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戦時下に、編集者たちがあらゆる手で世に送り出した本とは……【第3回】世界の編集者の読書論(2)――フランス、ドイツ|駒井稔

光文社新書

著者に寄り添い、あるいは対峙しつつも、読者と同じ立ち位置の存在でもある編集者ならではの気取らぬ読書論を、雑誌編集者として、また古典新訳文庫の編集者として長年活躍してきた駒井稔が、エッセイ風に綴ります。

「8歳から80歳までの本好きの方々に贈る、とっておきのブックガイド」

話題は日本だけでなく、海外の書店や出版社、編集者、作品へと縦横無尽に広がる予定です。肩の力を抜いてどうぞお楽しみください。


第3回:世界の編集者の読書論(2)

アフリカ人作家の突然の訪問


ある日の午後、眠気と闘いながら、上がったばかりの翻訳原稿を読んでいると、受付から電話がありました。

「お約束はないそうですが、受付にカマ・カマンダさんがお見えです」

カマ・カマンダ? 翻訳を専門に扱う部署ということで、普段から外国人が社を訪問しますので、別に驚いたわけではありません。ただ、名前にまったく心当たりがなかったことと、聞き慣れぬ響きに戸惑いを感じたことは確かです。

しかし、せっかく社を訪問してくれた人に会わずにいるわけにもいきません。今すぐ下に降りるからと答えて、一階の吹き抜けのあるロビーに行きました。

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そこには、日本人の女性を伴った大柄な黒人男性が、人懐っこい笑顔を浮かべて立っていました。握手を交わしてからロビーのテーブルに導くと、颯爽と椅子に腰かけます。アテンドの日本女性に向かってフランス語で何か話しかけています。

「今日は突然お邪魔して申し訳ありません。私の本の出版のことでご相談があり、こちらの会社では外国の文学も積極的に出版なさっていると聞いたもので、直接やってきました」

女性はカマ・カマンダさんの言葉を通訳してくれます。私は彼の大きな身振りを交えた売り込みを聞くこととなりました。彼の陽気で人好きのする自己紹介を聞き、彼が書いた非常に文学的な本の話を聞きました。

「どうだろう? 検討してもらえないだろうか」
「残念ながら、そういう傾向の作品は扱った経験がないので、ちょっと難しいですね」

私の紋切り形の断りの文句を聞くと、カマ・カマンダさんはぐっと身をのりだして言いました。

「なんだって、こんな立派な社屋があるっていうのに、私の本が出せないはずがないだろう。ガリマールの何倍も大きな社屋じゃないか」

「ガリマール社より大きいではないですか」


ガリマール? あのフランスの名門出版社として知られるガリマールより大きい? 唐突な比較に驚いて、私は思わず苦笑してしまいましたが、「ガリマールの社屋の大きさは知りませんが、その内容ですと、経験のない我が社では無理です」と答えるしかありませんでした。

その時は何も知らないままに応対しましたが、後で調べてみると、実は彼はすでにヨーロッパで活躍し、よく知られているコンゴ出身の詩人・小説家でした。今では日本のウィキペディアでも、その経歴を読むことができます。

そして彼は、その後、日本で自らの作品を刊行することに成功しています。『漆黒の王子――アフリカの吟遊詩人=グリオ36の物語』がそれです。私も出会いの強烈な印象があったので、後に刊行されていたことを知った時には購入して読みました。

その時も、ページをめくる度に「ガリマールより大きい社屋」と言ったカマ・カマンダさんの顔と声が浮かんできて読書の妨げとなりましたが、内容はアフリカで語り伝えられてきた幻想的な物語を自らアレンジした素晴らしいものでした。

漆黒の王子


今、世界文学におけるアジアやアフリカ文学が注目を集め始めています。古典新訳文庫でも、アフリカ文学の父と呼ばれるアチェベの『崩れゆく絆』という作品を刊行していますが、その作品に登場する幻想的な場面を彷彿とさせる内容です。一読する価値は十分にあるお勧めの本です。

2_崩れゆく絆

ちなみにガリマールの社屋も今はウィキペディアで見ることができますが、確かにあまり大きなものではありません。

ガリマール社

ガリマール社の社屋(2011年、Photo by LPLT, CC BY‐SA 3.0)
https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=15520948より


フランスを代表する出版社「ガリマール」


もちろん、ガリマールはフランスを代表する出版社です。フランス文学に興味のある方なら、名前を聞いたことがあるのではないでしょうか。その会社を立ち上げて一流の出版社に育て上げたのが、ガストン・ガリマールです。

その評伝が翻訳されて刊行されています。『ガストン・ガリマール――フランス出版の半世紀』がそれです。著者はジャーナリスト出身で、刊行時点では、出版社の文学部門の編集責任者を務めています。

3_ガストン・ガリマール


二段組みで500ページという大著ですので、読了に少々時間がかかりますが、副題にあるようにフランス出版史についても詳細に触れられていますので、内容は充実しています。

しかし研究者ではない私には、名前を聞いても分からない詩人、作家、評論家が続々と登場します。


かれ(ガストン・ガリマール)は、当初から自分の事業を長い持続という立場においていた。出版業者として若い頃から、安直にすぐ得られる成功を犠牲にして、その読者はごく限られた知的エリートの域をほとんど出ないといったような原稿に執着し専念する道を選んだ。


これに続くのが、この連載の第1回「ちょっと長いまえがき」で引用した文章です。ガストン・ガリマールはすぐに猛烈なビジネスパーソンに変身するのです。

これは前回取り上げた、ロシアのスイチンや、同じフランスの19世紀の出版人・エッツェルと同じです。決定的に違うのはガリマールは20世紀の出版人だということです。

プルーストとの出会い


彼は1881年に生まれましたが、その出版人としてのキャリアは20世紀のものです。とても裕福な家の出身でしたが、ビジネスとしての出版に取り組むと、それまでの恵まれたブルジョア階級の青年という行動パターンをあっという間に変えてしまいます。

ガリマールのキャリアは、国会議員の秘書を経て劇作家の秘書になることから始まりました。その頃、べネルヴィルというところで夏の休暇を過ごしていたガリマールは、劇作家協会代表の家を訪問した際に、ある出会いに恵まれます。向こうから歩いてくる奇妙ないでたちをした魅力的な男性に会うのです。その男性を代表が紹介してくれました。


「こちらはガストン・ガリマール……こちらがマルセル・プルースト……。」
ガストンがその名を耳にしたのはこれが最初だった。だがかれはすぐさま相手の眼差しにこめられたかぎりないやさしさ、身なりに見られる無関心と無頓着さに心を惹かれた。


これこそが、あのプルーストとの出会いでした。後にガリマール書店から、20世紀文学を代表する作品『失われた時を求めて』が刊行されることになるとは、この時は二人とも全く予想もしていなかったでしょう。

この作品は古典新訳文庫では高遠弘美さんの流麗な新訳で第6巻まで刊行されています。

4_失われた時を求めて


評価された「すぐれた編集者に必須な資質」


さて、ガリマールの話に戻ります。

1908年末にフランスの一群の作家たちが、自分たちの雑誌を創刊することを決めました。その雑誌は『新フランス評論』と名付けられ、一般には頭文字をとって『NRF』と呼ばれることになります。このグループで最も重要な人物が、アンドレ・ジッドでした。

ジッド

この『NRF』はたちまち大きな影響力を持つようになります。経営状態は厳しいものだったのですが、1911年にさらに出版部門を作ることを決めます。そのために理想的な経営者を探したのですが、そこで名前が挙がったのが、ガストン・ガリマールでした。資本金を出すことのできる財力をもち、文学にも深い造詣を持つ人物として、ガストンに白羽の矢が立ったのです。

もちろんジッドも出資しました。ガストンが気難しい同人たちから選ばれた理由は、専門的な教養があるわけではないが、作品の質を誤りなく見抜き、理論ではなく一種の勘によって、最良のものをただちに見つけることができる資質を評価されたからでした。すでにご紹介したスイチンやエッツェルも持っていた、編集者に必須な資質です。

こうして30歳のガストンは出版人となったのです。

一度はボツにされた『失われた時を求めて』


やがて、あのプルーストから『失われた時を求めて』の原稿を託されます。しかし、原稿審査会では、ジッドの発言とされる「どこもかしこも公爵夫人だらけだ。これはわれわれ向きではないな」ということでボツになったのです。

フランス文学の世界では有名なエピソードですが、ガストンたちは後にこれを大きな過ちだと認めます。ジッドも同じように自らの誤りに気付いて、プルーストに次のように謝罪します。


「この本を断ったことはNRFが犯したもっとも重大な誤りとして残るでありましょうし、私の生涯におけるもっとも苦々しい後悔、悔恨の一つ(と申しますのも私はこの件につき大いに責任があることを恥じているからですが)として残ることでしょう。」

ジッドは自らの判断の誤りをプルーストにこのように率直に詫びました。

これは実は大変なことだと思います。人間は自らの過ちをこんなにストレートに認めることは勇気が必要ですし、なかなか難しいことですから。

こうしてプルーストの作品は、NRF出版部、すなわちガリマールによって刊行されていくのです。

プルースト


英雄として死ぬより、卑怯者として生きて出版する


1914年、第一次世界大戦が始まりました。ガストンは戦争に断固として反対します。動員を逃れるために狂気を装い、知り合いの医者を利用するなど、あらゆる手段を試みたのです。英雄として死ぬよりも卑怯者として生きた方が良いと考えてのことです。

そしてこの大戦下でも、コンラッドやヴァレリーなどの本を手掛けます。仕事で訪問したアメリカで6カ月を過ごして、一つの結論めいたものに達しました。


「私は理解した――社が存続しうるためには、販売面での基盤と組織を作り上げなければならない。さもなければ友人同士が作っている企業にすぎず、善意だけではいつも十分だとはかぎらないということを。」

こういう見解も、スイチンやエッツェルとは少々スタンスの異なる20世紀の出版人を感じさせます。このような考えは必然的に、NRFの出版部門から本格的なガリマール書店の誕生につながっていきます。

1919年7月、株式会社ガリマール書店がスタートしました。この過程で一流の出版人として成長していくガリマールは、また新しいことに気づきます。出版の基本には広報活動があるということです。

広報活動


ガリマールはその重要さを誰よりも心得て、自らを広告塔にすることを厭いませんでした。教育が行きわたり、産業社会が高度に発達した世界では、出版も広報活動から自由ではいられないという判断でしょう。

まして21世紀の出版では、デジタルを駆使してSNSなどを多用する新しい広報戦略を世界の出版社が模索するのは、ある意味当然と言えます。

家政婦が見たプルースト、そしてガリマール


1919年12月、プルーストは『花咲く乙女たち』でゴンクール賞(フランスで最も権威ある文学賞の一つ)を受賞しました。この知らせを持ってプルースト宅を訪問したガストンたちは、家政婦のセレスト・アルバレから、本人は今は客と会える状態ではないと告げられるのですが、無理やり面会を果たします。

少し話は逸れますが、実はこの家政婦が書いたプルーストに関する本があります。『ムッシュー・プルースト』という題名で日本でも翻訳されています。これは素顔のプルーストを語った非常に興味深い本ですので、一読をお勧めします。

そして、この本には、セレストがなんとガリマールについて言及している部分があります。


ガリマールは大銀行家ラザールの娘と結婚していたが、背がすらりとして、とても上品で、社交的で、才気に富んだ立派な人物だった。

実は私はこういう本が大好きなのです。

ついでと言ってはなんですが、もう一冊お勧めするのは、フロイト家に53年間雇われていた家政婦が書いた『フロイト家の日常』です。ここに描かれた人間フロイトは、とてもリアルな存在感があります。こういう半ば伝説化した人物の身近な観察者の記録は、非常に面白いものだと思います。

5,6_ムッシュ・プルースト/フロイト家の日常


原稿の読み方、断り方


さて、『花咲く乙女たち』は数日で売り切れ、ガストンは増刷のために奔走します。NRF史上初めて「ゴンクール賞」と刷った帯が掛けられました。これは今の日本とあまり変わらない光景ですね。出版界におけるライバルだったグラッセとガリマールとの違いを、評伝の著者はこう書きます。


ガリマールは商売敵のグラッセとは反対に、ある原稿を読むと決めたときにはきちんと読み、“嗅い“だり、走り読みをするだけでは満足しなかった。というのはかれが批判するにせよ断るにせよ、それは詳細にわたるものでなければならなかったからだ。自分の著者に対して説明の義務があったからだ。さらに、相手が社と長い付き合いの友人や寄稿者であった場合には、原稿審査会の手紙を渡すだけですますことはできなかった。それに、作者が自分にとって親しい人間であればあるほど厳しい態度をとった。

事実、ガリマールは、日頃から若い人間に原稿の断り方の大切さを説いていたといいます。同じ編集者としてカマ・カマンダさんの原稿を即座に断った人間としては、耳の痛いところです。

話は変わりますが、この後ご紹介する予定のアメリカの編集者で、アンドレ・シフリンという人物がいます。彼の父親が作ったのが、有名なプレイヤード叢書です。

1933年、経営的に行き詰ったプレイヤード社を、ガリマール書店は吸収します。プレイヤード叢書はガリマール書店の輝くシリーズとして定着していくのです。こうして着々とガリマール書店は力をつけていったのでした。

ガストン・ガリマールは50歳になった時も、若い頃と変わらずダンディでした。

書店



ドイツ人検閲官も魅了された『異邦人』


やがて第二次世界大戦が始まります。ドイツに占領されたフランスの出版界で、ガリマールは老獪な手法を用いて、出版を再開、続行していきます。『NRF』誌は、理想的なファシストであるドリュ・ラ・ロシェルという作家を編集長として遇するという奇策を講じて、生き残りを図るのです。

ドイツ占領軍との交渉もやっと終わり、出版部門も再開された時、二人のドイツ将校が社屋にやってきました。その一人がゲルハルト・ヘラー。書籍検閲担当の中尉でした。

私は本書を読んだ時、この名前に既視感がありました。何故だろうと思いながら読み進めていくと、こんな一節がありました。原稿審査会の様子です。ある作品が全員一致で採用されました。


最後には本来は検閲官でありながら、暗黙裏に審査会の一員になっていたヘラー中尉までがカミュの『異邦人』の原稿――友人のパスカル・ピアの手によってもたらされた――に熱中してしまったのである。

なんと『異邦人』に、ドイツの検閲官が魅了されたというエピソードです。ヨーロッパの文化の奥深さを感じさせる話だと思いませんか。

そしてこの検閲官ヘラーの、聞き書きによる自伝『占領下のパリ文化人――反ナチ検閲官ヘラーの記録』が刊行されていたことを思い出したのです。やっとのことで、表紙が茶色く変色した本を書棚の奥から探し出しました。

改めて読み返してみると、この明確に反ナチと名乗る検閲官の経歴や、ナチス占領下のパリでの作家や出版人の行動が、独自の立場から描かれていて、ガリマールの評伝と合わせて読むと、大変興味深い内容であることが分かりました。この本はお勧めです。

7_占領下のパリ文化人


ガリマールのことはこの本でもちろん言及されています。この検閲官が、フランス文学はもちろんのこと、文学の大変な理解者であることが分かります。『NRF』がどのように存続しえたのかも赤裸々に描かれています。もちろん、ドイツ人のヘラーの目から見た歴史ではありますが。

「パリの出版人たち」と題された一章に、ガリマールへの言及があります。ちょっと長くなりますが、重要な記述が含まれますので引用します。


とりわけジャンヌと一族の長ガストンとは仲良くなった。(中略)精力的で聡明なこの人物は、私にとっては、出版人の完璧なモデルであったし、彼と彼の職業について話ができることは、私にはいつも大きな出来事のように思われた。彼は、占領時代を通じて、かなり難しく危険な賭(かけ)をしなければならなかった。ガリマール系の作家のうちには、対独協力者も対独抵抗者もいたし、さらにはユダヤ人さえもいた。(中略)ガストン・ガリマールはなによりも社の存続に心を砕いていた。この目的を果たすために、彼はドリュ(・ラ・ロシェル)による『NRF』誌の再刊と、数多くの対独協力作家の作品の出版を受け入れたのであった。

ドイツの検閲官として直接の関係があった人物の記録を読むと、彼はガリマールのマキャベリズム(政治目的のためには手段を選ばないやり方)をよく理解していたことが分かります。だからこそ、自ら事実上の原稿審査員の仲間になり、『異邦人』に感動できたのでしょう。

「フランス文学、それは私だ」


戦後になって、戦時下での振る舞いについて追及を受けたガリマールを、作家たちがかばいます。紹介されているサルトルとカミュの弁護は実に説得力があります。このような弁護のおかげで、ガリマール社に対する批判は終焉を告げました。こうして戦後の出版活動は着実に進められたのです。

しかし大きな悲劇もありました。1960年1月、ガリマールの甥であるミッシェル・ガリマールは、カミュを乗せて車を運転中に交通事故を起こします。カミュは即死。ミッシェルも数日後に亡くなります。その時、誰にも涙を見せたことのないガリマールが、社長室で手で顔を覆って泣いているのが目撃されています。

カミュ


やがてガリマールの老いが進み、息子のクロードに会社の経営を委譲していきます。回想録を書くことも拒み続けた彼は、1975年秋、94歳で突如息をひきとりました。

フランスの近代において、ガリマールが偉大な文芸の帝国を築いたことは、後々まで記憶されることでしょう。本書(『ガストン・ガリマール』)には綺羅星のごとき作家たちが登場します。ラディゲ、コクトー、サン=テグジュペリ、セリーヌ、そしてジュネまで、それこそ20世紀を代表する世界的な作家たちの名が挙がるのです。

前述したように、この評伝のサブタイトルは「フランス出版の半世紀」です。「フランス文学、それは私だ」と言ったというガリマールは、妄想狂ではなかったことが理解できる貴重な一冊です。

『ナチス通りの出版社』――ドイツの出版人たち


それでは次に、ドイツの出版人をご紹介しましょう。

英米やフランスの出版に関する本は、前にも触れたようにそれなりの数がありますが、ロシアと同じように、ドイツの出版について書かれた本は、貴重です。それが、前回予告した『ナチス通りの出版社』です。

この本は、ベルリンの壁崩壊直前の1989年6月に刊行されています。

8_ナチス通りの出版社


序文で書かれているように、タイトルからはナチスに積極的に加担した出版社を想起してしまいますが、実際は逆です。ナチスによって弾圧された出版人の記録なのです。

ドイツ第二帝国から第一次世界大戦を経てヴァイマール共和国へ、さらにナチス第三帝国と第二次世界大戦という、まさに激動期のドイツの出版界を描いているのです。

北海道大学で開かれた日本独文学会で、執筆者4人が「出版社と作家たち――20世紀ドイツの場合」というシンポジウムで発表した内容を、一書にまとめたものです。

研究者たちが書いた本ですから、専門的な知識のない私のような読者では、初歩的な間違いをしてしまうのではないかと恐れてもいますが、それでも本書を紹介しておきたい気持ちを抑えきれませんでした。

本書が成立した事情については、同書の「序文」から引用しましょう。


今日一つの文学作品が作者の手を離れてから読者の手にわたるまでの過程で出版、宣伝、販売などの諸活動がはたす役割の大きさは、どうかすると仲介機構が作者の創造行為をも読者の受容行為をも決定的に規定してしまっているのではないかと思われるまでに肥大化しつつある。近年、文学の歴史において出版社のはたした役割にあらためて強い関心がよせられ、さまざまな研究や資料収集がおこなわれるようになったのも、このような今日的状況と深くかかわっているはずである。というのも、いかに仲介過程が複雑化し、仲介機構のもつ役割が肥大化しようとも、文学という社会的営みにおける最も重要な仲介者は、言うまでもなく、出版社という企業体だからである。

1989年の段階で、このような21世紀的な問題意識をもって本書は書かれているのです。これは優れた先見性だと思います。

それとともに、本書を読んでいると、自分の近現代のドイツ文学の知識不足を痛感させられます。これはたぶん私だけの問題ではなく、多くの日本人に共通することだと思います。

ですから、日本でもよく知られた作家のエピソードを中心に紹介していきたいと思います。

また、ナチスの時代を含めて、日本の状況とある意味よく似ているドイツの文学事情に関する情報が、英米、フランスのそれに比べて著しく不足している理由を考えるべき時代に来ていることも痛感させられます。

フィッシャー「革命的なものを古典にする」力量


本書で取り上げられているのは、S・フィッシャー社、キーペンホイアー書店、ローヴォルト書店、マーリク社という、ドイツの代表的な四つの出版社です。

まず、S・フィッシャー社についてです。

1886年に創立されて、短期間のうちにドイツはもちろん、ヨーロッパでも有数の文芸出版社となります。

1859年、ハンガリーの小さな町で生まれたユダヤ人であるザームエル・フィッシャーは、書店の見習いなどを経て、24歳でベルリンの中心部にある出版社の共同経営者になります。それからわずか3年後に、26歳で自分の出版社を立ち上げるのですから大変な才覚の持ち主です。

しかも、最初に刊行した6冊すべてが、イプセンやゾラ、トルストイを含む新しい外国文学だったといいます。さらには売れる小説ではなく、戯曲を中心にラインナップを作っていきます。これは非常に個性的な考え方のように思えます。

本書ではトーマス・マンが、1934年に75歳で死去したフィッシャーに捧げた追悼文が紹介されていますが、そのなかでこのような革命的な取り組みについて触れています。


フィッシャーには、古典的なものにたいする、あるいは、古典的になることにたいする感覚が、革命的なものを古典的な域に流入させるのを好む傾向が顕著に認められただけに、このコッタ(ゲーテやシラーの作品を刊行した古典主義を代表する出版社)との比較はいっそう当を得たものになる。彼は成長の人だった。成熟しつづけて、生涯の仕事をまとめあげる人、立派な全集をまとめあげる人だった。彼自身も革命家として、来たるべきものを先取りする進取の企業家として出発し、彼の出版社は、亜流の支配する文学界に、国際主義的かつ社会主義的傾向をもつ自然主義によって新風を吹きこむのに貢献した。……彼の送りこんだ文学は、市民にとっては狂暴で破壊的であり、公権力と対立するものだった。

いくら弔辞と言っても、さすが作家・トーマス・マンです。文学の持つ危険な要素と、権力とすら対峙することを厭わないという原則からフィッシャーを悼んでいるのです。

トーマス・マン_Thomas_Mann_1937

それというのも、フィッシャー社と生涯にわたる関係をもったマンは、21歳の時に無名の作家として、フィッシャーに最初の原稿を送ったのです。月刊誌の編集長は具眼の士でした。それどころか、他の原稿があればすべて送れという連絡さえもしたのです。

この時期に「フィッシャー叢書」というポケット版の洒落た装幀シリーズの企画を進めていたこともあり、フィッシャーが新しい作家を探していたことも、マンには有利に働いたといいます。

マンの地位を確立した大胆な決断


しかし、トーマス・マンの最初の短編集『小男フリードマン氏』は売れ行きはさっぱりでした。そこで、あまり長くない長編をとフィッシャーが勧めて、書かれたのが『ブッデンブローク家の人びと』ですが、これが予想以上に長いものになり、執筆に3年もかかる大作となりました。

B_ブッデブローク家の人びと


フィッシャーもこれを半分くらいに圧縮して出すことを提案します。この時のマンの答えはさすがです。「膨大な分量はこの小説の本質的特性である」からこのままで刊行してほしいと言ったのです。

いろいろありましたが、1901年に2巻本、1100ページ、初版1000部の本として世に出ます。一年でなんとか売り切ったのですが、ここからが出版人フィッシャーの面目躍如です。

たまたま同じ時期に出した他の小説が、同様の厚さにもかかわらず一巻本で売れたので、1903年、フィッシャーは『ブッデンブローク家の人びと』も、薄い紙を使って一巻本にまとめて売り出すのです。

なんと、下巻のページ数の1から始まる表示は、一巻本にまとめた際にもそのままという、乱暴かつ大胆な試みでした。これが売れたのです。企業家としての面目躍如だと思いませんか。

権力と対峙する覚悟もありながら、ビジネスパースンとなると、極めて大胆というより乱暴ともいえる決断を下すのです。結果として、1903年に一万部。1908年までに5万部が売れたと言います。

これでトーマス・マンの作家的地位は確立されました。

マンの作品は、古典新訳文庫ではまず浅井晶子さんの訳で『トニオ・クレーガー』があります。これは三島由紀夫の愛読書だったことで有名ですが、新訳で読むと、ひと際ディテールが鮮やかに浮き上がってきて、この小説の真の姿がよく分かります。

9_トニオ・クレーガー


また、岸美光さんの訳で『だまされた女/すげかえられた首』『詐欺師フェーリクス・クルルの告白』が刊行されています。

マンは『魔の山』に象徴されるドイツ人らしい謹厳な作風を連想する方が多いと思いますが、『だまされた女/すげかえられた首』は、20世紀文学の主題であるエロスをテーマにした小説で、初めて原稿を読んだ時にはひどく驚いたことを覚えています。

そしてなんといってもお勧めは『詐欺師フェーリクス・クルルの告白』です。抱腹絶倒とはこのような小説のことを言うのでしょう。フェーリクス・クルルの詐欺師人生を読んでいると、トーマス・マンという作家の像が劇的に変わっていくのを感じます。これは個人的にもお勧めの一冊です。

10,11_だまされた女/すげかえられた首_詐欺師フェーリクス・クルルの告白


無名のヘッセが看板作家の一人に


さて、マンが売れ始めた1903年、無名のヘッセに、その詩を読んだフィッシャーは手紙を送ります。当然ですが、一流出版社からの誘いに喜んでヘッセが書いたのが『ペーター・カーメンツィント』です。

フィッシャーはこの小説がたくさんの人に読まれるとは思っていなかったようですが、発売直後から5年間で5万部という、当時としては極めて好調な売れ行きとなりました。

12_ペーター・カーメンツィント


ヘッセの評価は高まり、1905年10月に発売された『車輪の下』は、その年の年末までに1万5千部が売れるという好調なスタートを切りました。まさにフィッシャー社の看板作家の一人となったのです。

古典新訳文庫では、猪股和夫さんの新訳で『ペーター・カーメンツィント』、松永美穂さんの新訳で『車輪の下で』、酒寄進一さんの新訳で『デーミアン』があります。青春時代に一度は読んだことのある方も多いかと思いますが、大人になってからヘッセのこれらの作品を新鮮な新訳で読むと、意外なほど理解が進むことに驚かれることでしょう。

13,14_車輪の下で_デーミアン


拠点を移しながら生き延びたフィッシャー社


1908年頃から、第一次世界大戦とその敗北、革命の大混乱のなかで、本来文芸書が中心であったフィッシャー社は、次第に政治、経済、社会へと出版の幅を広げていきます。

この主流としてのフィッシャー社に対して、新興のクルト・ヴォルフ社が伸びてきます。表現主義文学運動の核となって活動するのです。

しかも、トーマス・マンの兄であるハインリヒ・マンの作品を全集として1916年に売り出すと、驚異的な売れ行きとなりました。このクルト・ヴォルフ社の宣伝戦略は、極めて大胆なものでした。


書物も商品である以上、販売の決め手は一にも広告、二にも広告であるとばかりに、同社は各種の日刊新聞に大々的な広告を出しつづけ、また街路上の広告塔にどぎつい赤色のポスターで新刊書の広告を貼り出すことも辞さなかった。

100年も前に今日にも通じる広告宣伝戦略を試みた出版人がいたのですね。これは大変示唆的です。

もちろんというべきか、こういうやり方にはフィッシャーは批判的でした。やがてヒトラーが登場し、名実ともにドイツの独裁的支配者になった1934年に、フィッシャーはこの世を去ります。

しかし、その前から実質的に社業を引き継いでいた娘婿が、その後の社業を続けていくのです。1935年にはナチスとの話し合いで、社の半分を合法的に国外に移すことに成功します。社の拠点をウィーン、ストックホルム、ニューヨークと転々と移しながらも、マン、フロイトなどの主要な作家の著作を継続して刊行したのです。

ニューヨーク


その後、ナチの敗北、東西ドイツへの分割、ベルリンの壁の出現など、激しい歴史に翻弄されながらも、激動の100年を生き抜いて、現在もドイツ文化を代表する出版社の地位を維持し続けていることは、称賛に値するでしょう。


出版人とは「世界全体の知性の代弁者」


次はキーペンホイアー書店についてです。

キーペンホイアー書店も、興味深い出版社です。『西洋の没落』を書いたシュペングラーと高校の同級生であったというキーペンホイアーの、出版人の定義は、非常に理想主義的です。


出版人はその時代とその時代の潮流の認識者であるとともに、それを越えて人類の未来を信ずる理想家でもあるからだと、彼は説いている。(中略)出版人はその時代の顔を具現しており、自分の国の、そして世界全体の知的な人たちの代弁者、それが出版人である、それゆえに、自分は現代の個性的な相貌を読者に認識してもらうように努めているとも述べている。

ここまで理想主義的な見解を述べているのは稀だと思う反面、自らを省みて忸怩(じくじ)たる思いがあるのも確かです。1922年には劇作家ブレヒトを出版し始め、1933年にナチス政権が誕生するまでに彼のすべての作品を刊行しています。

私自身もブレヒトは大好きな劇作家です。古典新訳文庫では、谷川道子さんの新訳で、有名な『三文オペラ』をはじめ『アンティゴネ』『母アンナの子連れ従軍記』、そして丘沢静也さんが新訳した短篇集の『暦物語』があります。

15,16_三文オペラ_アンティゴネ


日本では戯曲は売れないというのが、出版界の共通認識になってしまった感がありますが、経験上そんなことはないと思います。こんなに面白い戯曲なのかと原稿を読みながら何度思ったことでしょう。

今の若い世代にもぜひ、ブレヒトを手に取ってもらいたいと思います。最初に読むのには個人的には『母アンナの子連れ従軍記』がお勧めです。

17,18_母アンナの子連れ従軍記_暦物語


社主キーペンホイアー自身はアーリア人ですが、編集および経営陣にユダヤ人を重用していたために、世間ではユダヤ人だと思われていたので、事実を知ったゲシュタポも驚いたということです。

商売人と化した編集者への警句


さて、三つ目の出版社はローヴォルト書店です。

カフカの最初の散文集である『観察』は、1912年にここから出版されました。これはカフカ自身がローヴォルト個人の特異な個性に惹かれたこともあり、自分の最初の小説の出版をローヴォルトに決めていたからです。

実際にはこれ以後、いろいろと難しい問題が起きて、カフカは別の出版社から本を出すようになりました。

このようなローヴォルトが、ある雑誌に書いた「作家たちと付き合うための指針」というユーモアある文章が紹介されています。


「お前が、この商売とは言えぬ商売を20年やったときには、自分を導くものが、芸術的本能なのか、それとも商売人の本能なのか、もうお前自身にも区別がつかないだろう。お前は既にどっちつかずの両棲動物になっているのだ」

これは出版人というか編集に携わる人間が、経済的な要因で堕落してしまうことに対する、ユーモアたっぷりではあるけれどある意味、とても厳しい警告だと思います。これが分からなくなると、そして実際に分からなくなる人間も見てきましたが、もう編集者とは言えないのではないでしょうか。

ドイツはイギリスなどに遅れて工業化が進み、20世紀に大きな経済的発展を遂げますが、そのこともあって、ローヴォルト自身、こういう警句を発したくなるような事例をたくさん見てきたのでしょう。

ドイツ_書店


戦時下に原点に立ち戻った出版人の記録


最後にムージルのエピソードを紹介して、ローヴォルトがどのように理想主義を貫いたかをみてみましょう。

ムージルと言えば、20世紀ドイツ文学を代表する作家の一人で、未完の大作『特性のない男』がすぐに頭に浮かびます。

ムージルは1906年に『生徒テルレスの惑乱』でデビューを飾りました。これは古典新訳文庫では『寄宿生テルレスの混乱』というタイトルで、丘沢静也さんの新訳で読むことができます。非常に優れた翻訳ですので、ぜひ一読をお勧めします。

19_寄宿制テルレスの混乱


そのムージルが1923年にローヴォルト書店と契約を結んだ時の作品こそ、『特性のない男』でした。

当初はムージル自身は2巻本として考えていたので、ローヴォルトも2年もすれば第1巻は完成するだろうと考えて、月々の定額の支払いをして生活を支えました。

しかし、2年半にわたって送金したものの、ローヴォルトが受け取ったのは、たった100ページの原稿だったといいます。同じ編集者として、その落胆ぶりは想像がつきます。当然ローヴォルトは支払いを中止しました。

ムージルは人を寄こして懇願し、仕送りは再開されます。二人はやり取りを重ねます。才能を信じるローヴォルトの忍耐はいかばかりかと思いますが、それでも怒りは噴出します。一方ムージルは、何度も稿を改め、果てしなく長篇の書き直しを続けるのです。

その後、インタヴューを受けたローヴォルトの発言が『ナチス通りの出版社』に引かれています。「私は彼の言いなりなっていたと言いたいくらいです」と言及した後で、金銭的援助をするから、きちんと原稿を書くという契約がいかに反故にされたかを述べています。ムージルの言い訳はなんとも凄いものです。


「『ローヴォルトさん、もしあなたがお金を下さらないなら、私はもう生き続けることができません。それなら、私には他の手段は何も残されていません。私はピストルで自殺せざるをえません!』私(ローヴォルト)は、彼なら実際そうするだろうと信じました。そこで繰返し彼を助けたのです」

これではもう立派な脅迫ですね。

しかし、第1巻が完成したのは、契約後7年経った1930年。1929年に始まった世界大恐慌のあおりを受けて、ローヴォルト書店も経営危機に陥ります。乗り込んできた管財人が、当然ですが『特性のない男』を問題にしました。管財人に原稿審査主任が、自分もローヴォルトもこの本の物質的成功など全くありえないと考えていると言います。

しかし「見込みのないのは当面、物質的成功だけであって、この本の文学的価値については疑問の余地がない」と管財人に言うのですから、立派なものです。この抵抗に、管財人も妥協を余儀なくされ、ムージルへの財政的援助は続くことになったというのです。

こういう出版人はもちろん日本にもいるでしょうが、普通はこのような決断を下すのはなかなか大変だと思います。困難な状況下で、第2巻は1933年末に未完のまま刊行され、ムージルは1942年に、膨大な遺稿を残して亡命先のジュネーブで亡くなります。

しかし、『特性のない男』は、20世紀のドイツ文学における非常に重要な作品として評価されていることは、ローヴォルトたちの功績と呼んでもいいと思います。このエピソードこそ、本書で一番気に入っているものの一つです。

20_特性のない男


本書(『ナチス通りの出版社』)が1989年に刊行されたことは前に触れました。まだ東西ドイツは存在していて、ベルリンの壁もあった時代です。序文の最後の言葉を引用してこの項を終わりたいと思います。


ナチスの迫害によっていっさいの虚飾を剝ぎ取られ、出版人としての原点に立ち戻ることをよぎなくされた人びとの生きざまを見直しておくことは、出版人をはじめ仲介機構にたずさわる人びとにとってばかりでなく、芸術作品の創造者や思想の発信者にとっても、そして、芸術作品の享受者、思想の受信者にとっても、決して無意味ではないと信ずるものである。


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第3回の読書ガイド


『ガストン・ガリマール――フランス出版の半世紀』ピエール・アスリーヌ著、天野恒雄訳、みすず書房
・『漆黒の王子――アフリカの吟遊詩人=グリオ36の物語』カマ・カマンダ著、高野優監訳、バベル・プレス
『崩れゆく絆』チヌア・アチェベ著、栗飯原文子訳、光文社古典新訳文庫
『失われた時を求めて』マルセル・プルースト著、高遠弘美訳、光文社古典新訳文庫
『ムッシュー・プルースト』セレスト・アルバレ著、三輪秀彦訳、早川書房
『フロイト家の日常生活』デトレフ・ベルテルセン著、石光泰夫・石光輝子訳、平凡社
『占領下のパリ文化人――反ナチ検閲官ヘラーの記録』ゲルハルト・ヘラ―著、大久保敏彦訳、白水社
『ナチス通りの出版社――ドイツの出版人と作家たち1886-1950』山口知三・平田達治・鎌田道生・長橋芙美子著、人文書院
『ブッデンブローク家の人びと』トーマス・マン著、望月市恵訳、岩波文庫
『トニオ・クレーガー』トーマス・マン著、浅井晶子訳、光文社古典新訳文庫
『だまされた女/すげかえられた首』トーマス・マン著、岸美光訳、光文社古典新訳文庫
『詐欺師フェーリクス・クルルの告白』トーマス・マン著、岸美光訳、 光文社古典新訳文庫
『ペーター・カーメンツィント』ヘルマン・ヘッセ著、猪股和夫訳、光文社古典新訳文庫
『車輪の下で』ヘルマン・ヘッセ著、松永美穂訳、光文社古典新訳文庫
『デーミアン』ヘルマン・ヘッセ著、酒寄進一訳、光文社古典新訳文庫
『三文オペラ』ベルトルト・ブレヒト著、谷川道子訳、光文社古典新訳文庫
『アンティゴネ』ベルトルト・ブレヒト著、谷川道子訳、光文社古典新訳文庫
『母アンナの子連れ従軍記』ベルトルト・ブレヒト著、谷川道子訳、光文社古典新訳文庫
『暦物語』ベルトルト・ブレヒト著、丘沢静也訳、光文社古典新訳文庫
『寄宿生テルレスの混乱』ローベルト・ムージル著、丘沢静也訳、光文社古典新訳文庫
『特性のない男』ローベルト・ムージル著、加藤二郎訳、松籟社


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【著者プロフィール】


(小)プロフィール写真_駒井稔_DCA0449_web用


駒井 稔(こまい・みのる)
1956 年横浜生まれ。慶應義塾大学文学部卒。'79 年光文社入社。広告部勤務を経て、'81 年「週刊宝石」創刊に参加。ニュースから連載物まで、さまざまなジャンルの記事を担当する。'97 年に翻訳編集部に異動。2004 年に編集長。2 年の準備期間を経て'06 年9 月に古典新訳文庫を創刊。10 年にわたり編集長を務めた。著書に『いま、息をしている言葉で。――「光文社古典新訳文庫」誕生秘話』(而立書房)、編著に『文学こそ最高の教養である』(光文社新書)、『私が本からもらったもの――翻訳者の読書論』(書肆侃侃房)がある。現在、ひとり出版社「合同会社駒井組」代表。

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