長友佑都と壁――W杯クロアチア戦リポート by小川光生
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セリエA初代チャンピオン・インテルを率いた名将の悲運の物語
「インテルって……どんな立ち位置のチームなのかな?」
壁。
日本時間12月6日午前2時過ぎ。テレビ画面の中で、長友佑都が試合後のインタビューに答えている。カタールから帰国してまだ2日あまり。2度の“巨人殺し”の感動が私の体内のあちこちでまだ疼いている。「初のベスト8」という明確すぎる目標はまたも阻まれた。日本サッカーに立ちはだかる大きな壁……。心の整理などとうぶんつきそうもない。
ましてや、“当事者”の長友にその整理をつける余裕などないに決まっている。2010年の南アフリカ大会、2018年のロシア大会、そして今回のカタール大会……。彼は実に3度、代表の一員として、目には見えないが、彼らの前に立ちはだかる“壁”に、行く手を遮られてきた。ただ、長友が、「当事者として」それに直面するのは、もしかするとこれが最後の機会かもしれない。
長友佑都と初めて会ったのは、イタリア・チェゼーナの中心街にある小さなピッツェリア(ピザ屋)だった。当時の彼は、前所属のFC東京から、2010年初夏にセリエAへの昇格を決めたばかりのチェゼーナへと移籍したばかりの若きSBだった。
当時の私は、イタリアサッカーに関する記事を執筆・翻訳したり、現地の監督や選手のインタビューを専門に行っていた現地在住のフリーライターだった。日本の某国営放送がアスリートの生き様を追っていくという番組で長友を取り上げており、そのコーディネート役として、私に白羽の矢が立った。それで、顔合わせをすることになり、ディレクター、カメラマン、私、長友の4人でピッツァを食べたのだ。
「イタリアってマジでご飯おいしいですよね!」。彼はそう言って、すごい勢いで数種類のピッツァを平らげていった。
当時の長友はまだ20代前半の青年だった。2010年の南アフリカ大会での活躍が、当時のチェゼーナの新監督でその後、日本を主戦場に仕事をするようになるマッシモ・フィッカデンティの目にとまり、ロマーニャ地方の小さなプロヴィンチャーレ(イタリア語で地方の中小クラブの意)に引っ張られた。チェゼーナは、彼にとって、世界のサッカーへと繋がっていく小さな足がかりだった。彼はその足がかりを見事に利用し、カルチョの“上流社会”へとその歩みを進めていく。
番組の撮影は順調だった。私は自宅のあるヴェネツィアから毎日のようにチェゼーナに通い、長友佑都の異国での奮闘を追い続けた。ディレクターが帰国しているときには、知り合いの現地カメラマンを引き連れ、彼の姿を記録し続けた。
あれは、2011年1月、冬の移籍市場が閉まるまさにその日だった。長友のミラノの名門インテルへの移籍が決まった。すぐに日本からディレクターが合流し、ロケバンでインテルのトレーニングセンターに向かう。途中で長友を拾い、ミラノ近郊アッピアーノ・ジェンティーレで行われる練習場まで同行した。
バンの中での彼にいつもの笑顔はなかった。窓からミラノ郊外の景色を眺めながら、こう呟いたのを覚えている。
「インテルって……どんな立ち位置のチームなのかな?」
セリエAにはいわゆる「北の3巨星」と呼ばれるクラブがある。現在はスキャンダルで話題になってしまっているが、通算最多の優勝回数を誇るトリノのユヴェントス、そして同じミラノを本拠地とし長年お互いにしのぎをけずりあってきたミランとインテル。イタリアにはこの3つ以外にも、ローマ、ラツィオ、ナポリなど名門クラブが多数あるが、「全国区」あるいは「世界的な」という意味でいえば、この3巨星の実績、人気は他を圧倒している。例えば、ローマ近郊ならばローマやラツィオの人気も高いが、北部国境に近い地域から南部シチリア島、国内のみならず、世界中に人気が浸透しているのは、やはりユーヴェ、ミラン、インテルの3クラブということになろう。
セリエAには長友以前にも三浦知良、中田英寿、中村俊輔などすでに多くの日本人選手が活躍していたが、“3巨星”への入団を果たした日本人は、彼が最初のケースだった。当時の長友は、そんな壁をも易々と超えてみせていた。彼のインテル移籍が決まった後、私の“勤務地”は、チェゼーナからミラノへと変わった。
2022年12月5日、ドーハ。
クロアチア戦に先発した長友佑都のパフォーマンスは、いつも以上に素晴らしかった。かつて頻繁に見せていた前線への仕掛け、クロスの供給も、この日は複数回見られた。前半でピッチを降りたが、ミラノの“サン・シーロ”・スタジアムのサイドを何度も往復していたインテル時代の“ユウト”が戻ってきたようだった。当時の彼は、インテリスタ(インテルファン)の誰からも愛されている選手だった。
前半、前田大然のゴールで最高の形で先制した日本だったが、前回準優勝のクロアチアは粘り強く諦めない。後半、そのインテルで長友の同僚でもあったイヴァン・ぺリシッチが同点ゴールを決める。本当にここしかないというところに頭で押し込んだクオリティの高いゴール……。その日のクロアチアには、彼の他にもマテオ・コヴァチッチ、マルセロ・ブロゾヴィッチと計3人の元インテルのプレーヤーが出場していた。3人はいずれも長友と仲の良いプレーヤーだった。なにか因縁めいたものを感じる。
話をもう一度、あの頃のイタリアに戻す。
日本サッカーを知るレオナルド監督の“推し”もあり、長友はインテルという新天地ですぐに結果を出し始めた。サネッティ、スナイデル、エトオ、カンビアッソ、ミリート、マイコン……。当時のインテルには、2010年、欧州制覇を果たしたときのメンバーがまだごっそりと残っていた。その中でも長友は臆することなく、泥臭く諦めない、そのプレースタイルを貫いた。彼のプレーには常に“気持ち”があった。イタリアのファンもそれを察知し、そんな彼のサッカーへの姿勢を愛した。長友は巨星のまぎれもない主力となっていった。
結局、7年間、彼はインテルのユニフォームを着続けた。クラブは毎シーズンのようにライバルとなるようなサイドバックを獲得してきた。しかし、彼がレギュラーの座を明け渡すことはなかった。インテルで公式通算210試合の出場。私の中の長友佑都は、今もやはりインテルのあの青と黒のユニフォームをまとった彼である。55番の背番号が、その背中を実際以上に大きく見せていた。
番組制作終了後も、私は長友を追い続けた。某国営放送のインタビュアーとして、インテルの試合があり、長友佑都がプレーするところにはどこへでもついていった。長友の活躍と共に、インテルは私のことも受け入れてくれはじめた。インテルというクラブには、そうした懐の深さ、温かさがあった。
今も忘れることのできない夜がある。2011年4月23日、サン・シーロで行われたインテルvs.ラツィオが行われた夜。ゲームは2-1でインテルの勝利に終わるが、そこでの長友のパフォーマンスが秀逸だった。当時、スイス代表の主力だったステファン・リヒトシュタイナー(彼はその後ユーヴェへ移籍)を左サイドで圧倒した。66分には、当時イタリア代表のステファノ・マウリが長友の前線への突進をファウルで止めるしかなく一発退場。インテルの勝利は、あれで事実上確定した。
試合後のミックスゾーンは興奮のるつぼだった。インテル・チャンネルの名物アナウンサー、ロベルト・スカルピーニが声を荒げる。
「今日のヒーローは、誰が何と言おうとユウトだ! ユウトのインタビューを全国に流す。ミツオ! 通訳の補助を頼むぞ!」
私の脇にやってきた長友だけが冷静だった。そして、たんたんとカメラに向かってこう語った。
「今日、僕は、自分の中にある高い壁を“ひとつだけ”こえました。でもここでとまるつもりはありません。これからも壁はある。それをこえ続けていくだけです」
翌日のあるスポーツ紙にこんな見出しが躍った。「ナガトモ、“壁”をこえる」
壁。
画面の中の長友は、インタビューに応え続けている。心中穏やかでないのはわかる。ただ、言葉を慎重に選びながら語るその表情には、あのラツィオ戦の夜に通ずる冷静さが残っていた。ワールドカップで彼の前にまたも立ちはだかった“16強の壁”。
「この悔しさを……必ず、“彼ら”がこの先の日本サッカーに活かしてくれると思いますし……」
自分にはもうあの壁をこえるチャンスは訪れないという意味だろうか。引退? まさか……。彼の声が、あの夜の冷静な受け答えとリンクする。「これからも、それをこえ続けていくだけです」。
あのラツィオ戦からもう10年以上の月日が流れた。あれ以降、彼は一体いくつの壁を乗り越えてきたのだろう。そして、きっとこれからも……。
長友のインタビューが終わり、画面が別の選手のアップに切り替わる。そぞろな心でそれを確認した後、私はテレビのリモコンを手にとり、そっと電源をオフにした。(敬称略)