『ホークス3軍はなぜ成功したのか?』喜瀬雅則著/第2章「逸材を探せ」を公開します
光文社新書編集部の三宅です。今朝、嬉しいニュースが飛び込んできました。「プロ野球6・19開幕へ」(日刊スポーツ)。まだ新型コロナが収束したわけではなく、第二波についても警戒する必要はありますが、贔屓のチームの試合に一喜一憂できる日常が戻ってくる可能性が出てきただけでも、心が浮き立ちます。さて、『ホークス3軍はなぜ成功したのか?』の第2章についてです。3軍という箱を作っても、その中で立派に育つ選手がいなければ意味がありません。当然のことながら、ダイヤの原石を見つけてくるスカウト、それを磨き上げる育成の役割が重要になってきます。加えて、スカウトと育成の連携も必要でしょう。本章の主役は、現ホークス2軍監督の小川一夫氏、そして、その小川氏に多大な影響を与えた「球界の寝業師」根本陸夫氏も登場します。小川氏は、スカウト時代にまったくの無名だった千賀滉大投手を見出したことで知られていますが、千賀投手が入団すると2軍監督に”異動”。その人事を行ったのは、当時、編成のトップだった小林至氏。明確なビジョンとコンセプトを持つ機能的な組織が、いよいよ動き出します。
目次・序章「俺を使え」はこちら。第1章「3軍を創る」はこちら。
「埋もれていた金」を見つけ出す
「3軍」を創る。
その新ユニットは、単体で試合を行い、専任の監督もコーチも置く。
フロントとともに「育成計画」を立て、双方の確認のもと、着実に実行していく。
2010年(平成22年)当時、スカウト部長だった小川一夫は、小林と何度となく繰り返したミーティングを通して、その重要性が十分に理解できたという。
むしろ、そうすべきだと、かねてから小川も思っていたのだ。
「いい人材を獲って、合った指導をして育てる。そこはリンクしている。だからスカウトとコーチってのは、大事なんだよ」
目立たない、埋もれている素材を発掘して、育て上げる。
それは、スカウトにとっては当然のミッションであり、己の「目」の確かさが問われるシビアな作業でもある。
2010年(平成22年)夏。
編成育成部長の小林至は〝鷹の目利き〟に「3軍制」の新構想を打ち明けた。
「それは面白いですよ。やりましょう」
ただ、10月のドラフト会議まで、2か月足らずしかない。
「もう一回、リストを洗い直してくれ」
小川からの緊急通達が、全スカウト陣に届けられた。
とにかく「3軍1期生」を、大急ぎで探さなければならないのだ。
ドラフト指名の候補リストから消した選手を、もう一度洗い直す作業だ。
育成選手を、少なくとも5~6人は獲っておかないと、まず3軍の試合が組めない。だからといって、むやみに誰でも獲ればいいというものでもない。
「数の原理なんだけどな。その中に『金』が混ざってないとダメなんや。そこを見極めんといかんし、それを見極めるのが、プロのスカウトの仕事だよ」
単純明快なスカウティングの極意を力説した小川は、2020年(令和2年)のシーズンを、ソフトバンクの2軍監督として迎えている。
スカウト歴は四半世紀以上。2軍監督としても通算6年目になる。
1954年(昭和29年)生まれ。
還暦を優に超えているにもかかわらず、浅黒く日焼けした精悍な表情は、ユニホーム姿とも相まって、年齢を感じさせない力強さと迫力を感じさせる。
この男が、数々の「埋もれていた金」を見つけ出してきたのだ。
一人三役
1972年(昭和47年)
小川は、ソフトバンクの前身となる南海に、ドラフト5位で指名された。
北九州の戸畑商で「4番・投手」として活躍。3年夏の福岡県大会決勝では、古豪・東筑高に0‐1で惜敗、最後の夏に甲子園へコマを進めることはできなかった。
ところが、ドラフト指名を受けたとき、ポジションとして発表されたのは「捕手」だった。
小川は、今でいうところの「ユーティリティープレーヤー」だった。
センバツ出場は2度。その甲子園では、左翼と三塁を守ったという。
2年秋の新チームに切り替わったとき、チーム事情から一時期、キャッチャーを務めていたことがあった。
そのプレーぶりを評価したのが、南海の名スカウト・石川正二だった。
親分・鶴岡一人が全国に張り巡らしたスカウト網。石川は「九州探題」と呼ばれるほどの情報通として鳴らした。
40年近くにわたるスカウト生活で、通算479盗塁という当時のプロ野球記録を樹立した名遊撃手・木塚忠助をはじめ、レジェンド級のプレーヤーを数多く発掘している。
その石川から「キャッチャーをやらんか?」と声をかけられたのだという。
「投手だったけど、野手投げ。(右腕を引き上げる際の)後ろが小さかったんだ。だから高校止まりの投手。その分スローイングはよかった。それを見てくれていたんだよな」
それでも、プロ6年間の現役生活で、1軍出場はわずか1試合だった。当時の南海は、野村克也が監督兼任の正捕手。ノムさんを超えるのは、並大抵のことではない。
「努力は、ホントにしたからな。だから、すぐに結論は出せた。自分としても、レギュラーになるのは大変。6年やって、そういう仕事も面白いかなと」
引退直後の小川に任されたのは「2軍マネジャー兼バッテリーコーチ」
要するに、現場と裏方の一人二役だった。
「人が足りない、ってこともあったんだけどな」
こうした兼務が、今の小川の基礎を作ったともいえるだろう。
4年間、しっかりと裏方のノウハウをつかんだところで、小川が兄貴分として慕っていた穴吹義雄が、1983年(昭和58年)から1軍監督に就任する。
小川が穴吹から命じられたのは、これまでよりさらに〝一仕事増〟の一人三役だった。
「監督室室長」兼「投手コーチ補佐」兼「ブルペンコーチ」
昭和50年代当時のプロ野球は、エースが1人で投げ切るのが基本。100球をメドに交代するような概念からは程遠いものがあった。
今なら、セットアッパーは8回、ストッパーは9回。その役割分担が明確だ。今とは、その中身が大きく違っている「分業制」とはいえ、これが徐々に浸透していく中で、ブルペンで準備する救援投手の調整や調子を伝え、交代のタイミングを計るためにベンチと連絡を取り合う〝仲介役〟が必要になってきた。
それまでは、投手コーチは1人だった。
ブルペンにコーチがつくということはなかった時代に、小川は穴吹のマネジャー役を務めながら、試合中はブルペンで、リリーフ投手陣を管理していたのだ。
今では、ベンチに入るコーチと、ブルペンに入るコーチの「2人制」が、投手部門では普通のことになっている。
穴吹のスタッフ配置は、野球界の将来を見通したような先見の明があった。
しかし、穴吹時代の3年間は5位、5位、6位。
低迷の責任を取って穴吹が監督を退任すると、小川はフロントから「査定の仕組みを作るように」という、新たなミッションを受けることになった。
査定担当は、1軍の試合を見ながら、その一球、そのワンプレーごとに評価を下し、球団の評価システムに基づいて、ポイントをつけていく。
例えばリリーバーなら、ブルペンで待機して登板がなくても、万が一に備えて投球練習をした球数が査定対象になったりする。
こうした細かいデータを、全試合にわたって記録し、選手ごとにまとめていく。
いかに客観的で、公正で、分かりやすいものにするか。小川のつけるポイントは、選手たちの年俸にストレートに反映されるのだ。
「最初は分からなかったよ、全く。でも面白かったね」
見て、分析し、評価した上で、それをポイントという「形」にしていく。
野球を、そして選手たちに注ぐシビアな「目」が、さらに養われていった。
小川は現役引退からの10年間、コーチとして、裏方として、さらにフロントの一員として、チーム作りの「表」も「裏」も経験してきたのだ。
根本陸夫との出会い
1988年(昭和63年)
野球界に大きな変革の波が訪れていた。
阪急ブレーブスが、リース会社のオリックスに、南海ホークスも、スーパーマーケットを全国展開する小売業の雄・ダイエーへ売却されることになった。
南海の本拠地は、大阪・難波から福岡へと移ることになった。
「一夫君、私の後を継ぎなさい」
小川をプロの世界に導いたスカウトの石川正二が、第一線からの引退を決意していた。
南海からダイエーへ。球団売却を潮時に、小川に「スカウト」の座を譲るというのだ。
「もっと、いろいろと何かあるだろうなと思っていたときに、タイミングよく、声をかけてもらったんだよね。スカウト、面白そうだなと思っていたんだ」
北九州出身の小川にとって、故郷へ戻るタイミングでの新たなスタートとなる。
ところが、当時のフロントの方針は「同じ仕事を引き継いでもらう」
球団の言い分も、もっともだろう。
本拠地移転、親会社も変わる。球団業務を混乱なく、スムーズに引き継ぐには、仕事の内容を分かった人間が横滑りして、まずは安定させ、軌道に乗せることが第一だ。
それでも小川は、どうしても「スカウト」という仕事に引かれていた。
当時の球団代表を「1時間半くらいかけて、説得したかな」
小川の粘り腰に「君は、強引だな」と球団代表も、最後は小川のスカウト転身をしぶしぶ認めてくれたのだという。
根本陸夫という「師」が、ダイエーにやって来たのは、その5年後だった。
ちょうど、スカウトの面白さが分かってきた頃だった。
「選手が変われば、景色もそれだけ変わる。人との出会いも新鮮。人脈を自分で作っていく。スカウティングって、人に教わるものじゃないんだなと」
1993年(平成5年)から2000年(同12年)までの8年間、各球団には、大学と社会人選手の1位、2位指名に限っての「逆指名枠」が与えられていた。
事実上の自由競争でもある。有力選手に「行きたい球団」を指名してもらうのだ。
契約金の上限は1億円。ただ、そのルールが有名無実化されていたのも、暗黙の了解だった。複数球団の争奪戦になると、何億、いや、何十億という破格の金額が提示されたという噂が、まことしやかに飛び交っていた。
「強くするために、勝つために、いろいろと考えて行動する。やりがいはあったよ。そういう形のドラフトだったからね。裏技、寝業、何でもありだよ」
そう語る小川が薫陶を受けた根本陸夫も、元プロ野球選手だった。
現役時代は捕手で4年間。球史に名を刻むような記録はない。
広島、クラウンライター・西武、ダイエーの3球団で、11シーズンにわたって監督を務めながらも、優勝経験は一度もなく、Aクラス入りを果たしたのも一度だけ。
598勝687敗66引き分けと、監督としての通算成績は大きく負け越してもいる。
根本陸夫の凄さは、フロントマンとしての敏腕ぶりだった。
西武の管理部長として、チーム編成に関する業務を一手に担うと、西武のグループ会社の一つであるプリンスホテルから石毛宏典(元オリックス監督)をドラフト1位で指名したかと思えば、大学への進学を打ち出していた秋山幸二(前福岡ソフトバンク監督)はドラフト外で獲得。社会人へ進むことを表明していた工藤公康(現福岡ソフトバンク監督)はドラフト6位で指名して翻意させ、熊本工の捕手だった伊東勤(元西武、千葉ロッテ監督)は所沢商に転校させた上で球団職員とし、その翌年にドラフト1位指名している。
ライバル球団を蹴落とし、出し抜いて、全国の逸材たちを確実に獲得していった。
全国に張り巡らされた人脈は、野球界だけにとどまらない。
社会人入りが有力視されていた逸材を、強引にドラフト指名する。不快感を露わにしていた社会人側が、根本との話し合いを経て、突然のように軟化することがあった。
時が経って裏事情を取材してみると、西武時代には、親会社の本業である鉄道に関連した仕事を、その社会人チームに紹介することもあったのだという。
他球団と競合した逸材の逆指名をもらった大学から、マネジャーやスタッフも一緒に球団で受け入れたりすることもあった。
人やカネだけではない。野球界を超えた「大枠」で、根本はチーム作りを捉えていた。そうした野球界以外のつながりが、いつか、どこかで、つながってくる。
根本が作り上げた西武ライオンズという常勝軍団は、1980~90年代の20年間で13度のリーグ優勝、8度の日本一。圧倒的な力を見せつけた。
その「球界の寝業師」と恐れられた男が、ダイエーの監督に就任したのは1992年(平成4年)のことだった。しかも「監督兼取締役」という肩書は、チーム作りの全権を握っているのと、まさしくイコールだった。
1995年(平成7年)に、自らの後任監督として王貞治を迎えたのも、根本が直接口説いてのことだった。
その王を支える体制を、根本は構築していく。
小川は、その「根本イズム」を、徹底的に叩き込まれた。
「スカウトの信条」
小川が、根本に教え込まれたという「スカウトの信条」がある。
「歩いていても、他のスカウトより、信号一つ前に行け」
「選手を獲るために、どんどんカネは使え」
いい選手を、先に見つけて、先に獲る。
選手のもとに、足しげく通う。監督や野球部の部長、少年野球時代の恩師ら、その選手を取り巻く関係者らとも、気脈を通じ合えるようにしておく。
ホークスは、どこよりも早く、ウチに来てくれたから。
ホークスが、最初から熱心に、ウチの選手のことを見てくれたから。
情熱を持って接し、時間をかけて関係を築く。
他球団との競争になれば、資金力や待遇面でのアピールも必要になってくる。
「使ってもいいけど、使ったら、使った分の効果。費用対効果だね。使っちゃいけないというのは、保守的な考え方。強くするためには、使わないといけない。勝つために、いろいろと考えて行動するだろ。だから、やりがいはあったよ」
根本も、小川の〝素質〟を見抜いていたのだろう。
球団事務所でスカウト活動のための準備をしていると「ちょっと、飯でも行こうか」
食べながら話すのは、スカウティングの極意といった生々しい話や教訓は一切ない。
小川が「一体、何の話かと思った」という、今でも記憶に残るエピソードがある。
「そのうち、高速道路の入り口にゲートができて、車が通ったら、それが開くようになるんだ。そういう時代が来るぞ」
今では、車に標準装備されるようになった「ETC」。しかし、90年代当時には、そんな構想すら、広まってはいない。
未来図を描く。その方向に進んでいく。今は、どの段階にあるのか。
「今」と「未来」とをつなげる「道」を描けるのか。
根本の話を「未来への指針」として考えてみれば、大風呂敷を広げたような、雲をつかむような内容でも、示唆するところは多い。
「そういう話をしながら、俺を見ていたんじゃないかな、と思うんだよ。いろいろなことをホントに教わった。可愛がってもらったよ」
「他の球団のスカウトと、迎合するな」
小川を中心とした90年代のダイエースカウト陣は、脅威の目で見られていた。
巨人とダイエーが出てきたら、他球団はもう勝ち目がないとまで言われたほどだった。
小久保裕紀(前日本代表監督)、井口資仁(現千葉ロッテ監督)、松中信彦(現独立リーグ香川総監督兼GM)、城島健司(現福岡ソフトバンク球団会長付特別アドバイザー)、杉内俊哉(現巨人2軍投手コーチ)
他球団との争奪戦を制し、逸材を続々と獲得していく。
根本は、小川を筆頭としたスカウト陣に、何度となく繰り返したという。
「他の球団のスカウトと、迎合するな」
スカウトの世界も、ビジネス界と同じだろう。
選手は「商品」でもある。誰もが欲しい、この品はいいと認めるものは、値段が必然的に高騰していく。そういう選手が、ドラフト1位になるのだ。
その一方で、今はぱっとしなくても、手を加え、磨きをかければ、きっと売れる商品になると見込んだものがある。それが「隠し玉」だ。
下位指名の選手が他球団で活躍すると、野球のプロパーではないフロント首脳からは、スカウト陣に「どうして、あの選手を獲らなかったんだ」という詰問があるという。
知らなかった、ではすまされない。
高校生の時点では球が遅かった。目立った活躍がなかった。周囲が地方に行くのを嫌がった。補強ポイントにうまく合わなかった。
とにかく、うまくいかなかったときの「言い訳」がいるのだ。
「だから、ベテランになればなるほど、手柄を取るんじゃなくて、リスクを軽減しようとするんだ。他のスカウトと一緒に動いて、情報を共有するというんかな。自分の情報が正しいかどうか、すり合わせたりするんだよ」
それでは、埋もれた「金」には気づけない。
己の眼力を信じ、能力を見抜く。人脈を駆使して、その選手を確実に獲る。
それが、小川一夫が骨の髄まで叩き込まれた「根本イズム」だった。
「未来図」を描く
原石を掘り出してくる。それが、スカウトの醍醐味でもある。
九州担当からチーフスカウトへ。要職を順調にステップアップしてきた小川は、3軍制の話が持ち上がってきた2010年(平成22年)当時、スカウト部長を務めていた。
毎年、ドラフト指名は5、6人。多くても10人程度だ。
1位指名が競合した場合、交渉権獲得をかけて、球団同士での抽選が行われるが、2位以降の指名はその年の順位に応じてのウェーバー制となる。
最下位のチームなら、1位指名の12人に続き、13番目に高評価した選手が獲れる。
一方で、ソフトバンクのように、毎年のように優勝争いをし、Aクラスに入るような球団は、2位指名になると、全体の20番目以降での指名になる。
だからこそ、スカウトの「目」が問われるのだ。
「今、花開いていなくても、可能性のある選手はいる。高校時代に頭角を現していなくても、大学や社会人で3年、4年とやったら、ドラフト1位になるだろ? 半分くらい、高校時代には、名前がないんよ。でも、体ができたら、スピードが10キロ、15キロも速くなって、評価が変わる。そういう選手を仕掛けて、早く獲ってしまえと。社会人野球も、チームが少なくなってきたし、進学できない子だっている。だから、必ずいるんだと」
そう語る小川が、2人の投手を例に挙げた。
若田部健一(現福岡ソフトバンク3軍投手コーチ)
1991年(平成3年)のドラフト会議で、超目玉と言われた逸材は、4球団での競合となり、抽選の結果、ダイエーが1位指名に成功した。
プロ通算71勝。ドラフト1位として、期待通りの成績を収めたといえるだろう。
それでも、小川の見方は違う。
神奈川・鎌倉学園高時代には、決して騒がれた存在ではなかった。それが、駒沢大での4年間を経て、他球団と争奪戦になる投手へと成長したのだ。
その「4年間の伸び」を予測するのが、スカウトの仕事だというのだ。
「ウチの若田部だって、鎌倉学園のとき、どんなピッチャーか知らない。その時点で『後の目玉』と予想していたら、高校のときに獲ってる。だから、その前に見抜かないといけない」
もう一人は、伊藤智仁(現東北楽天1軍投手コーチ)
1992年(平成4年)に3球団競合の末、ヤクルトが1位指名している。
ルーキーイヤーの1993年、前半戦だけで7勝を挙げる活躍を見せ、新人王を獲得。右肩、右肘と相次ぐ故障に悩まされる現役時代だったが、1997年(平成9年)には7勝19セーブをマークし、見事に「カムバック賞」を受賞している。
しなやかな右肘のしなりから投じられる鋭いスライダーは「分かっていても打てない」と言われたほどの好投手だった。
小川が伊藤のピッチングを見たのは、社会人の三菱自動車京都時代だったという。
「こんないい投手、いるんや。これ、どこの学校やと」
京都・花園高出身。これも、全国的には決して目立つ存在じゃない。プロのスカウト陣が見過ごした逸材は、地元の社会人チームへと進んでいたのだ。
「ウチの柳田だって、そうなんだよ」
ソフトバンクの主砲・柳田悠岐。広島商時代の高校通算本塁打数は18本。当時の体重68キロのか細い外野手は、成績でも体格でも、全く目立った存在ではなかった。
関東の大学へ進学を希望しながら、セレクションで落ちるという屈辱も味わっている。
しかし、ウエートトレの成果で、年齢を重ねていくごとに、体も大きくなっていった柳田は、広島経済大で広島六大学リーグの首位打者を4回も獲得している。
「なんで、こんなところにいるんだと思ったよ。プレーを見たら、糸井(嘉男。現阪神)ばりやったからね。化け物だった」
打てば、段違いの飛距離。守っても強肩。足も速い。地方の大学リーグで、まさしくけた違いの実力を見せていたのだ。
今、ソフトバンクの主砲だ。獲れたから、それでいいのではない。
小川が悔やむのは「広商にいたのに、なんで獲ってなかったんだと」
若田部や伊藤のケースのように、目立たない高校ではない。なのに、その潜在能力を見抜けなかったのが、スカウトとしての悔いなのだ。
スカウトはかつて、選手の家を訪問した際に、母親のお尻を見ろと教えられたという。
男の子は、女親の血を引くといわれる。
そのために、小川は高校野球の試合中に、こっそりと一塁側や三塁側の応援席近くのスタンドに座り、父兄席の付近に注目するのだという。
「打ったり、活躍したりすると、わーっとなって、周りからこう、声をかけられたりしているだろ? ああ、多分、この人がお母さんだろうなと。さりげなく見るんだ」
母親の体つきから、推測するのだ。これなら、しっかりとしたトレーニングをして、栄養バランスも考えた食事を摂取していければ、立派な、プロの体になる。
そうした、ありとあらゆる要素を踏まえた上で「未来図」を描く。
「それが、スカウトの仕事なんだよ」
成長したのを確認して獲るのではなく、成長する伸びしろを見抜き、そこに他球団が気づく前に、先に獲ってしまう。
その〝先物買い〟で獲得した選手を、3軍で育て上げようというわけだ。
スカウティングの候補者リストは、時期ごとに絞り込んでいく。
高校なら甲子園のセンバツ大会、大学なら春のリーグ戦、社会人も各地の春季大会などの実戦チェックを通して、400~500人のリストから、まず100人くらいになる。
夏の終わりには、これが50人近くにまで絞り込まれる。
秋は、指名を前提とした上での実力チェックになる。
上位、中位、下位。同じような実力の選手を他地区のスカウトが見に行く「クロスチェック」を経た上で、チーム事情も踏まえて、評価のランク付けを行う。
そうやって、ドラフト指名する選手を厳選していくのだ。
3軍制構想を小川が打ち明けられたのは、その絞り込みも終わっていた時期だった。
一芸に秀でた選手
育成選手を増やし、3軍で鍛え、育て上げる。
小川はかねてから「育成選手を増やせばいい」と考えていたという。
練習場所、試合数の確保。
そうした人数増加に伴っての問題が起こるのは、分かり切ったこと。ゆえに、小川の持論は、育成選手でも「投手をたくさん獲ればいいと思っていた」という。
「極端な話だけど、ピッチャーだったら、ブルペンがあって、体作りができる施設とかがあったら、十分に育てられるしね」
野手なら、打撃練習やノックを受けるために、グラウンドなり、室内練習場なり、それなりの広さのグラウンドや施設が、どうしても必要になる。
しかし、投手なら、まずはピッチングができるスペースさえ確保できればいい。ランニングやウエートトレーニングは、球団以外の外部施設も使えるだろう。実戦感覚が必要なら、1軍や2軍の試合前に、フリー打撃で投げたりする方法だってある。
「獲ってくるのが、試合を組むための目的なら本末転倒。選手を育てるためだからね」
その哲学は、育成選手の指名ぶりに表れている。
育成ドラフトが発足した2005年(平成17年)以降、ソフトバンクが指名した育成選手は、2018年(平成30年)までの14年間で58人。うち、高校生は32人だ。
一方、巨人が指名した育成選手は、同じ14年間で69人を数える。
ソフトバンクが3軍制を稼働させた2011年(平成23年)に、巨人も育成強化のコンセプトで「第2の2軍」を持っていた。
しかし、現場から「もっと練習させたい」という育成方針への不満、「第2の2軍」の発足から2年間、1軍に昇格する選手を輩出できなかったことへの疑問、さらには当時のオーナー・渡邉恒雄と球団代表・清武英利が対立、その育成構想を推進してきた清武の退団などから、2013年(平成25年)のシーズン後、いったん「第2の2軍」を解散している。
巨人が3軍制を再開したのは、2016年(平成28年)のことだ。
その前年のドラフトで育成指名した8選手のうち、独立リーグから7人を指名している(うち1人は入団拒否)。試合をするための体制作りに重点を置くと、どうしても、独立リーグでプレーしていたような〝出来合いの選手〟を集めがちになってしまうのだ。
「巨人は、高校生が少ないんだよ。3軍で、まず試合をするチームを作ると考えると、こうなってしまうわな。独立リーグとかから獲ってしまう。それはナンセンスだよ。育成の選手を獲るのは、そこから『ドラフト1位』になるような選手を作るために、先行投資すること。獲ってきて、試合を組むのではなく、育てるんだよ」
小川が言うように、ソフトバンクは14年間で、大学、社会人・クラブチーム、独立リーグから獲得した育成選手は26人。2016年は高校生のみ6人の指名。巨人が、同期間に独立リーグから44選手を獲得しているのとは対照的でもある。
ただ、巨人にも「3軍=育成」のコンセプトが浸透してきたのだろう。
2018年(平成30年)の育成指名4人は、すべて高校生だった。
1位指名だった外野手の山下航汰は、群馬の強豪・高崎健康福祉大高崎高出身。小川が「ウチもマークしていた」という逸材は、早々とその素質を花開かせようとしている。
2019年(令和元年)7月には、巨人の球団史上初となる高卒1年目で育成から支配下登録され、1軍でも2安打をマークした。
イースタン・リーグでは打率・322で首位打者にも輝いている。
「巨人も、とうとう気づいたんだなと思った」
小川は、3軍制の成果が出始めてきている巨人への警戒心を露わにする。
「場所がないなら、投手だけでも獲る。それって、発想力なんだよな。『ホークスだからできる』『金のないチームにはできない』とか、そういう表現、あるだろ? それ聞くと、言い訳ばっかりだな、成長せんな、と思うね。勝ちたい。ならどうしたいんだ。真剣に考えていけば、アイディアは出るもんだよ」
だから、小川は「3軍制」に、心が動いたのだ。
何か、一芸に秀でていれば、育てがいがあるんじゃないのか。
そこで例年なら、甲子園の夏の大会が終わった頃には指名候補のリストから外れているような選手たちに関しても、3軍発足に際し、スカウト陣がもう一度、再評価してみることになったのだ。
人事交流
そうした急ピッチの動きの中で、小林は「もう一つの提案」を、小川に試みていた。
「いっそのこと、2軍監督をやりませんか?」
ミーティングの後、ほろ酔いで乗り込んだタクシーの車中で、隣に座っていた小川に、小林はそう〝就任要請〟したという。
言い方はやんわりとしていたが、小林は本気だった。
3軍発足と合わせて「新人事システム」にも着手したのだ。
「どうしても、フロント対現場になる。この伝統、因習を打破したかったんです。いくら仕組みを作っても、現場のコーチにそのフレームワークを理解してもらえない。でも、現場で技術を教え込むのは、コーチなんです。だからこそ、ぐるぐる入れ替えようと。一夫さんは、どういう方針で育成するのかを、すぐに理解してくれましたから」
フロントと現場の人事交流。これも、小林流改革の一つだった。
獲ってきた選手を、育てる。
アマ時代のことを知る当事者が、育成に携わる。
スカウト部長から、2軍監督への転身。
それは「3軍制」というコンセプトを象徴する人事の目玉ともいえた。
そこには、小川の師である根本陸夫の〝教え〟も息づいていた。
かつて、ダイエーのスカウト陣は、背番号のないユニホーム姿で、2月のキャンプ時にグラウンドに立っていたことがあった。
「獲ったら、おしまいじゃない」
根本は、スカウト陣にそう告げ、ユニホームを渡したという。
2月中旬になると、大学や社会人のキャンプも始まる。指名候補になりそうな有力選手がいるチームに視察に出向くのは、スカウト陣にとっては重要な仕事でもある。
「まずは、自分のところのチームを知ることだ。知らないと、選手は探せん」
根本の狙いは、明確だった。
自分が担当した選手が、キャンプというプロ生活の第一歩を記す場に寄り添う。
緊張感もあるだろう。張り切り過ぎて、オーバーワークになるかもしれない。ちょっとした筋肉の張りや痛みも、我慢してしまうかもしれない。
そうした新人時代のケガや故障が長引き、後々まで響いて、不本意なままプロ生活を終えてしまうケースだって、いくらでもあるのだ。
アマ時代のプレーを見続けてきたスカウトたちは、選手たちの特徴も、性格も、さらにはウィークポイントも知り尽くしている。
コーチ陣に、そうした注意すべきポイントを伝え、選手にもブレーキをかける。スカウトに、アマからプロへの移行時期ともいえるキャンプで、その〝橋渡し役〟をさせたのだ。
小川は、そこにスカウトとしての重要な「教訓」が隠されているという。
「スカウトは『外』からの目線に、どうしてもなってしまう。思ったように伸びない選手もいれば、思った以上に伸びる選手もいる。伸びた要因、ダメだった要因。それらを、きちんと、振り返っておかないといけないわな」
獲ってきた選手が伸びなければ「コーチが悪い」とスカウトが言い、コーチ陣はスカウトに対して「こんな選手、なんで獲ってきたんだ」と反論する。
不毛な責任のなすり合い。選手が伸びてこない最大の障壁でもあるだろう。
現場否定ではなく、現場とともに歩んでいく。
だからこそ、人事交流も育成システムも、球団全体で共有するのだ。
スカウトだった笹川隆は、3軍発足と同時に「守備走塁コーチ」に就任した。
選手が足りなくなれば、特例で「試合に出る」という条件付きでもあった。3年間、3軍コーチを務めると、続いて選手寮の「寮長」を3年間務めている。
その後、2017年(平成29年)から再び、3軍の内野守備走塁コーチを務めている。
森浩之は3軍発足と同時に、2軍バッテリーコーチから3軍へ移行。2013年(平成25年)から4年間、スコアラーとしてソフトバンクの戦いぶりを見つめ、分析してきた。
2017年(平成29年)からは1軍作戦コーチとなり、2019年(令和元年)には1軍ヘッドコーチに昇格。3年連続日本一を支える参謀役を見事にこなしている。
元南海、ダイエーの内野手だった3軍初代監督の小川史は、就任前年の2010年(平成22年)まで、楽天で他球団の選手を分析、トレードやFAに備える「プロスカウト」を務めていた。
3軍発足時から3軍監督を3年務めると、2014年(平成26年)には、監督の秋山幸二のもとで1軍ヘッドコーチを務め、3年ぶりの日本一奪回に貢献している。
その「初代3軍監督」に、当時の思いを尋ねたのは、ソフトバンクの「プロスカウトチーフ」として、再びフロント業務に戻っていた2020年(令和2年)2月の宮崎キャンプ中のことだった。
「がーっとすくって、その中に一粒でも『金』があれば、というイメージだったね。前例がないことばっかりだし、逆にやりやすかったよ。過去に縛られなくてもいいし、過去のマニュアルだってないわけじゃない? 結構、面白いな、と思ったよ」
新組織の初代監督など、その職務を明確にイメージすることすら難しいはずだ。それでも小川には、コーチ歴、そしてフロントマンとしてのキャリアが豊富だった。
「スカウトの立場だと、ドラフトで指名するのに、最初から(契約金という)大枚はたいて獲るわけじゃない? リスクあるわな。本指名でも6人くらい獲って、そこから4、5年たって、主力級が1人出たら、それだけで大成功って言われる。ダメになる選手もたくさんいるのがこの世界。じゃあ、一芸に秀でているとか、ドラフト指名はしんどくても、運動能力が高い選手だから育ててみようかと。その『場』を与えて、経験させることができる。そうした『場』を与えやすいのが、3軍制の良さでしょう」
第4章で言及するが、3軍は発足初年度から、独立リーグの四国アイランドリーグplusとの交流戦を行うことになった。選手たちは福岡から四国各県まで、バスで移動する。
場所によっては、片道8時間近い長旅を強いられる。そこで小林は、小川やコーチ陣に対しては「新幹線など、鉄道を使って移動してください」と通達したという。
移動時の疲労を、少しでも軽減してもらおうという配慮からだ。
ところが、小川の方から「われわれもバスで行きますよ」と逆に提案してきたという。
「そのあたりは、教育が必要だろうと思ったんだよ。みんなで行こうと。まあ、最初はバス1台だったから、みんなぎっちぎちで座っていたけどね」
3軍監督の小川自ら、移動時にはTシャツとジャージ姿。首に巻く「ネックピロー」と「座布団」は必需品。「慣れたもんやで、もう」と笑いながら、乗降口に最も近い、左の最前列という〝監督の指定席〟に座る姿を、しょっちゅう見かけたものだ。
「試合をする場、経験を積む場ができて、あとは人間性教育なんだよね」
コーチとして、さらにフロントマンとしての経験を積んでいく中で「若手選手育成」という意味合いを、肌感覚で理解していた上での〝提案拒否〟であり、野球界の〝仕組み〟を熟知していたからこそ、小川も新たな挑戦にもやりがいを見出せたのだ。
そうしたエキスパートたちを、小林は集めようとしていた。
「ちょっとうれしいですよね。やろうとしてきたことが、否定されていない。コーチがスコアラーになって、またコーチ。そうあってほしいなと思っていましたし、そういう『人』が、財産なんですから」
小林が注入した「人事交流」というコンセプトは、今も球団に息づいている。
組織を知る。育成を理解する。現場オンリーの職人ではなく、組織を俯瞰的に見る視野を持ち合わせなければならない。
令和の新時代では、これが当たり前のコンセプトになっているのだろう。
「ええピッチャーがおるんです」
編成のトップが小林、その下に永井。2軍監督に小川一夫、3軍に小川史。
その全員が「元プロ野球選手」だった。
しかも、「3軍1期生」を獲った責任者が、2軍監督になる。
新システムの発足に際しての、組織としての決断としてもうなずける。
30年ぶりにユニホームに袖を通すことになった小川も、意気に感じたという。
「2軍が、これから『キー』になると思ったからね。面白そうだったし、現場に戻ってもう一回、選手を見る目を鍛えようと思ったんだ」
アマ時代の実績、期待値、持てる潜在能力。そのすべてを掌握していた小川が、1軍と3軍をつなぐ部門の長に座る。
「育成強化」というコンセプトを共通認識に、3軍制の骨格が固まりつつある頃だった。
小川のもとに、一本の電話が入った。
「ええピッチャーがおるんです。ちょっと見に来てくれませんか?」
電話の主が告げた選手の名は、ソフトバンクの指名候補リストの中に入っていなかった。
ドラフト会議まで、もう、あと1か月を切った頃だったという。
その時点で、全く知られていないような逸材など、果たしているのだろうか。
ただ、小川には確信があった。
「あの人が言うんだから、間違いないわ。ちょっと見てきてくれ」
小川は、部下のスカウト3人を、急遽派遣することにした。
目指す場所は、愛知県蒲郡(がまごおり)市。
それが「千賀滉大」という、超逸材との出会いだった。
(おまけ記事に続きます)