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『ホークス3軍はなぜ成功したのか?』喜瀬雅則著/福岡ソフトバンクと東京ヤクルトをつなぐ点と線。

光文社新書編集部の三宅です。『ホークス3軍はなぜ成功したのか?』の本文公開、おかげさまで多くの方に読んでいただきました。書籍もたいへん好評で、嬉しい感想がたくさん届いております。ツイッター上の感想も、にんまりしながら拝見しています。感想では、無名の千賀投手を発見した名古屋市の運動具店のご主人について言及される方が多いですね。このエピソード自体は非常に有名ですが、その運動具店まで足を運んで取材・執筆を行ったのは、かなりレアケースではないでしょうか。著者の喜瀬さんのフットワークと熱さに脱帽です。内容については、ぜひ本書をご一読いただければ幸いです。

目次・序章「俺を使え」はこちら。第1章「3軍を創る」はこちら。第2章「逸材を探せ」はこちら

さて、この記事では、本書の中で東京ヤクルトスワローズに触れた箇所を、引用・ご紹介します。なぜ唐突にヤクルトなんだと聞かれれば、ファンだからとしか言いようがありません。しかし、ヤクルトファンであれば、ホークス3軍が今シーズンの燕軍団の重要なカギになっていることをご存知のはず――と、さすがにこれは言い過ぎで、こじつけと身びいきがかなり入っていますが、記事のほう、ご一読いただけると幸いです!

いよいよ「第4世代」へ

2020年(令和2年)3月16日。
ソフトバンクは、2人の育成選手を支配下登録することを発表した。
3年目の投手・尾形崇斗と、同じく3年目の内野手・リチャード。
福島・学法石川高出身の尾形は、150キロ超のスピード、高校出の育成、そして右腕という共通点から「千賀2世」の異名を取る。リチャードは父がアメリカ人、母が日本人、兄は米マリナーズ傘下のマイナーに所属する投手であり、身長1メートル89、体重112キロの恵まれた体格から、2019年冬に行われた台湾でのウィンターリーグで本塁打、打点の2冠王に輝くなど、次世代の大砲候補の評判が高い。
2017年(平成29年)育成ドラフトの1位が尾形、2位は周東で、3位にはリチャード、4位が大竹だった。
〝筑後育ち〟の飛躍は、まさしく「3軍制」の充実ぶりを示している。
ソフトバンクのGM・三笠杉彦は、千賀、甲斐、牧原の「第1世代」から、石川の「第2世代」、大竹、周東の「第3世代」に続き、いよいよ「第4世代」に突入したという。
「始まりの頃、ホークスの3軍、育成に関して、他は無警戒だったんです。だから、千賀君や甲斐君、牧原君が獲れたんです。
石川君の頃、ちょっと(1軍選手が)出てくるのが止まるのは、ホークスの3軍や育成が結果を出してきて、プロが警戒するのではなく、大学や社会人が警戒したからなんです。育成選手を獲るのは、アマとの競争になるんです。そういう時期がありました。
そこで(筑後の)施設が整うタイミングが合ったわけです。
またスカウティングに力を入れました。千賀君や(甲斐)拓也君が日本を代表する選手になったのも大きかったですね。大学や社会人に行かないで、ホークスに来る。育成でもいい選手が来る。それが第3期ですね。
これから起こる第4世代は、長谷川宙輝(ひろき)君みたいに、他の支配下へ行くケースでしょうね。これに、どう対処するかです」

その「第4世代」の流出が、すでに起こっている。
三笠が挙げた長谷川宙輝は、東京・聖徳学園高から2016年(平成28年)に、育成ドラフト2位指名を受け、ソフトバンクに入団した左腕投手だ。
高校3年夏の西東京大会では3回戦敗退。しかし、2年秋には1試合20三振をマークしたこともある隠れた逸材は、まさしくソフトバンクの「3軍」にふさわしい、育てがいのあるサウスポーでもあった。
プロ2年目で、2月の宮崎キャンプでは主力中心のA組に抜擢された。しかし、そのふるい落としの中で生き残れず、支配下昇格のチャンスを逃してしまった。
在籍3年で、育成選手はいったん自由契約になる。そのとき、他球団から声がかかり、移籍することは、ルール上全く問題はない。
逸材がゴロゴロしているソフトバンクの3軍はまさしく、宝の山だ。
長谷川はいったん、2019年の宮崎秋季キャンプに参加している。しかし、そこでヤクルトから「支配下」としての入団打診があった。
すると、キャンプを離脱して、新天地を選んだのだ。
 
ただ、これに対しても、あえて〝逆〟のことを言ってみる。
ソフトバンクにお世話になって、まだ結果が出ていないじゃないか。
だから、ご恩返しができる立場になるまでは、そこで頑張るべきではないか。
それが、ちょっと上の世代の〝当たり前〟の感覚かもしれない。
しかし、長谷川はヤクルトへの移籍を決断した。
自分を生かせる「環境」を、自分の力や立場に応じて選ぶ。
そこを、ドライに、シビアに決断できるのが「第3世代」以降の「新世代」の特徴なのかもしれない。
「足」を生かす。
「足」を伸ばす。
「足」で生きていく。
それができる「環境」を選ぶのが、周東の決断でもあった。
「3軍だから、育成だから、というのは、そんなになかったですね。やったら、やった分だけ、返って来ると思っていました。設備だってすごいし、他の球団なら分かりませんでしたけど、ホークスの育成なら頑張ってみようと。筑後という設備もある、育成からすごく活躍している選手もいる。僕は、それが励みになりました。入る形は関係ないんだと。ドラフト1位だって、活躍できないこともある。だから、捉えやすかったです。僕は、すんなりと入ろうと思いました。親からも、反対されたりすることもなかったですし」
「3軍制」は、時代の流れに即し、そして、令和の新時代を担う若き世代の心にも、うまくフィットするのかもしれない。
千賀、甲斐、牧原、石川、大竹、周東。
その「順」の妙味も、偶然ではなく、必然だったのだろう。■

この「第4世代」長谷川投手ですが、移籍後のキャンプから評価が高く、オープン戦でも非常に良いピッチングをしていました。オープン戦で彼が投げた試合はほぼ見ていますが、素晴らしい投げっぷり。その陰には高津臣吾監督のアドバイスもあったようです。

高津臣吾監督は「ヤクルトにはいないタイプの投手だと思いますし、左で球に力があるのはすごい魅力」と高評価。そのうえで「大事な場面で行くことも多くなると思う。いろいろな経験をさせて、成長させていかないといけない」と今後に期待した。(週刊ベースボールより)

1軍の登板経験がない点だけを除けば、かなりの有望株です! 高津監督だけでなく、私も大いに期待しています! 早く野球が見たい!
さて、もうひとつ、ヤクルトつながりで、甲斐拓也捕手に関する引用です。喜瀬さんがあの日に話を聞けたのは、まさに天の配剤でした。ジーンとくる内容です。

ノムさんの背番号を受け継ぐ

2020年(令和2年)2月11日。
甲斐は、大勢のカメラの前に立っていた。
涙をこらえながら語っていたのは、その日の朝、急逝した野村克也のことだった。
この年から、甲斐の背番号は「19」になった。
ソフトバンクの前身、南海ホークスの名捕手・野村克也。
戦後初の3冠王。ID野球。「生涯一捕手」として45歳まで現役を続けた。
監督として日本一3度、歴代5位の監督通算1565勝。
その〝ノムさん〟を象徴する「19」を継ぐ捕手は、ホークスにいなかった。
野村の存在が、あまりにも大き過ぎたからだ。
その野村が、かねてから高く評価していたのが甲斐のことだった。
甲斐は、その偉大なる先輩の著書を、高校時代から何冊も読み込んでいた。
TV番組や雑誌で野村と対談したときにも、甲斐から〝野村語録〟がすらすらと口を突いて出てくることに、野村自身が驚くシーンもたびたびだった。
「俺と境遇が似ている。だから、気になっていたんだ」
母子家庭だったという同じ境遇。テスト生だった野村と、育成の最下位指名だった甲斐。
そこから、2人は必死に這い上がってきた。
ボヤキのノムさんが、甲斐の姿に、かつての「自分」を投影できたのだろう。
「次は君に『19番』をつけてほしい」
2019年(令和元年)限りで「19」をつけていた左腕投手のアリエル・ミランダが退団。そのタイミングで〝レジェンド・ナンバー〟の継承を、甲斐が球団に申し出たのだ。
「できれば、この『19番』をつけたユニホーム姿を直接見てもらいたかった。見せたかったです」
野村は、甲斐が「19」を背負う姿を実際に見ることなく、この世を去った。
実は、この章の取材のために、甲斐にインタビューをする時間をセッティングしてもらっていたのは、宮崎キャンプ中の「2月11日」のことだった。
その朝、野村の急逝という一報が、日本中を駆け巡った。
「甲斐が、気持ちが落ちちゃっているみたいで……」
チーム広報チーフの篠原周至が、何とも申し訳なさそうに、事前に耳打ちしてくれた。
しかし、いや、むしろ〝この日〟だったからかもしれない。
甲斐は自らの〝原点〟を、実に熱く語ってくれた。
そこには、野村が評価していた、泥くさいまでの「プロ魂」が詰まっている気がした。
だから、甲斐の言葉を、そのまま聞いてほしい。
「筑後」とは、後の章で言及するが、2016年(平成28年)にソフトバンクが福岡県筑後市に完成させた、2球場、室内練習場、寮を完備した一大育成拠点のことだ。

今、筑後で、どれだけいい環境でできているか。
練習時間でも、間に合うように行けばいい。バッティングケージも管理してくれていて、グラウンドにラインも引いてくれて、はい、野球をしてくださいという環境ですよ。
僕らが入った2011年、3軍にバイトの人もいなかった。試合のときはいるけども、ほとんどの練習は、例えば9時練習開始なら、その前に来て、自分たちでラインを引いて、ケージを引っ張って持ってくる。水まきも、自分たちでしました。プロ野球選手なのに、練習が始まる前から、ユニホームのお腹のところとか、もう、最初から汚れているんです。ピッチャーも、ブルペンに行って、マウンドのシートを剝がして、自分たちで整備をするんです。
こんなところに、おりたくない。まず、2軍でやりたい。2軍なら、環境だってちょっとは変わる。2軍に来たら、今度はドームでやりたいと思うんです。
雁の巣が、自分を強くしてくれました。
今、3軍でも、何でもやってくれる。僕からしたら、こんな環境だと、ここでいいわ、と思う選手もいると思いますよ。最初、僕らは、西戸崎で練習ですよ。寮の前の、あの小さいスペース。とてもじゃないけど、キツかった。
もちろん、筑後が悪いとか言うわけじゃないですよ。
環境は最高です。これ以上ない環境です。うまくなる環境として、最高ですよ。雁の巣は苦しかったけど、今思えば、野球の神様はいたなと思います。キツい思いして、よかったんです。今だから、思えます。環境がイコールじゃないけど、野球の神様はいます。だから、僕はキャッチャーの道具を毎日、きれいに磨いているんです。キツいことをやって、野球の神様がいるなら、どこかでチャンスがあると信じていました。
俺がクビになって、山下が輝いたら、野球の神様は、おらんな……と。
今思えば、やってきてよかったなと思います。
最初は「育成だったから」と見られるのがイヤで、うまくいかなくても「やっぱりな」と思われるのがイヤだった。その差を埋めるために練習しました。そう見られないように。
「育成だからな」と、失敗したら、そういう目で見られると悔しいですから。

野村のような、そして甲斐のような「ハングリー精神」が、今の時代には足りない。
それを持っていないから、今の若いやつはダメだ。
そんな陳腐なまとめにするつもりは、毛頭ない。
しかし、甲斐がこの10年間に積み重ねてきた体験は、間違いなく、「野球人・甲斐拓也」を、大きく、そしてたくましく成長させてきた。
泥くささは、強さの「礎」なのだ。
「何も分からない状態。プロの世界も分からない。まして、3軍がどういったシステムかも分からなかった。どうなるか分からない状態で過ごしていたんです。3軍ができるという話は聞かされていて、育成を理解した上で入ってきましたけど、それでも正直、不安しかありませんでした。なんだろうなあ……。3軍という形がないだけで、育成と支配下の違いを感じました」
甲斐が、千賀が、育成選手として入団したとき、その「3軍」というものが「形」としては、なかったのに等しかった。
それは、新たなプロジェクトを発足させる、その〝創業期〟ゆえの混乱でもある。
甲斐も、千賀も、牧原も、その苦境を自分の力で乗り越えてきた。
10年目のプロ生活。その歩みは、決して順調ではなく、早いわけでもなかった。
この「肩」で、俺は生きていくんだ――。
強い覚悟を胸に、甲斐拓也は戦い続けてきたのだ。■


 

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