革命家はどんな本を読んでいたのか、小説家・哲学者は…【第5回】世界の読書論:毛沢東、モーム、ミラー、ヘッセ、ショーペンハウアー|駒井稔
毛沢東の読書論
前回までは3回にわたり「世界の〈編集者の〉読書論」をご紹介してきました。かわって今回は、前回の最後に予告しました通り、魅力的な「世界の読書論」をご紹介したいと思います。
まずご紹介するのは、ある革命家の読書論です。「世界の読書論」と銘打っておいて、革命家の読書論から始まるとは、と驚いたかもしれません。
しかし、これが本当に興味深いのです。革命家の名前は毛沢東。もう若い世代には、歴史上の人物として認識されているのではないかと思います。いいえ、それどころか、名前は聞いたことがあっても、どんな人物だったかを知る人はさらに少ないかもしれません。
毛沢東こそ、現在の中華人民共和国の礎(いしずえ)を築いた革命家でした。しかし、晩年にいたっても権力闘争に明け暮れ、中国の現代史に文化大革命という大きな禍根を残した人物としても記憶されています。
昨年(2021年)、中国共産党は創立100周年を迎えました。天安門広場前で行われた記念式典で、毛沢東を意識したと思われる、人民服を着た習近平国家主席の姿が印象的でした。
かなり前になりますが、私は上海で、第一回中国共産党大会が開かれた記念館を訪ねたことがあります。編集者は好奇心の塊ですから、そういう場所には必ず行ってみたくなるのです。
その第一回大会には、もちろん毛沢東も出席していました。そのような歴史的に重要な場所であるのに、私がその建物に入った時には、ほかに訪れる人もなく、妙に閑散としていたのをよく覚えています。上海は大きく発展し、忙しく働く中国人たちは、もうこんな場所には興味がないのかな、と思ったことを記憶しています。
若い頃から猛烈な乱読家であった毛沢東
中国共産党、そして毛沢東について、アメリカのジャーナリスト、エドガー・スノーが書いた『中国の赤い星』は、我が国でもずいぶん読まれた本なので、ご存じの方もいると思います。革命家としての毛沢東をはじめ、当時の共産党の人びとを描いたルポルタージュですが、現在の中国を考える上でも、これは大切な本です。
最近のメディアでは、中国の動静が話題になることが増えましたが、この本を読んでおくべきと今さらながら思うのです。
この本のなかに、エドガー・スノーのインタヴュ―に答える形で、毛沢東が読書について語っている部分があります。中学校を辞めた毛沢東は、湖南省立図書館で、開館から閉館まで読書をしたことを語っています。
すでにこの頃から、手あたり次第の乱読は始まっていたようです。それにしても凄まじい読書量です。このエピソードからも分かるように、革命家・毛沢東には、じつは猛烈な読書家という一面が若い頃からあったのです。
秘書が明かした、蔵書への壮絶なこだわり
長じて革命家になると、まるで19世紀末にデカダンスと呼ばれたフランスの退廃的な文学者のような生活ぶりで、深夜まで読書に耽(ふけ)り、睡眠薬の力を借りてやっと眠るという生活であったようです。
毛沢東の秘書が書いた『毛沢東の読書生活――秘書がみた思想の源泉』は、興味深いエピソードが満載の本ですが、「訳者まえがき」によると、毛沢東の蔵書の収集と管理をしたのがこの本の作者である逢先知氏だそうですから、裏話のようなエピソードがたくさん出てきても当然です。
しかも16年もの年月を秘書として過ごしたので、立場上、毛沢東の読書に関することはよく知っていたのです。
現在でも書店や図書館に行けば、いわゆる愛書家が蔵書について書いた本がたくさんありますが、毛沢東の蔵書へのこだわりは壮絶というか、尋常ではなかったことが分かります。
もちろん革命家としての読書ですから、世界文学や中国のリアリズム文学など、ほとんど読んでいない分野もあったので、毛沢東の思想には限界があったこと、それが不利をもたらしたこともあったことを、この秘書は率直に認めています。
しかし、読書への熱中ぶりはちょっと比類のないものに思えます。
なんだか「ちょっと長いまえがき」(連載第1回)で書いた、エスカレーターでも本を読み続ける少女のような読書の仕方だと思いませんか。革命家でありながら、これだけ読書に耽溺(たんでき)する本好きというのは、ちょっと想像もつきません。
もちろん革命家は理論武装しなければいけないので、当然と言えば当然ですが、ここまで読書する人間は稀ではないでしょうか。
レーニンやトロツキーも大変な読書家だったと思いますし、そこから得た知識を使って自らの理論を発展させていったことは同じでしょう。それと比較しても、毛沢東の読書ぶりは異様な印象を受けます。しかも生涯を通じてそうだったのですから。
かつて毛沢東は「年をとっても勉強しなければならない。私が十年後に死ぬとしたら、あと九年と三五九日(太陰暦では一年は三六〇日:原注)勉強しなければならない」と言ったそうですが、本当にそのような生涯を全うしたわけです。
マルクスよりも史書を読みふける――革命家ならではの読み方
毛沢東の読書対象は、マルクスやレーニンはもちろんのこと、中国の古典に大きな時間が割かれました。最も多く読んだのが、中国の史書だそうです。
いわゆる「二十四史」といわれるもので、中国王朝の正史二十四書のことだそうです。『史記』から始まり、『漢書』『後漢書』など明王朝の滅亡までの歴史書のことです。また、『資治通鑑』(北宋の司馬光が1084年に完成した歴史書)については、よく書けていると高評価を与えていたようです。
有名な古典小説も読んでいました。『金瓶梅』(きんぺいばい:明代の長編小説)には封建社会の矛盾が詳細に暴露されている。『紅楼夢』(こうろうむ:清代乾隆帝の時代に書かれた長編の白話小説)は封建的大家族の没落と封建社会の階級闘争を描いた小説である。『西遊記』(明代の長編白話小説)とその作者については称賛していたということです。
いかにも共産主義者という読み方ではありますが、長い長い小説を楽しんで読んだことが伝わってきます。
じつはもうひとつ、毛沢東の主治医だった人物が書いた『毛沢東の私生活』といういささかスキャンダラスな本があります。この本に書かれた毛沢東は、極めて人間らしい革命家として登場します。
上下巻に分かれた大部な本ですが、現在でも読み返す価値が十分にある本です。中国の近現代史に少しでも興味がある方にはお勧めです。
そこに『紅楼夢』についての毛沢東の発言が紹介されています。
そう著者に語っていたことが書かれています。また、前述した睡眠薬への依存も、この本で明かされています。
この医師はまた、毛沢東の史書への耽溺ぶりも証言しています。そして重要な指摘をしています。
ここでは毛沢東の史書に対する関心の源がどこにあるかが指摘されています。それにしても毛沢東の読書は実利的というにはあまりに徹底したもので、人間が本を読むことの究極の形を示したものだという強い印象が残ります。
最も薄くて、最も内容がある、モームの読書論
さて、話題を変えましょう。サマセット・モームという作家の小説をお読みになったことはありますか。
『月と六ペンス』がとても有名ですが、古典新訳文庫ではほかにも、短編集『マウントドレイゴ卿/パーティの前に』、さらには『人間の絆』改め『人間のしがらみ』があります。
私は個人的にもモームの小説が大好きで、本当に小説がうまい作家だと、読むたびに感心しています。時としてモームは、大衆的な作家だと誤解されていることがありますが、今回取り上げる本を読めば、モームが純然たる芸術家であることが一目瞭然だと思います。
ところが、残念なことに、これからご紹介するモームの読書論は、案外知られていないのです。ですから、モームファンの私の友人に勧めたところ、「ええ、こんな本を書いていたのか。全然知らなかった。モームらしい、ドキリとするくらい本音の読書論だね」という感想が返ってきて、とてもうれしく思いました。
ユーモアにあふれた、そして痛快な内容で、個人的には数多(あまた)ある読書論のなかでも、何度読み返してもまったく飽きない内容です。書店や図書館にあるたくさんの読書論をお読みになった方にも、原点に戻るという意味では、これは最適な本だと思います。
書名は『読書案内――世界文学』。原題は「BOOKS AND YOU」。
私は編集者という仕事柄、非常にたくさんの世界文学の入門書を読んできました。そのなかにはいわゆる鈍器本(鈍器になるほど分厚い本)と呼ばれるような大部な本も何冊もあります。しかし最も薄い本が、この『読書案内』なのです。
最も薄くて最も内容のある本。モームらしい皮肉とユーモアに満ち満ちた奥の深い内容を持っています。
第一の条件は「楽しく読めるということ」
そもそも、この本はアメリカの週刊誌での連載を一冊にまとめたもので、刊行時に「はしがき」を付け加えています。最初に読んだ時の感想は「さすが、モーム。肩の力が抜けているなあ」というものでした。
ドストエフスキーだ、トルストイだ、バルザックだ、メルヴィルだ、などという作家名とその作品がズラリと並ぶと、横綱が勢ぞろいしたような印象があって、緊張しないで読むことができないように思いますが、その手の本のなかで唯一、気楽に読むことができる一冊だったからです。
日本でも、若い世代には少なくなってきたとはいえ、いまだ世界文学というと、襟を正して読まなくては、というような古典的な教養主義は生きているといってもいいと思います。ですが、「面白いよ、この作品は。寝っ転がって読んでごらん」とモームに肩を叩いてもらえるのが、この『読書案内』なのです。
この「楽しんで読める」ということが、明治期から外国文学を輸入し、学習することで成立してきた日本の近代文学の読者が、なかなか辿り着けない境地であったことは間違いありません。
しかしモームは「楽しく読めればいいんだよ」と、この問題をあっさりと片付けてしまいます。
20世紀文学は19世紀文学と比較して、実験的な要素が濃く、特に難解なヌーヴォーロマンなどを、「これが分からないと文学が分からない」というような圧力を感じて読んだ世代としては、もっと早くモームのこの解毒剤が欲しかったと思います。
そして唐突ですが、村上春樹さんの小説の出現は、そういう意味でも画期的だったのだと感じています。
傑作とされていても「一向におもしろくもおかしくもないものがある」
さて、続けてモームの言葉を引用しましょう。
さらにモームは踏み込んだ発言をしていきます。ここまで言うのはなかなか大変なことだと思います。
これも読めない自分自身を責めがちであった私たち普通の読者には、ありがたい言葉ではないでしょうか。そして極めて重要な指摘でもあると思います。
当たり前のことを言うことが、どれだけの勇気が必要であったことか。21世紀の若い読者には、是非このモームの教えを胸に刻んで欲しいと思います。
1940年に刊行されたこの本には、しかし、時代的な限界もあります。副題には「世界文学」とあり、三部構成になっていますが、イギリス文学、ヨーロッパ文学、アメリカ文学の三部構成になっている点です。
まだラテンアメリカ文学のブームは到来していませんでしたし、アジア文学についても大きく取り上げるだけの必然性が感じられなかったのでしょう。しかし、それこそ時代的制約というもので、モームを責めてみても仕方ありません。
この本には現在のような高齢化社会を予見したような指摘もあります。
若いお爺さんとお婆さんに聞かせたいですね。読書はスポーツだ! そういわれると気が楽になりませんか。
「飛ばして読む権利」を行使せよ
本書はデフォー『モル・フランダース』から始まり、スウィフト『ガリヴァー旅行記』、フィールディング『トム・ジョーンズ』と、イギリス文学の紹介が続いていきます。
私がオッと思うのは『ローマ帝国衰亡史』を書いたギボンの自叙伝を挙げていることです。これは私のお気に入りの一冊でお勧めです。モームも注目していたなんて、と最初に読んだ時にうれしくなりました。
ヨーロッパ文学では、セルバンテス『ドン・キホーテ』から始まります。モンテーニュ『エセイ』、ゲーテ『ヴィルヘルム・マイステル』、ツルゲーネフ『父と子』、そしてトルストイの『戦争と平和』、ドストエフスキー『カラマーゾフの兄弟』を挙げた後に、飛ばし読みのすすめを書いているのです。
こんな大胆な飛ばし読みの権利を主張することは、モームならではでしょう。普通はたとえ飛ばし読みをしていても、こんなに正直に言いませんし、言う必要もありません。
逆説的に聞こえるかもしれませんが、モームは誠実な作家なのです。『戦争と平和』についても飛ばし読みの権利を行使しています。
私はモームが本当に飛ばして読んだのか、少し疑問に思っています。これは作家の自己韜晦(とうかい)ではないかと思うからです。私自身はモームが退屈だと言っている箇所も編集者としてきちんと読みましたが、別に退屈ではありませんでした。
ただモームの言っていることは、とても重要なことだと思います。あまりに誠実に作品と取り組んで自分に絶望することがないようにということを、繰り返し読者に納得させようとしているからです。
文学とは芸術であり、楽しみのために存在する
アメリカ文学について語った章でも、さりげなく重要なことに触れています。
ベストセラーについては、昔から議論のあるところではありますが、これは正論だと思います。訳者によって書かれた「モームのベストセラー論」が、本書の巻末に収容されていますが、「ベストセラー」なる用語はアメリカで20世紀の初頭に出来上がったものだそうです。
もう一つ、モームはアメリカ文学の章で重要なことをさりげなく書いています。
私たちは21世紀もようやく20年を過ぎた現在、この言葉を素直に受け取れるようになったのではないでしょうか。
『世界の十大小説』――伝記的な部分も楽しめる
さて、モームは『世界の十大小説』という個性的な文学案内を書いています。この本も読書論としての一面を持っています。いわば『読書案内』の続編といえるでしょう。
こちらは1954年に書かれています。『読書案内』と重なる作家と作品もかなりありますが、作家の伝記的な記述があり、それから作品の紹介になるという構成になっています。
伝記的な部分はさすがに作家・モームの面目躍如で、いろいろな資料から再現される作家の素顔と人生は大変面白く描かれていて、それだけで十分に楽しめる内容になっています。
例えば『ゴリオ爺さん』を書いたバルザックの大食漢ぶりを描いたところなどは圧巻です。バルザックの本を出した出版者の証言が紹介されます。
本当かなと思うくらいの健啖家(けんたんか)ぶりですが、ここまで克明に記録する必要があると考えるのはモームが作家だからでしょう。というのも、フローベールの『ボヴァリー夫人』を紹介した章の書き出しは以下のようになっているからです。
こういう文学観は古いものとされた時期がありました。作家の人生と作品は別々に論じられるべきだという考えが支配的な時代があったのです。
しかし個人的にはモームの立場に共感を覚えます。巻末には登場する十人の作家が一堂に会する想像上のパーティが開かれるというお楽しみが待っています。世界文学の入門書としてお勧めの一冊です。
この『十大小説』というタイトルに触発されたであろう面白い文学の入門書がありますので、紹介しましょう。
文芸評論家の篠田一士が書いた『二十世紀の十大小説』には、プルーストの『失われた時を求めて』のような世界文学はもちろん、日本からは、島崎藤村『夜明け前』が入っています。
また、木村榮一さんの『ラテンアメリカ十大小説』もあります。ガルシア=マルケス『百年の孤独』、プイグの『蜘蛛女のキス』など、ラテンアメリカ文学研究のパイオニアである木村さんならではのガイドブックになっていますので、読んでいて楽しいこと。これもお勧めの一冊です。
さらに世界文学の案内として、あのナボコフの『ナボコフの文学講義』『ナボコフのロシア文学講義』はお勧めです。ナボコフらしいちょっと皮肉な語り口で、世界文学の名作の魅力が語られていきますので、楽しめる上に大変勉強にもなります。
私は編集者として、折に触れて読むようにしています。未読の方は是非お手に取ってみてください。
ヘンリー・ミラー『わが読書』――児童文学、冒険小説への評価
英語圏から読書論をもう一冊紹介しましょう。今、若い世代に聞いてみると名前さえ知らないことに驚きますが、ヘンリー・ミラーというアメリカの偉大な小説家がいます。
70年代に高校生だった私のような世代には、ヘンリー・ミラーの小説『北回帰線』と『南回帰線』は必読書でした。性的な描写に惹かれて密かに読んでいたのですが、その作風にも不思議な魅力がありました。
そのヘンリー・ミラーの全集に、『わが読書』という著作が入っています。
私がこの本に惹かれた理由は単純です。ヘンリー・ミラーの作品が好きだったことと、ライダー・ハガードをヘンリー・ミラーが高く評価していることでした。
ライダー・ハガードの『ソロモン王の宝窟』は、私が夢中で読んだいわば生涯最初の本の一冊でした。小学生の時にほとんど毎晩この本を読んでから寝ていた記憶があるほどです。
そしてその本は大事に今も手元に置いてあります。偕成社版の『ソロモン王の宝窟』は、私にとっては貴重な一冊なのです。
『わが読書』を手に取るまでは、彼がこういう児童文学を高く評価しているとは知りませんでした。性的なことばかり書いている作家のイメージがあったので驚いたのです。
しかも第四章のタイトルは「ライダー・ハガード」です。その中でこんな読書論を述べています。
これは最近自分自身もよく考えるようになったことです。幼い頃に縮約版で読んだ児童文学をもう一度読むことは、実は重大な意味を持っていると気づかされる文章です。
古典新訳文庫で『仔鹿物語』『ロビンフッドの冒険』『地底旅行』『ハックルベリーフィンの冒険』などの完全版を50代になって読んだことは、大きな収穫となりました。大袈裟ではなく、それは豊かさを人生にもたらしてくれることに気づいたのです。
できるだけ少なく読みたまえ!
同時にヘンリー・ミラーは読書について、こんなことも書いています。
あのヘンリー・ミラーがこんな真面目なことを書いている。私はちょっと驚きました。確かにこれは彼の心底からの告白ともとれる内容です。
改心したのかと心配になった方、ご安心ください。というのも本書には、いかにも彼らしい一章があるからです。「トイレでの読書」。こんな章があること自体がやはりヘンリー・ミラーだなあ、と思ってしまいますが、この本自体はとても読み応えのある読書論になっています。
ヘッセの読書論――乱読への戒め
ここで舞台をドイツに移しましょう。『ヘッセの読書術』をご紹介します。ヘッセはもちろん、日本でも知らぬ人はいないという作家ですが、この読書術というか、読書論は非常にはっきりとした主張のある本です。
「書物とのつきあい」という文章では、乱読に対してなかなか手厳しい指摘をしています。
最近はやたら多読を勧める本が多いという印象がありますが、ヘッセはそれを強く戒めます。三人か四人の一流の作家の作品を完璧に繰り返し読んだ人間は、次から次へと好奇心の赴くままに、たくさんの国々のあらゆる時代の作品を読んだ人間より、はるかに多くのことを学んでいるというのです。
ヘンリー・ミラーと同じ少読の勧めですね。ヘッセ自身は膨大な蔵書を持ちながらも、乱読を戒めているのです。
「保養地での読みもの」というエッセイではこんなことまで書いています。
ヘッセ自身が大変な読書家であったことは間違いありません。本書の「世界文学文庫」という文章のなかで披瀝(ひれき)されている作品の数々は、想像を絶するほど大量なものです。
別の文章では数万冊の本を読んだことを書いています。本質的な読書をするべきだというのがヘッセの主張なのです。「教養」の文字が溢れる最近のわが国の本の洪水を見たら、ヘッセならなんと言うかは自ずと分かります。
このような教養の定義を、もう一度考える時期に来ているように思います。読書論が実用的なものになり過ぎ、教養の意味も知識と同じになってしまっている状況はそろそろ変わるべきでしょう。
別に古典新訳文庫の宣伝をしたいわけではありませんが、ヘッセの主張は古典を読むことに向かいます。
真打登場、ショーペンハウアー
さてさて、真打登場といきましょうか。同じドイツの哲学者、ショーペンハウアーさんです。
『読書について』は、かなり刺激の強い内容です。訳者の鈴木芳子さんの、とても分かりやすい見事な新訳の原稿を読んでいた時に、これは厳しいなあ、とショーペンハウアーに直に叱られているような気分になったことを記憶しています。
「自分の頭で考える」という論考には以下のような主張が繰り返し登場します。
さて、毛沢東さん、この発言をどう思いますか、と尋ねたくなりませんか。ここには多読者の陥りがちな陥穽(かんせい)が見事に描かれているといえるでしょう。確かにたくさん読めばそれでいいというわけではないのです。
こう続けて言われてしまうと、全く反論の余地がありません。いささか逆説的な論理展開にも思えますが、ここには大事な真理が語られていると思います。
自分の頭で考えることを忘れるなというショーペンハウアーの語りには、独特のニュアンスがあります。自分を含めて、いかにきちんと考えることを日常的に行っているかを、もう一度考えるよいきっかけになりそうです。
それにしてもずいぶん手厳しいですね。
それではそのものずばりの「読書について」という文章を見てみましょう。
さあ、いかがでしたか。さすが真打だと思ったのではないでしょうか。
このショーペンハウアーの本は、読んでしまうと、ちょっと感覚が変わってしまうような、凄みのある本です。だからこそ読書論として読む価値があると思います。
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第5回の読書ガイド
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【著者プロフィール】
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