、先生とは、自分では何もしない、実に卑怯な人間なのです。
第1回のまとめ
漱石の恋愛描写の合理性はともかくとして、この名作を読み、上記の分析をとおして、私たちの恋愛に役立てられる点がありました。最後に2つの教訓をまとめてみます。
ひとつは、「恋愛バブル」が生じると突拍子もないことをしがちですが、恋愛は節度をもって行なわなければならないということです。人を好きになると、先生のように平気で常軌を逸した行動をとることがありますが、現在の私たちでも同じことをしてしまう可能性があります。たとえば、相手のことを考えすぎて仕事や勉強がおろそかになったり、嫌がる相手にしつこく迫ったり、返信が来ないと思って何度も連絡したり、さらにはストーカーをしたりする人がいます。恋愛にはそれなりのルールがありますので、当然守ってもらいたいものです。
もうひとつは、「バタフライ効果」に照らして鑑みると、先生の「何もしない」という意思決定がその後の人生に悪影響を与えている点です。通常は蝶々のはばたきのような行動がその後の人生に影響を与えますが、ときには「何もしない」(何も羽ばたかない)という非行動も人生に影響を与えうるということです。
現代の私たちで考えると、「恋愛は面倒だ」、「恋愛より仕事が優先だ」といって、恋愛について何も行動しないと、いたずらに年齢を重ねて、恋愛をしたいと思ったときはすでに難しくなっているという状況になりかねません。ですから、非行動より行動です。ぜひ素敵な恋愛に向けて行動してみてください。「何もしない」よりずっと素敵なことが起こるに違いありません。
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・第1回 夏目漱石『こころ』前編
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