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格差が人間の価値を意味するタイ(第3回)

【お知らせ】本連載をまとめた書籍が発売されました!

本連載『「微笑みの国」タイの光と影』をベースにした書籍『だからタイはおもしろい』が2023年11月15日に発売されました。全32回の連載から大幅な加筆修正を施し、12の章にまとめられています。ぜひチェックしてみてください!

タイ在住20年のライター、高田胤臣が綴るディープなタイ事情。
第3回はタイ人の「金」に対する感覚を取り上げます。日本とも欧米とも異なる、お金へのストレートかつドライな向き合い方には驚かされますが、その背景を知ると納得せざるを得ないところも。
(第1回はこちら)(第2回はこちら


給料、いくらもらってる?

タイ人は日本人よりも金に向き合っていると思う。日本ではデリカシーがないと言われそうだが、タイではわりと普通に給料がいくらなのかを訊く。これは、相手の懐を探るというよりは、自分もできるだけいい給料のところに移りたいからだ。

日本では月給がいくらか訊かないこともあって、若者の間で「相場」が共有されていない。タイやベトナムなど東南アジアでは、若者の間で欧米企業はこれくらい、日系企業はこんな収入、韓国企業はどれくらいという相場が存在する。さらに、日本語や英語ができる、図面をひけるなどの経験やスキルがあれば、そこにいくら上乗せされるかを誰もが把握している。自分の価値が数字で可視化され、スキルに見合った給与を要求するし、その企業で実現しない場合は転職していく。

こういった相場観は、タイでは経済格差がありすぎるため、大半の国民が夢を語るよりも目の前の生活を優先せざるを得ない結果とも言える。日本のように今年がんばって来年の給料アップを狙うのではなく、今のスキルを今できるだけ高く買ってもらうことで、なんとか生き延びたいと考えるからだ。

タイ統計局の資料では、タイの世帯収入は全土平均でおよそ2.6万バーツ(約9万円)ではあるものの、バンコク都や近郊は約4万バーツ(約14万円)と高く、一方で東北部と北部はおよそ2万バーツ(約7万円)と半分しか稼げていない。地方間でも格差がある上に、所得分布図を見ると2万バーツ以上を稼ぐ世帯がタイ国民のわずか11%前後しかいないという事実もある。

格差がありすぎて、同じ国に住んでいながら見えている景色がまったく違う。富める者はなんでも自由にでき、貧しき者は日々の糧を得るだけでも必死だ。だから、経済的弱者は社会的地位も低い。日本や欧米なら貧しくても社会に貢献して尊敬される人はいる。しかし、タイでは貧しければ社会的にも劣っているとされる。金がものを言い、人々は金に振り回される。それがタイの現実でもある。

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東北部の村で裸足で遊ぶこどもたち。数年後には早くもタイ社会の厳しさを知ることになるだろう。

金に対して良くも悪くもストレートなタイ人

生きるためにはどの国にいようが、とにかく金がいる。どんなに夢を語ろうが、突き詰めればほとんどが富への憧れに繋がるだろう。日本人の間では、夢を金銭に絡めて語ることが憚られる雰囲気がある。企業のトップでさえ「金がほしいから経営している」なんてストレートに言わない。そこについて、タイはわりとオープンだと思う。その点ではある意味、タイ人の方が日本人よりもずっと素直で純粋なのかもしれない。

たとえば、オリンピック選手やサッカー代表選手などは国から報奨金などが出る。これは日本も同じで、誰も無料で日本代表を務めるわけではない。ただ、タイの場合はその金額がわりとオープンに語られる。好成績を収めれば国からいくら出て、一般企業などからも祝い金などがいくらもらえて、と大会後はだいたい金額の話題になる。国民の興味でもあるし、「活躍したのだからもらえて当たり前」という通念もタイ人の中にあって、むしろスポーツ全体が盛り上がるきっかけにすらなる。

よく言えばタイ人は金に向き合っているし、格好つけることなく稼ぐことに正直で貪欲である。ただ、当然の帰結として、金銭に執着するあまりにないがしろになっているものもあると思う。顕著なのが人の命、あるいは人の尊厳だ。

病院などに緊急搬送された病人や負傷者は、まず緊急外来の受付でチェックされるものがある。タイでは会社で働いていると社会保険が適用される。病院指定のカードがあり、ほぼ無料で治療を受けられる。国立病院ではまずこのカードがないと拒否されることが多い。それから私立病院では現金の確認が行われる。保険かクレジットカードでもかまわないが、これらがないと、どんなに重体であっても追い返されてしまう。日本の病院も無料で治療できるわけではないが、まずは人命救助を優先して、という考えはタイにはない。

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栽培した米は組合でしか買ってもらえず、買いたたかれていつまでも農民は貧しいままだ。

敬虔な仏教徒が多い国として知られるので、タイ人の対外的なイメージは温厚で他人に対しても優しい。だからタイは微笑の国とも言われる。しかし、タイ人の微笑にほぼ意味はないということは以前書いた通りだ。小学校の廊下に貼り出される標語と同じで、実際には必ずしもいい人ではないからこそ、タイ人はことさらに自分たちはいい人、タイはいい国とアピールするわけだ。

タイの玄関口である空港からすでに詐欺師が跋扈しているほどで、到着したばかりの観光客に対するタクシーのボッタクリも容赦ない。ホテルや観光施設の周辺も悪いやつらが多い。タイの評判が地に落ちようと、彼らは気にしない。警官を含めあらゆる公務員が賄賂を要求する。数年前から表向きは賄賂を禁止し、クリーンになった公務を主張するようになったが、実際にはほんのちょっと減っただけに過ぎない。

悪いことをしても寺に参拝すればチャラになると思っているのか、休みの日は一所懸命になって寺で手を合わせる悪者も少なくない。近年はタイも不況と言われ続け、宵越しの金を持たないタイ人もさすがに財布の紐をキュッと締めている。この煽りを真っ先に受けるのが寺院でもある。そのため、最近はタイの寺院も地に落ちたもので、向こうから布施や喜捨の要求をしてきて、こちらが20バーツ札(紙幣の最小額面)を置こうものなら文句を言ってくる。病院と同じでただで運営できるとは思わないが、僧侶がそれを言い出したら、なにか違うと思ってしまう。

たとえば車両保険は対人補償より対物が高い

寺院でさえこんなに苦しい状況になっているので、なおさら富裕層の持つ資産が際立ってくる。人は金の亡者となり、生きる人の尊さを無視するようになる。今に始まったことではないが、タイでは人の命が軽く受け止められていることがわかる事例がある。それは車の保険だ。

日本で自動車保険と言えば自賠責保険(いわゆる強制保険)と任意保険だ。これはタイも同じ。ただ、タイの自賠責保険は対人のみになっている。運転手に過失がない場合にのみ総額で最高50万バーツ(約175万円)が死亡者に支払われる。負傷者には20万から50万バーツが最大総額だ。運転手に過失があった場合は支払総額は10分の1くらいになってしまうし、実際のところ過失のない支払い事由なんてそうないだろうから、基本的には機能していないのではないかと疑いたくなる。実際、ボク自身も自賠責保険を使ったことは一度もない。

一方で任意保険は契約内容にもよるが、補償内容が自賠責よりは充実している。それでも死亡者には50万バーツ、負傷者に5万バーツ(約17.5万円)、そして対物は最大で250万バーツ(約875万円)が一般的な内容になる。大手保険会社でもっと高額の保険料をかければ、対物500万バーツ(約1750万円)、死亡者はひとり300万バーツ(約1050万円)ではあるものの最大総額1000万バーツ(約3500万円)が支払われる契約内容もある。

自賠責に関しては2020年3月ごろに改正され、それまで30万バーツが最大だったものが保険料据え置きのまま50万バーツに引き上げられた。一方、任意は契約次第で安い保険もあるが、先の内容よりももっと薄っぺらになる。
むしろ任意は入っているならマシな方で、無保険車もタイは少なくない。いずれにしても、死者には高額契約保険でさえ対物のたった2倍が限度額とはどう考えても命が安い。日本なら対人、対物保険は無制限の設定にすることが多いはずだ。しかし、タイには基本的にはその設定は存在しない。人間の命はプライスレスではないのだ。

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タイの保険はクラス分けがあり、一番上は保険料が高いが過失があってもすべて保険で賄われる。

人間の死が軽く受け止められる国

バンコクは外国人観光客からすると「聞いていたよりも治安がいい」と思われがちだ。実際には10万人あたりの犯罪発生率で見ると、タイは日本のおよそ9倍の殺人事件発生率になる。あくまでも外国人が旅行したり暮らしている地域が良好なだけで、タイ人の中流層以下が暮らす地域の治安はよくない。

ボクはタイに暮らして通算で20年にはなるが、今でも都心の繁華街以外は深夜にひとりで歩いたりしない。なにしろ、ボクが暮らすバンコク郊外は数百円の金を奪うために拳銃で頭を撃ち抜く強盗がいたり、不良少年たちの抗争からか銃撃戦が起こったりなど、危ないことしかない。これは決して珍しいことではなくて、タイの夜は案外身近に闇の部分が見え隠れする。

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都心から15キロも離れれば、高いビルもなくなる。遠くにバンコクのビル群が見える。

タイ人は南国気質があって、いつもおおらかで人生を楽しんでいる。そういうイメージを持ちやすい。微笑がさらにそのイメージを裏づけるかのように感じるだろう。以前はマイペンライ精神というのがあって、なんでもかんでも「マイペンライ(気にしない、大丈夫)」で片づけるおおらかさが実際にあった。

しかし、タイも近年は生きづらい国になってきていて、思うように稼げない人、夢に描いたように生きられない人の中には自殺者も増えてきた。タイ公共保健省が発表した2019年のタイ国内の自殺者数は4419人だ。人口10万人あたりでは6.64人となる。ただ、世界保健機関(WHO)がまとめた2016年の数字では14.4人と全然違う。いずれにしても、タイの報道によれば同省発表において2020年1~6月期におけるタイ国内自殺者数は2551人。前年同期から22%も増加(※)している(※ただし、これは新型コロナウィルスに対するタイ政府の規制なども関係していると考えられる)。

この自殺者数は東南アジアでもトップになっていて、日本よりも少ないとはいえ十分にタイ人気質のイメージを変えてしまう数値であろう。これまでも衝動的に自殺する人は少なくなかった。恋人とケンカをしただけで高層アパートから身を投げたり、ボクの知人にも夫との口論の末に首を括った人がいる。それに加えて、近年は金銭的なトラブルなどによる自殺もあとを絶たなくなってきたのだ。

金儲けに走るあまりに人間をないがしろにする人が増えていることも要因だが、タイ人の死生観はもともと日本人とは大きく違っているのかもしれないとも思う。ボクは『亜細亜熱帯怪談』という書籍を出させてもらっているが、その中で取材したこと、それから妻の祖父が数年前に亡くなったことを振り返ってみて、日本人と大きく違うと感じる部分があった。

たとえば、タイは多民族国家で、最も多い民族はタイ族である(正確にはタイ・レック族という)。このタイ族は墓を持たない。タイにも墓地や霊園はあるが、主に中華系のもので、一部にイスラム教徒、キリスト教徒のものがあるくらい。タイ族は葬儀が終わると火葬し、遺骨は散骨するか寺院に預けてしまう。墓参りの習慣もない。

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タイの葬儀。日本のように重苦しくなく、わりと明るい感じなのはやはり死生観が違うからか。

タイ族は仏教徒が多い。タイ人が寺院に行くのは、来世で極楽浄土に行く、あるいはまた人間界に生まれ変わることを望んでいるからだ。現世はなんであれ、次にいいポジションに生まれ変わることを願ってやまない。そのため、死んでしまったあとの肉体、すなわち魂の器は火葬したら「はい、おしまい」。そんな捉え方なのではないかと感じた。このあたりの考え方が日本の仏教、あるいは日本の一般的な死生観と違い、ともすれば死、すなわち人の命が軽く見られがちになるのではないかとボクは思う。

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タイ人が生まれ変わりで最も嫌うのは畜生道だ。だから、タイ人の悪口には動物の名前が多い。水牛(「クワーイ」と呼ばれる)は「バカ」というスラングでもある。

共有できるバックボーンが希薄ゆえの個人主義

ほかにも人の命が軽く見られてしまうのには、タイが多民族国家であることも関係しているのではないかとボクは思う。というのは、日本だとある程度の水準の教育が全土に普遍的にあって、日本人にはだいたい共通した考え方や習慣がある。簡単に言えば、共有するバックグラウンド、バックボーンが存在する。

しかし、タイは民族間だけでなく地域性も関係して、すべての人が共有するなにかが決定的に希薄だ。北部にいる山岳少数民族はそれぞれが独立した集落に暮らすので違いがあるのはわかる。一方で中華系もひと口に華人と言っても、バンコクは広東省出身者、南部は福建と微妙に違いがある。

バンコク都内でも地域によって公立校の教育水準が違う。たとえば、ボクの知り合いの子どもはタイ・ロシアのハーフで、離婚したため子どもを学費が安い公立校に入れようとしたところ、学校側から拒否された。その理由は、その学校の教育水準が低く、ハーフの子どもはいじめの対象になりうるということだった。日本なら考えにくい理由だ。

バンコク以外のたとえば農村では、村長などになるのは有力者ばかりだ。地方なので村長というだけでさまざまな権力を持つことができる。そのため、村によって、首長によって、村の雰囲気や団結力が違う。ときには妖怪の類が出たと騒ぎになり、村中がパニックになることがこの時世であっても起こる。集団ヒステリーが起こるくらい、閉ざされた社会があるのだ。

そんな国なので、民族間だけでなく個人間でも共有するものが少なく、それゆえにタイ人は個人個人の自由が許される結果になる。バックに持つ常識がそれぞれ違うので、干渉しないことが人間関係を最も円満・円滑に進ませる。だから、相手に口出しをせず、自由が尊重され、一見、日本よりも暮らしやすい国に見える。

しかし、当然ながら人はひとりでは生きていけない。そんなとき、信頼できる人間関係の最小単位は家族になる。血の繋がった家族、そして親族だ。タイ人は全般的に家族を大切にする。それには愛情などもあるにしても、現実的にはこういった多民族国家ならではの事情もひとつにあるとボクは思う。特に経済規模の大きなビジネスを行う富裕層はその傾向が強い。

富裕層は身内以外を人とは思っていない

海千山千でやり合い、のし上がってきた富裕層は特にそうだ。タイは現王朝が1800年ごろに興り、華人を中心にした富裕層が台頭し始めるのは戦後のことである。歴史的にまだそれほど長くはないので、この短い間に巨万の富を築き上げた人々には、それなりの経験もあったことだろう。騙し騙されの繰り返しで、信頼できるのは家族だけだと感じたに違いない。

タイ初の女性首相になったインラックさんは、今のタイの政情不安の元凶とも言えるタクシン・チナワット氏の実妹である。彼女は結婚していて子どももいるが、実際には夫の姓を名乗らず、チナワットのままだった。これはおそらくチナワット家の名前を重視したからだろう。実際、タイ人は名前よりもファミリーネームを気にする傾向にある。姓からその出自がわかるほど、富裕層には名家が多い。

聞いた話だが、タイの富裕層と結婚するのは大変なことらしい。日本人など外国人はタイの経済的な階層の外にいる。日本の中流層でもタイの富裕層と結婚することが可能だ。しかし、その際には万が一離婚した場合にもその一族に対して財産分与などを求めない趣旨の契約書にまずサインさせられるらしい。

また、同じく聞いた話だが、知人の知り合いの日本人がタイのかなりの富裕層の女性と交際していたらしい。まだ若い人だった。まじめで、健康的な人だったそうだ。女性の親はあまりいい顔をしなかったが、娘の選んだ人だからと妥協したそうで、その後結婚したとか。それで日本人男性もその富裕層のビジネスを手伝い始めたが、ある日突然、病死した。知人曰く「数日前に会ったときになんら病気の話もなかったし、顔色もよかった。たぶん毒殺されたんだと思う」という。

ファミリーの絆が強固なため、逆に外部は一切信用しない。身内以外は人と思わない。そんな様子が窺える。ただ、中流層の一般的な家族はそんなことはない。そこはタイ人らしいおおらかさもあって、しっかりと受け入れてくれる。ボクもそうだった。東北部の農村出身の妻なので、富裕層のようなしがらみもない。ただ、最初の数年間は妻の親族らによそ者扱いされている感じはあったけれども。

フィクションでも現実でもシンデレラストーリーは存在しない

前項で「日本人など外国人はタイの経済的な階層の外にいる」と書いた。逆に言うと、タイ人同士では経済的な階層の壁を越えて結婚することはありえない。タイには暗黙の了解的な経済カーストがあって、富裕層の行く店と中流、低所得者層向けの店が分かれている。日本人はどこでも自由に出入りできるが、タイ人は自分のクラス以外には立ち入らない。

いい例がドラマだ。タイのテレビドラマは1回2時間を週2回と、放送回数が多い。だいたい主役の男女が最初はいがみ合って、最後にくっつくというのが定番の流れだ。たとえばお笑いで言えば、予期せぬ笑い、視聴者の読みに対する裏切りが今の日本のお笑いのセオリーになるだろう。しかしタイはまだ昭和的な部分があって、いわばドリフターズの『8時だョ!全員集合』の時代のままで、定番ストーリーの中で視聴者の期待通りのポイントで決め台詞やアクションを入れられると笑いが起きる。だから、いがみ合いからの恋愛関係という何十年も使い古されたプロットがタイ人の女性に今も刺さるのである。

ただ、ドラマの内容はすべて富裕層の恋愛話だ。豪華な家、車、職場などが映り、それらを観る中間層は恍惚とする。低所得者層のリアルを見せられても現実に引き戻されてしまうので、ドラマは富裕層の話にするとも言われる。しかし、ボクからすると事情は違うと思う。

タイは格差社会だ。何百万円もするものを値札も見ずに買える富裕層がいる一方で、その日の食べもの300円程度を買う金に苦労する人がいる。そして、後者の方が圧倒的に多い。目の前の現金を追い求める生活では夢なんか語っていられない。しかし、富裕層にはその余裕がある。特に富裕層の子息だ。だから、タイではスポーツをしたり、芸術を嗜んだり、芸能人になるのはほとんどが富裕層の子どもたちだ。監督や脚本家も同じ。ということは、一切交流のない下の層の生活を彼らは知らない。だから描くことができないのではないか。ドラマでも現実でも、タイでは富裕層と低所得者層がくっつく、いわゆるシンデレラストーリーは存在しないのだ。

2006年から2014年まではタクシン元首相を支持する「赤組」と、タクシンに既得権益を奪われるとおびえた富裕層を中心にした保守派の「黄色組」の争いがあった。その間に何度か選挙が行われたものの、毎回、タクシン派が勝ってしまう。タクシンは在任中に低所得者向けの保険や政策をいくつも打ち出し、支持層を広げた。所得分布では富裕層のほとんどが富を占有しているが、逆に言えば人数はそれ以外の人が多い。だから、選挙をすれば保守派が勝てない。

富裕層は中流階級、低所得者層の人々が選挙権を持つこと自体が許せない。富裕層にとっては使い捨てる人たちだ。彼らが邪魔をするから選挙にも勝てない。そうして空港を占拠したり、「バンコクシャットダウン」と銘打って座り込みをして経済的な悪影響を社会に与えてきた。保守派からすれば、全部タクシンと選挙権を持つ経済弱者のせいというわけだ。

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タクシン首相に絡んだ一連の騒動が最も激しかった2010年4月~5月はバンコク各所が放火された。

これが富裕層の本音でもある。タイのことを決められるのは自分たちだけで、雇われる人、農民などは黙っていろ。極論を言えば、タイでは経済弱者は人間としても認めない。

これは残念なことにボクの作った大袈裟な話ではなく、タイで暮らす中で実際に目の前で起こっていたことである。所得格差が大きく、それがそのまま人間の価値にも繋がる。これが等身大のタイの姿でもある。

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書き手:高田胤臣(たかだたねおみ)
1977年5月24日生まれ。2002年からタイ在住。合計滞在年数は18年超。妻はタイ人。主な著書に『バンコク 裏の歩き方』(皿井タレー氏との共著)『東南アジア 裏の歩き方』『タイ 裏の歩き方』『ベトナム 裏の歩き方』(以上彩図社)、『バンコクアソビ』(イーストプレス)、『亜細亜熱帯怪談』(晶文社)。「ハーバービジネスオンライン」「ダイアモンド・オンライン」などでも執筆中。渋谷のタイ料理店でバイト経験があり、タイ料理も少し詳しい。ガパオライスが日本で人気だが、ガパオのチャーハン版「ガパオ・クルックカーウ」をいろいろなところで薦めている。

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