耕作放棄したっていいじゃないか
【連載】農家はもっと減っていい:淘汰の時代の小さくて強い農業③
㈱久松農園代表 久松達央
農業が抱える問題は何かを世の人に問うと、耕作放棄地を挙げる人が少なくありません。昔から農家が守ってきた農地が荒廃するのは見るに忍びない、というわけです。
日本中どこへ行っても車窓に広がる水田を、日本の原風景だと思う人は存外多いようです。しかし、実際には現在私たちが目にしているような平地での米づくりが広がったのは江戸の前期、400年ほど前に過ぎません。それまでは、田んぼは水を得やすい谷間や山麓を中心につくられていました。
太平の時代に入り、侵略による領土拡大ができなくなった領主たちは、国力増強の手段として自国領の開発を行わざるを得なくなりました。そうした背景の中、土木技術の進展で可能になった新田開発が大々的に進められた結果、平場での米づくりが一気に進みました。
この時代に競って米がつくられたのは、食べるためというよりも、それを販売することで藩の財政が成り立っていたからです。山を削って棚田をつくるような無理なことをしたのも、ひとえにそれが「儲かる」からです。
新田開発は江戸時代後期には一旦停滞しますが、明治以降、海外から導入された河川工学や近代土木技術の発展と共に再び大規模な農地開発が進みます。士族の失業対策、政府の財政基盤の強化などの目的で大々的に推奨された農業の自由化と耕地開発は、戦前戦後の食糧難を解消するためにさらに加速しました。これが、今の私たちが目にする「一面に広がる水田風景」のバックグラウンドです。
農地は、戦後の都市化で都市的利用への転用が進み、現在の耕地面積437万haの6割以上にも相当する280万haが、たった60年の間に失われています。もし、このような農地の利用転換がなかったと仮定すると、計算の上では最大で720万haの耕作地が存在していたはずです。その農地の8割は江戸時代以降、5割は明治以降に開発された新しい農地です。つまり農地の半分は「先祖代々」というほど昔からあったものではないのです。この数字の印象は、多くの人の「伝統の農業国ニッポン」のイメージとはギャップがあるのではないでしょうか。
段々に連なる棚田を日本の「原風景」として熱心な保全活動を行っている人たちがいます。その開発と維持に費やされてきた膨大なエネルギーには敬意の念を抱きますが、これを原風景と称するのにはかなり無理があります。その多くが、江戸時代以降に新田開発の政治文脈の中で開発されたものだからです。数aばかりの形のいびつな棚田に必死にコンバインを入れて稲刈りをしている現代の農家の姿を、目先の財政のために後先を考えずに山を削って田んぼをつくった大名たちはどう思うのでしょうか。
このように、そもそも現在の日本の農地は、長期計画に基づいて総合的に開発されたものではありません。歴史の折々に、地域の様々な要請の中でつくられてきたものです。ある時代に役割を果たしたからと言って、未来永劫存在意義があるとは限りません。耕作放棄が問題と言いますが、耕作が続けられないような悪条件な場所は、そもそも農業に向いていない場所を無理やり開発した土地だった、ということも珍しくないのです。
機械技術の発展に伴い平地での大規模生産が加速していること、人口が右肩下がりで主食米の需要が縮小し続けていること、などと合わせて考えれば、「農地はすべて守らなくてはいけない」という命題は、論理的に破綻しています。端的に言って、今の面積の農地はこの先は不要なのです。
※本連載は今夏に刊行予定の新書からの抜粋記事です。
久松さんと弘兼さんの対談が掲載されています。