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変わる賄賂事情。タイの警察は自分のために動いている(第12回)

【お知らせ】本連載をまとめた書籍が発売されました!

本連載『「微笑みの国」タイの光と影』をベースにした書籍『だからタイはおもしろい』が2023年11月15日に発売されました。全32回の連載から大幅な加筆修正を施し、12の章にまとめられています。ぜひチェックしてみてください!

タイ在住20年のライター、高田胤臣がディープなタイ事情を綴る長期連載『「微笑みの国」タイの光と影』。
今回は「タイの警察」がテーマです。タイは警官の給料が安く、警備員などの副業をする人も多いそう。加えて賄賂を「上納」する習慣も強く、さまざまな問題をはらんできました。とはいえ今はかなりクリーン化が進んできているようで、その裏には様々な事情が……。

これまでの連載はこちらから↓↓↓


賄賂をせしめる常套手段

タイに限らず、世界中どこだって警察組織は国民からの評価が低いものだ。日本や欧米などで賄賂が横行することは少ないが、東南アジア、アフリカ、中南米などでは賄賂次第で罪の重さが変わってくることがよくある。

タイも警察の評判はあまりよくない。なにしろ、今現在においてもタイ国民にとっては警察の方がタイ・マフィア(日本でいう反社会的勢力など)よりも恐ろしい存在として認識されている。タイは銃社会なので、マフィアだって殺人など手段を選ばない犯罪で一般市民に襲いかかってくる可能性がある。しかし、所詮はマフィアで、罪を犯せば逮捕される。一方警察官は、なにをしようが報告書にはいくらでも書きようがあって、彼らの犯行そのものをなかったことにできる。

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バンコク都内の中規模な警察署。

タイの一般的な市民が警察からなんらかの被害に遭うとしたら、その多くが賄賂の要求だろう。交通違反が最も多く、ほかにもたとえば飲食店経営者などはさまざまな場面で支払いを要求される。特にアルコール提供をする店に対しては要求額が高い。ある日には所轄の警察官が集金に来て、別の日には首都圏警察本部(日本でいう警視庁)、また別の日には麻薬取締警察……など、あらゆるところから警官が来る。

というのも、タイはアルコール販売規制が厳しいので、許可を得なければならない。そうでなくても、正当的に経営する場合にはお上にいろいろな手続きをして認可を受ける必要がある。そういった手続きをしない、あるいは邪魔をするという方法をもって彼らは賄賂を要求してくるのだ。ある意味では手続きを簡単に済ませてくれる手数料とも考えられるが、払う側が理不尽に感じてしまうのは、あくまでも正当的な権利と義務で各種申請をするのに、他方彼らがやらなければならない仕事を全うせず、賄賂がないと難癖をいろいろつけて手続きしないという点だ。そんなひどいことをするわりに優しいのかなんなのか、要求される額はバラバラで、業種や売り上げ、店主の人当たりなどでだいぶ変わってくるようだ。

交通違反への賄賂は日常茶飯事だが、さすがにまったく違反をしていないのに止められることはない。以前はあったのだが、今はドライブレコーダーをつけている車が多いので、下手なことはしない。だから、飲食店への理不尽な賄賂要求よりはやられる側も納得がいくとは思う。それに、交通違反は大概500バーツくらいが正規の罰金額である一方、一般的な賄賂は100バーツ程度。この額を渡せば切符を切られずに済むので、むしろ賄賂の方が話は早い。もちろん、賄賂を要求するのも払うのもタイでは違法行為になるのだが、後述する事情ゆえ完全になくなることはないと考えられる。

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警察官の制服は茶色に見えるが、彼らからすると「タイの大地」を意味するカーキ色なのだとか。

ただ、これでも今はだいぶクリーンになってきている。賄賂が撲滅されたわけではないが、以前と比べたらタイの警察組織はだいぶまともになってきたと思う。前は飲酒運転も賄賂で見逃されていたものだが、現在はほとんど賄賂は通用しない。一方では賄賂に応じる警官もいるが、その場合は数万バーツと罰金以上の額が要求される。なぜなら、飲酒運転の場合は裁判所への出頭が絶対で、判決次第では禁錮や一定期間の社会奉仕活動があるので、拘束時間を考慮していると思われる。足元を見ているわけではあるが、基本的には受け取らないという姿勢が出始めているのも事実で、だいぶまともになってきた。

20年以上前には東北地方で連続強盗事件が相次いでいた中、犯人が警察官だったことがある。タイでは身代金目的の誘拐事件は子どもではなく富裕層の大人がさらわれるのだが(といっても、タイ人ではなくインド人もしくはインド系タイ人などが多い)、犯人グループの中にだいたい現職警官がいるのだ。最近はそういった事件もあまり聞かなくなってきた。

イミグレーションが示したクリーン化の裏を返せば

以前は交通違反、麻薬事案や諸々の事件に対して、堂々と賄賂を要求してきていたタイの警官だが、今は警官の側から金を出すよう要求することはまずない。2015年には東部パタヤで日本人が麻薬所持かなにかで捕まり、その釈放の交渉で日本円換算にして1000万円ほどのタイ・バーツを賄賂として持参した日本人3人も逮捕された。ただ、この事件は見せしめにすぎないのかなと思う。最近、パタヤ警察署で警察官が賄賂要求によって逮捕されているからだ。

クリーンになっているのはいろいろな事情があるが、大きなところではSNSの発達があるかと思う。警察高官が「今、(賄賂で)もみ消せるのはせいぜい交通違反くらい」というほど市民の目があちらこちらにあり、ちょっとした金額ではリスクに見合わない。

ちなみに、このリスクについては別途説明が必要だ。日本人や一般タイ人は賄賂を払う際に罪が重ければ重いほど高額になるのは「足元を見られている」からだと思いがちだ。実際にそういう部分は多少あるにせよ、たとえ高官でも警察官ひとりで事件をもみ消すことは難しい。署内なり検察なりに事件を知る者がいるので、賄賂はそういった人たちにも渡される。事件が大きいほど関わる人が多くなるので高額になるのだ。同時に、事件をもみ消すことは、今後なにかあったときに彼ら自身の中で処理をしなければならないことを意味する。賄賂を受け取っておいて事件を蒸し返せば、払った側がマスコミに洗いざらい話し、問題が大きくなる。

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大型車用レッカー車。車両カラーは首都圏警察だと黒と白の、県警は栗色と白のツートンカラーになっている。

2000年代初頭に、チューウィットさんというソープランド経営で富豪になった中華系タイ人がいた。彼は事件を起こして拘留された際、留置場での無料の食事に高額の金を警官に要求され、激怒して保釈後にマスコミへソープランドの賄賂などをバラしてしまった。この事件もきっかけのひとつで、賄賂に関してはだいぶクリーンになった。ちなみにその後の展開が実にタイらしいのは、そのチューウィットさんが政治家に転向したことだ。タイ好きの日本人男性からは「チューウィット兄貴」と呼ばれるほど、ユニークな人物である。

誰もがわかっているとはいえ、賄賂が表沙汰となればさすがに解雇もあるし、あるいは出世に影響する。次項で説明するように高官は出世欲が強く、一方で上に行くほどポストが少ない。つまり周囲がみなライバルで、数年後に「あの時、事件をもみ消した」という事実で足を引っ張られる可能性もある。市民の目、そして出世競争の目がリスクとしてのしかかってくるので、ちょっとの額ではこれらのリスクと見合わないのである。

そんな中、2018年には国境や空港で入国管理をするイミグレーション警察が問題を起こした。実際には問題を起こしたのは空港の警備員であるが、観光で訪れた中国人を殴打してしまったのだ。この中国人の証言で、イミグレーションの警官が入国審査時に賄賂を徴収していたことが発覚。すぐさまイミグレーション警察長官の謝罪に加え、「ノーチップ」というポスターが制作されて、入国審査場などに貼られた。中国は外国人入国者数のトップだったので、個々は小額であっても全体では相当な金額を巻き上げられていたことになる。

イミグレーション側としてはクリーンであることを主張したかったのだと思う。実際、その1~2年前から入国管理事務所には賄賂を禁じるポスターがあったので、それをより強調したのかもしれない。しかし、このタイミングでニュースに取り上げられたため、公然の秘密とはいえ、警察が自ら賄賂をもらっていたことを公に認めるような形になってしまった。

ただ、この入国審査の件もそうだし、交通違反もそうだが、賄賂によって多少の便宜が図られるのだから、払うのを拒否したら正当なサービスを受けられないのはよくないにしても、払った分は得したいとボクは思ってしまう。そういう、悪くいえばどうしようもないけれども、よくいえば融通が利くのがまた東南アジアのおもしろさで、なんでもきっちりしてしまうのはつまらないなとボクは思ってしまったり。

ちなみに、入国時の賄賂は300バーツくらいだったようだ。今は不要で一切要求されることはないけれども、新型コロナウィルスの悪影響で観光客が激減中のタイは、今後観光客に入国税300バーツを払わせることを検討中だ。まるで国が賄賂を取っているようにみえてしまう。まあ、タイは国立公園などで外国人料金が堂々と設定されている国なので、ここで違和感を訴えても仕方ないのかもしれない。

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下町にあるイミグレーション事務所。

警察官の懐事情

一般的にどの国も警察組織による賄賂が横行する場合、警察官の給料が安いことがその理由になる。タイでは警察官に適用される公務員法の給料は細かくクラス分けされていて、一番下っ端(日本での巡査クラス)で4870バーツ(約1.7万円)、長官クラスでさえ最大78030バーツ(約27.3万円)と決まっているので、確かに一般企業よりはずっと所得が低い。もちろん、その分よほどのことがない限りクビにならないし、年金、福利厚生など、恩恵も少なくない。

ただ現実問題、給料が安いので副業している人も多い。先の巡査クラスの場合、勤勉でしっかりと勤め上げても、定年のころで月給21480バーツ(約7.5万円)にしかならない。もはや悪いことをしなければ食べていけないのではないかという水準だが、とにかく犯罪に加担していなければ、どんな副業をしても咎められない(これに関してはおそらく暗黙の了解とみられる)。特殊部隊など私生活の行動も制限される役職は副業が禁止されていたり、それなりな地位にいれば月給もそこそこ、別の金もじゃんじゃん入ってくるので副業は不要だが、下っ端の多くは警備員などをする。

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警察の特殊部隊。彼らは副業などが認められていないこと、命がかかっていることから給与が長官とほぼ同等クラス。

タイは銃社会だが、一般市民は購入許可証を得られるだけで携帯許可は下りない。警察官には自動的に携帯許可証も出ているので、非番でも携帯でき、彼らは所有する銃を持って警備員になったりする。

これまでも何度も書いてきたように、タイは階級社会なのでどこの家系あるいはグループに所属しているかが重要になる。特にバイトをしなければならないような警官は一般社会で普通クラスに生まれてきたので、警察という権力に自身が頼る傾向にある。私生活でそれを周囲に知らしめる方法として、下っ端は私服も制服になる人が多い。

ある程度警察のことを知っている人からすると、警備員の服装を見れば本業が警官かどうかわかる。たとえばボクが見るのは靴だ。ピカピカの黒い革靴で、かかとには敬礼したときに音が出せる金具がついている。これを履いているとだいたい本業は警官だ。タイでは一般人も警官の制服を着られるが、警察官を名乗ったり階級章や警官の個別認識番号などいくつかマネをしてはいけない部分がある。知らずにマネすると逮捕されるので、無用のトラブルを避けるためにタイでは一般人が警官のコスプレをすることはない。本物なら非番でも警官と名乗っていいので、休みの日もわざわざ制服を着たりする。雇う側も警官がいることをアピールできるので、お互いにメリットがあるわけだ。そんな警備員が一般人の目に留まるよくある副業だが、珍しいところでは、畜産や農業に精を出して小遣い稼ぎをする警察官もいた。

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タイ警察官高官内でしか出回らない高官電話帳にあった警察大将の役職の階級章。

吸い上げられた賄賂のゆくえ

そんな警官たちに賄賂の話を聞かせてもらうと、案外、巻き上げたカネが懐に入っていない事実がわかってきた。

タイ警察の原型は1455年、日本の室町時代に始まっており、近代に入ってラマ4世王(現在はラマ10世王の時代)が英国の警察システムの導入に踏み切り、以後何人かのイギリス人らを顧問に迎えて近代化してきた歴史を持つ。大昔(別の王朝の時代)はビルマ軍と戦ったり、第2次大戦後は中国から影響を受けた共産主義者の取り締まりなど時代ごとに課題が大きく変化し、臨機応変に改革・改編されてきた。そして1998年に概ね現在のタイ国家警察庁へと進化した。

元々タイの警察は準軍事組織であったので、その名残から今も階級は陸軍のものとほぼ同じだ。ただ、同じ階級の中に役職が複数ある。たとえば、警察大将という階級でも、上から長官、副長官、警視総監という役職がある(役職名は日本の名称に当てはめた場合)。日本の警視庁に相当する首都圏警察本部や麻薬取締警察本部などいろいろな部署のほか、県警は9つの管区と、テロ対策などのための深南部対応部門などに分割される。

バンコク都内や県に置かれる警察署は、署長の下に5つの課で構成されることが基本。管轄地域の広さや規模で変わり、高官が20人配置される署もあれば、1人だけのところもある。課は刑事課、公安課、警備課、交通課、事務課。公安課は主に私服刑事で街中に潜伏し、刑事課と交通課は日本と同じ役割。警備課は機動隊など。ボクは2004年からボランティアの救急隊員をしている関係で私服刑事などもよく見るのだが、ボロボロのシャツにサンダルだったりで、普通の人と一切見分けがつかない。バーなどが多い歓楽街にも変なタイ人男性がよく座っているのだが、中には刑事もいたりする。だから、タイでは下手にケンカをしない方が無難だ。ちなみに、昔は女性は事務でしか働けなかったが、最近は士官学校も女性を受け入れていて、タイ警察内でも女性警官の役割の幅が広がっている。各警察署への配置は空きがあれば希望して転勤が可能だそうで、バンコクに希望者が多い。下士官は希望しない限り異動はなく、高官は現地で癒着が起こらないように2~3年で異動になる。

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ヘルメットや識別番号で所属課がわかる。白と赤は交通課。黒と金色は機動隊など。

ここからが賄賂の話になるが、たしかに一部分は警察官の懐に入っているかと思う。しかし、ほとんどは上官に渡る。高官は単なる異動をすることもあれば、昇進するケースもあろう。タイの警察では昇給テストはないので、昇進するには上司ウケがよくなければならない。そのために警官自らが上官に賄賂を贈るのだ。

前回、野心家のタイ人は軍の高官を目指すと書いたが、警察も同じだ。士官学校を出なければ昇給は頭打ちだが、ちゃんと士官学校卒で順調にキャリアを積めば、上に行くことは可能なわけだ。そこで心証をよくするために賄賂が「上納」される。異動のない下士官も上納するのは、タイでは上の地位の人には逆らえないという常識があるし、下士官も下士官なりに昇給という野心があるため。

こうして集められた賄賂は多額になり、それが副署長、署長、そしてさらに上の偉い人たちへ渡されていく。副署長は先の5つの課のうち事務課以外の課の長でもあるので、警察署に副署長は4人いることになる。署内ではまずこの4人の競争が熾烈であり、署長もさらに上納金が多く集められる場所に行きたがる。バンコクの歓楽街を抱えている区は人気がある。交通違反だけでなく、飲食店からの賄賂も多額に集めることができるからである。

タイの公務員は「王室の僕」だが……

タイの警察官を見ていると、腰の拳銃が日本の警官と違ってバラエティーに富んでいることに気がつく。日本なら一般的には回転式のリボルバーと呼ばれるタイプの銃を所持するが、タイの警察官はアメリカ映画に出てくる刑事並みにすごい銃を持っている。あれは実のところ、個人名義の銃である。先の警備員のバイトで使うのもやはり個人名義の銃だ。

銃社会であるタイとはいえ、拳銃は値段が高い。ショットガンは安いと7万円前後で買えるが、オートマチック拳銃は30~40万円もする。そこそこのキャリアでも月給がせいぜい2万~4万バーツ(約7万~14万円)とすれば、決して手を出しやすい金額ではない。だから、銃を買うために警官は賄賂を取っていると思っているタイ人もいるほどだ。たしかに一部はそうかもしれないものの、実はからくりがひとつある。それはタイ政府が認めている警察官割引だ。要するに、ガンショップの提示価格は輸入関税なども含まれているのだが、警察官はこのあたりを免税で購入できるというわけ。

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オートマチック拳銃。銃器は基本輸入品で、警官には特別価格がある

では、官給拳銃はないのかというと、そんなわけはない。タイでもリボルバー拳銃がすべての警察官に支給されている。単にそれを使わないだけだ。これもまたタイ人ですら誤解しているが、警官が「マイ銃」を使用するのは銃器が好きだからではない。

すでに本連載中でも何度か書いてきたが、タイの公務員はカーラチャカーン、すなわち国王の僕という意味になる。つまり、国民のために働いているのではなく、王様に仕えているのだ。給料も備品もすべて国王陛下が貸してくださったものというわけで、官給の拳銃は国王から預かっているものになる。万が一壊してしまったり、紛失してしまったら大変。実際、直属だけでなく、さらに2つ上くらいの上司まで始末書を書き、かつ左遷されられるのだとか。王様のものを失くすなんてとんでもないし、上官にまで迷惑をかける。だから、官給拳銃はロッカーにしまい、失くしてもなんら問題のないマイ銃を警官は使うのである。それだって失くしたら大問題だと思うけれども、先に書いたように報告書はどうとでも誤魔化せるので、官給銃を失くすよりマシなのだ。公にはならないが、実際警察内での拳銃盗難もあって、それが犯罪に使われるケースも稀にあるとか。

そうなると、国民のために働かない警察とはいったいなんなのだろう。ボクは20年近く前に、日本人の詐欺被害者の通訳をしたことがある。犯人宅をその人は全然憶えていなかったのだが、「こんな感じの場所だった」というなんとなくの説明をしただけで、担当官は家を見つけ出した。ところが、そこから彼らは被害者の日本人に賄賂を要求。その日本人は払わなかったため、捜査は打ち切られた。払わなかったのは、日本では考えられないことで、納得がいかなかったからだそうだ。当時のボクもタイの「裏」の常識を知らなかったので、助言はできなかった。

一般的なイメージでは日本の警察より捜査能力が低いように思われるタイ警察ではあるが、このようにちょっとしたヒントで犯人宅を割り出すくらいの能力はある。

「タイ警察の捜査能力は非常に高い」

90年代のタイはそれこそ杜撰で、殺人現場に誰でも自由に出入りできた。そのため、証拠が失われ、犯人が捕まらないことも多かった。この惨状を立て直したのが、一人の日本人だ。戸島国雄さんという方で、現在は引退されているものの警察大佐の階級を受けており、タイでは尊敬される人物だ。この方が95年にJICAの専門官としてタイに赴任し、タイ警察の鑑識技術を向上させた。先述の通りタイの警察官は国王に仕えている身分なので当初は誰ひとり耳を傾けなかったようだが、戸島氏が長い年月をかけて鑑識官を育て、今では事件現場にテープを張って関係者以外立ち入り禁止にしている。日本でもこの仕組みが導入されたのは確か戸島氏の提案で、かつ氏は日本で最初に似顔絵を捜査に取り入れた人でもある。

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不審死事件の現場に張られたテープ。

戸島氏曰く「タイの警察の捜査能力、犯人検挙能力は非常に高い」という。タイの治安がよくないのは事実だが、だからこそあらゆるところに防犯カメラがあり、犯人の逃走経路が掴みやすい。また、タイ人は14歳から身分証明証を持ち歩かなければならず、その際に指紋が取られているので、指紋が残っていれば確実に検挙できるのだという。

余談だが、この身分証明証には国民番号が割り振られ、現在はオンライン化されている。役場の端末だけでなく、警察署のパソコンで番号もしくは指紋で検索すると、たちまち実家からなにから、すべてがわかる。

日本ではマイナンバーに対して賛否両論で、取得しない人も多い。タイは賛否もなにも、生まれたときに番号が与えられる。出生届を出すと親の名前や出生日時、それから国民番号が割り振られた証書が渡される。ちなみに、出生届には顔写真はないが、身分証明証は逮捕時にあるような背後に身長を示すラインと共に顔写真が記載される。14歳まではこの証書を使って公的サービスや教育を受け、その年齢から身分証明書を取得し、常に携帯する。今は幼稚園くらいから任意で取得できるが、携帯義務が発生するのは14歳から。外国人は当然それはないので、パスポートを常に持っていなければならない。今は世界中でオンライン化されているから随分と減ったとは思うが、90年代は偽造パスポート問題がタイでもあった。日本のパスポートがよく狙われ、盗んだあとに顔写真をすり替える。あとは偽の国際学生証などもあった。偽造業者がそこかしこに普通にいたのに、タイの身分証明証の偽造だけは誰もやらない。罪が非常に重いかららしい。

タイの警察はそこまで捜査能力が高いのに評判が悪く、日本や欧米などと比べて治安が悪いのは、結局警官たちがタイ式の公務員であり、国民の安全を考えていないからなのかもしれない。もちろん、正義感に溢れた人も多いのだが、組織内の人間関係でいろいろなしがらみがあり、青臭い正義感だけではやっていけない。そして、警官の正義をタイ国民が期待していないのもまたすごい話だ。だからなのか、タイには日本のような熱血警官の映画やドラマがほぼない。

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特殊部隊の人質奪還作戦の訓練。

正しい警察組織ができる可能性

そもそもタイ人は個人の自由を最も大切にする人たちだ。軍人だろうが、警察官だろうが、野心がある人は上を求めればいいじゃないか。公務員は王様の僕であるのだから、自分たちはなにかよほどのことがあったら警察に相談するから。でも期待もそんなにしていないから。一般的なタイ人の考え方は概ねそんな具合だろう。

期待もしていないし、自分たちを守ってくれる存在ではないと思っているからこそ、SNSが発達して自分たちにも発言という武器が手に入ってからは、警察官の不正があればそれをすぐにアップする。警察官もクビになりたくはないので、面倒なトラブルを避けるために可能な限り正しく任務に就こうと考えるようになる。

こうして以前と比べたらかなりクリーンな組織になってきたのだが、賄賂や警察官の不正などが減ってきたのはほかにも理由があると思う。それは、軍事政権になったからではないか。2006年から続く政情不安では、都度政権交代があったものの、結局はタクシン派か保守派の政党が実権を握ってきただけだ。2014年に現政権になってからは、首相が軍のトップであった人物であり、今もその影響力は計り知れない。

タイの警察組織は元々準軍事組織であり、非常事態時には陸軍の指揮下に入る。そう考えると、軍人からすれば警察は「下っ端」なわけで、下っ端が偉そうな態度を取ることは許さない。また、なんらかの不正によって軍も国民などから利益を得ているとすれば、もはや軍=政府である現状を考えるとその金額は莫大なものになる。前回、深南部の爆弾テロは麻薬などの利権争いともいわれていると書いた。そうであれば、軍は相当な金額を儲けているわけで、警察官がちまちま得ている賄賂からの上納金とは比べものにならない。そんな小さい稼ぎをしている組織を、軍は冷ややかに見ていることだろう。

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特殊部隊を乗せたタイ警察のヘリ。

個々の警察官は軍=政府に勝ち目がないと感じているだろうから、現政権の間はおとなしくしているべきだと考えるのは当然だ。実際、タクシン派と保守派が争っている間も、政権が変われば警察の上層部もすべてひっくり返るわけで、何百万バーツと上納していたとしてもすべてが一瞬でパアになった。今はさらに怖い人が上になったので、上の派閥がひっくり返ることはないにしても、クビになる可能性は逆に高まっている。

一応タイの警察組織には中央捜査本部があって、ここは内部事案に関しても容赦なく捜査のメスを入れていく部門だ。かつてはCSD(CrimeSuppressionDivision)という犯罪抑制局があり、当時の皇太子殿下(ラマ10世現国王)の直属部門の特殊部隊もあった(現在は切り離された)くらいで、賄賂に決してなびかない捜査官たちを現職警察官が最も恐れている。これも、警察組織が徐々にクリーン化しているひとつの要因だ。

とはいえ、そもそも警察官が国民のために働いていない。気に入らなければいつでも逮捕できる。他方、富裕層が事件を起こしても、富裕層同士の間、それから警察と富裕層の間にある利害関係や忖度で逮捕・検挙ができない。できないというか、しない。富裕層のもみ消しの賄賂はきっと半端な額ではないし、警察高官たちも今後自身がタイ社会で上に昇っていくためには彼らに恩を売っておいた方がいい。軍隊と同じく野心家が士官学校に行くわけだから、そう考えるのも必然だ。

このように、タイ警察の上層部は最初から自分のことしか考えていない人が多いわけだ。そんな組織であり、タイで長く続いてきた文化なのだから、悪しき習慣がなくなることはないだろう。賄賂は今以上に減ると考えられるが、たぶん渡し方などが巧妙化するのかなと思う。

でも、誤解を恐れずにいうならば、ボクはそれが悪いことだと思えない。払えばその分の便宜を図ってもらえる。事業であれなんであれ、進まなかったものがそれで動き出すならありがたくはないだろうか。なんでもかっちり決まったところでがんばるなら、別に日本でだっていいわけだ。

在住外国人の中には熱心に警察高官と繋がろうとする人もたくさんいる。むしろ本業をおろそかにして、警察官との人脈づくりに精を出す人もいるくらいだ。ただ、連載中に何度も指摘しているが、タイ人は人間関係の機微に敏感だ。警察高官らにとって最も大切なのは組織内での人間関係と昇進だ。いろいろと問題が起こるといけないので、そういう裏になにか持っている人のことは敏感に察知し、うまい具合に避ける。

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買いものの帰りと見られる警察官。

ボクがかつて見た例だと、ある日本人が警察高官に飲食店経営の手助けを頼んだが、いい物件があると高官が紹介したのはバンコクから1000キロ離れた町のデパートだった。高官からすれば体よく追い払えたし、うしろ盾を頼んだ人は逆に断ることもできず出店し大損した。

タイ人は本当にそういうところがうまい。日本人は太刀打ちできない。ただ、なんとか喰らいつきたいなら、せめて階級のタイ語名や階級章の見方は覚えていこう。多くの日本人が「偉い人と繋がった」と思っていても、実際にはそんなに上の人ではないことも多い。あとは、名刺交換した際に裏書がもらえなかったら脈なしだと思うべきだ。タイでは裏書のない名刺はほぼ意味がない。とりあえず、タイの人間関係はとてつもなく複雑で危険で、その点に関しては警察高官は確実に優秀である。

書き手:高田胤臣(たかだたねおみ)
1977年5月24日生まれ。2002年からタイ在住。合計滞在年数は18年超。妻はタイ人。主な著書に『バンコク 裏の歩き方』(皿井タレー氏との共著)『東南アジア 裏の歩き方』『タイ 裏の歩き方』『ベトナム 裏の歩き方』(以上彩図社)、『バンコクアソビ』(イーストプレス)、『亜細亜熱帯怪談』(晶文社)。「ハーバービジネスオンライン」「ダイアモンド・オンライン」などでも執筆中。渋谷のタイ料理店でバイト経験があり、タイ料理も少し詳しい。ガパオライスが日本で人気だが、ガパオのチャーハン版「ガパオ・クルックカーウ」をいろいろなところで薦めている。

この連載の概要についてはこちらをご覧ください↓↓↓



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