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水月昭道著『高学歴ワーキングプア』全文公開/第7章「学校法人に期待すること」

光文社新書編集部の三宅です。『「高学歴ワーキングプア」からの脱出』が先日刊行されました。これに合わせて、2007年刊行の『高学歴ワーキングプア』の全文を順次、公開しています。本日は最終回で、第7章「学校法人に期待すること」と「おわりに」です。

目次、はじめに、第1章はこちら。第2章はこちら。第3章はこちら。第4章はこちら。第5章はこちら。第6章はこちら

第7章 学校法人に期待すること

教員の意識と法人の方針

大学全入時代を迎え、日本全国の大学は、各々生き残りをかけてしのぎを削っている。

組織として、どのような戦略をたて、それをどのようによりよく実現していくか。そのためには、法人による意思決定と、現場からの協力との両者がうまく噛み合うことが重要となる。

学校法人サイド(理事会側)と教員や事務方が一致団結すること。これこそが、生き残るための唯一にして必須の戦略なのではないだろうか。

だが、それがうまくいっていると自信を持って言えるところは、現在、どれ程あるのだろう。

大学院重点化の流れのなかで起こった、いくつかの印象的なことが、法人と現場の一致団結がいかに困難を伴うものかということを教えてくれる。

そもそも、大学院重点化とは、さまざまな大義が掲げられることで実施されてきたのだが、法人サイドにとって、本音の部分で最も魅力的だったことの一つは、イメージアップと共に当面の収益アップが見込めるという部分だろう。

また、すでに一八歳人口のピークを平成四(一九九二)年に迎えたこともあり、その後の学部入学者減が容易に予測されるなかで、その穴を埋めるような形で院生増産の政策が実施されることは、全国の大学の法人サイドにとって、まさに渡りに船の有り難さでもあったことだろう。

こうして新規導入された政策に乗る形で、新しい方針を打ち出し始めた学校法人サイドによって、院生増産は一気に実現されていくこととなった。だが、大学を運営するトップの方針と現場の意識には、少なからず乖離があったのではないだろうか。

すでに、経営の将来的観点から大学院重点化という決断が──果たしてそれがよいことなのかどうかといったことは別として──打ち出されたにもかかわらず、レヴェルの低い学生が入ってきて大学院の水準が下がったなどの発言が、当の法人に所属する教員から出されるという矛盾。こうしたことを、私たちは度々目にしてきたはずだ。

「経営のために、学生を増やす」。これが法人の方針であるとするならば、その学校に通うことになる学生は、法人にとっても、苦しい経営を助けてくれる〝お客様〟であるはずだ。だが、新たなルールの下で新しく入ってきた学生を指して、堂々と馬鹿呼ばわりをする教員がいるのは、一体どういうことなのか。そこに、法人の方針と現場の意識の齟齬が認められるのである。

なぜ、そんなことが起こるのだろうか。これは、あくまでも私見だが、法人の意識にその問題の本質があるのではないか。

学校経営をどういう観点から行おうとしているのか。経営に対して、どんな哲学を持っているのか。どんな教育がしたいのか。なぜ、教育を行おうとするのか。これらのことを自問自答することなく、ただ経営のことだけを考えていないだろうか。

そのことが、現場に暗黙のうちに伝わっているような気がしてならないのである。それが、先の「馬鹿が来たからレヴェルが下がった」といった下品な発言を生むことにつながっているのではないだろうか。

逆に言えば、法人の本音・意識が忠実に表された発言のようにも思えるのだ。「学生は、確かにお客様ですよ。ネギまでしょってきてくれて、ありがたや」、と。いかにも下品なこうした思惑が、現場にも伝わっているとしたら、同じように下司な発言がそこから発せられたとしてもなんら不思議ではない。

法人は、経営方針を示すことはあっても、経営哲学を現場に示してはいないのではないだろうか。だからこそ、教員の意識と法人の方針は、その底流にある下品な部分では一致し、表面に出てくる言葉には乖離が見られるようになるのである。

本音を隠した法人が、「学生は神様です」と一見へりくだった発言をしてみせても、現場の一部の抜け作からは、「馬鹿な学生が来た。せいぜい経営の人柱になってもらおう」という本音がポロッと出てしまうのである。

学生をカモにする法人の未来

法人は、学生に対してどんな意識を持っているのだろうか。もし、このことを知りたいのであれば、卒業生に本音を語ってもらえばよい。

その上で、その法人が、日頃どんな発言やどんな経営態度をとっているかということを注意深く観察するとよい。財務に透明性を持たせているか、適切な人事が行われているか、卒業生の雇用割合はどのくらいか、後進を育てているか、適切な期間内でトップが入れ替わっているか、役職者の顔や経歴がオープンにされているか、といったことだ。すると、それが信用に足る法人かが、自然と見えてくるはずだ。

たとえば、私が耳にした卒業生の声のなかには、次のようなものがあった。インタビューでは、大学ではなく高校時代のことを話してもらったが、対象者が通った学校の法人は大学も経営している。

この卒業生が通った学校の法人は、信用してもよいものか。少し考えてみてほしい。語ってくれたのは、地方の進学校といわれるところから旧帝大に進学し、現在は企業で働く浅田さんだ。細身のグレースーツに身をまとい、セミ・ロングヘアーを風になびかせながら、待ち合わせの場所に颯爽と現れた浅田さんは、とても知的なムードを醸し出していた。

浅田さんは、高校時代、私立進学コースにいた。彼女の通う学校は、大学進学を視野に入れた厳密なコース分けがなされていた。当初は、私立を受験しようと考えていた浅田さんだったが、ある時、国立に進学したいという気持ちが生まれた。

ある日、浅田さんが、正直にそのことを学校に相談した時のことである。相談を受けた学校側の反応は、とても冷たいものだった。その時のことを思い出すと、浅田さんは、今でも激しい怒りがこみ上がるという。

「私が国立を受験したいと言うと、余計なことをしないで私立を受けていればいいと諭されたのです。私立コースから通るわけがないとも」

私立から国立コースへの鞍替えを願い出た浅田さんに、学校は露骨に嫌な顔を示したという。当然、浅田さんが目標とする大学の入試を突破するためのサポートも、一切なかった。

「私は、自分でやるしかないと思い、必死でさまざまな情報にあたりました。そして、絶対に見返してやるという気持ちで必死に勉強しました」

その努力が報われる形で、浅田さんは見事、現役で目標の大学に合格した。ところが、である。

「私が合格した途端、学校はそのことを宣伝し始めたのです」

当時、それまで私立コースから国立大学へ合格したものはまだいなかった。いわば浅田さんは、新たな道を切り開いたパイオニアとなったのだった。すると学校は、そのことを大きく宣伝したのだった。

「ウチは私立コースからも国立に合格させます。さまざまな選択を可能とする本学へ、是非、安心して入学してください」

浅田さんは、学校からのサポートなどまったく受けていないにもかかわらず、いつの間にか、彼女の合格は、学校が優れた指導をしたことで実現したという話にされてしまっていたのだった。これについて、彼女はこう憤る。

「こんな馬鹿な話はありません。学生を侮辱するにもほどがあるのではないでしょうか」

返す言葉もないとは、このことではないだろうか。

自学に進学してくれた学生を、学校の宣伝に利用するようなマネをするだけでなく、これから新しく入学しようとしている学生をも、言葉巧みに騙そうとしている。浅田さんは、そう感じたのだった。だからこその怒りだった。

卒業後、浅田さんは、この学校を見限ってしまった。

だが、それでも卒業後には、一方的・定期的に学校から寄付の依頼がくるため、なかなか縁が切れないと、浅田さんはうんざりした顔で語る。

「やれ、校舎を建て替える。やれ、何十周年記念だ、とキリがないんです」

当然、浅田さんが寄付をしたことは一度もない。

「そんな気分になれるはずもないですから」

浅田さんは、祖母と母に勧められてこの学校に進学したという。いわば、三代続けて同じ学校に通うことになったわけだ。学校にとってこれほどありがたい話はない。

「祖母や母の話では、生徒を大切にするとてもよい学校だと聞いていたのですが、まったく違っていました。おそらく、昔とは変わってしまったのでしょう」

こうした学校には、もはや創立者の理念なぞ微塵も残っていないことを如実に感じさせる、浅田さんのそうした発言であった。

最後に浅田さんに聞いてみた。

「自分の子どもをその学校に入れたいと思いますか」

彼女は少し逡巡した後、黙って首を横に振ったのだった。ちなみに、彼女と同様の気持ちを持つ同級生は少なくないという。

さて、この法人、あなたなら信用しますか?

学校法人における精神・教育・経済の序列

この例は、高校を持つ学校法人の態度について見てきたものだったが、大学であっても、似たようなことはいくらでもあるはずだ。本書の第1章に出てきた、岡崎さんが直面した状況も、法人サイドが自学の学生をどのように考えているのかということを端的に示す例であろう。

いわゆる三流大学といわれるところを出た岡崎さんが、その後発奮してイギリスに留学し、博士号を取得して帰ってきた。だが、母校では、専任教員のポストに既得権を有する勢力が居座り続け、母校への奉公がしたいという岡崎さんの思いも虚しく、門前払いをくらったのであった。

ちなみに、岡崎さんの出身大学では、教職員に占める母校出身者の割合は極めて小さいという。とくに教員では、片手で数えても余るほどしかいないという惨状だ。現在では、博士課程も設置され、すでに学位授与者も出ているにもかかわらずだ。

加えて、三流私立大学の常で、大学院修士課程を出た人間もほとんど就職がない状況だという。だが、法人側は、何らの対策も練ることなく、これらを放置し続けている。そして、相変わらず、「ウチの大学院は社会貢献をしています」とのたまっているという。事実は、高学歴フリーターを生産しているだけなのだが……。

これらの法人の態度は、その学校に通う、あるいは通った学生たちに、どのように映っているだろうか。

岡崎さんの同級生の西江さんはこう語る。

「在学時に常に思っていたことは、まったく教育に力を入れてくれない大学だなということでした」

大学での講義に刺激はほとんどなく、明らかに事前準備に時間がかけられていないということがわかる内容で、質問にも明確な回答が寄せられることはほとんどなかったという。ある時、あまりの講義内容の陳腐さに、学生たち数人が集まって学校側に問題提起をしたことがあったそうだ。その時、寄せられた返事は、

「大学とは、自ら学ぶところである。教えてもらおうなどという考えは、おかしいと知りなさい」

この時、西江さんたちは、この大学に心底嫌気がさしたのだという。

「この大学は、学生を飯の種くらいにしか思っていない」

西江さんらが感じた、この時の正直な気持ちである。

こうした大学の法人は、学校経営を上手にごまかして、短期的な視点から運営に問題が生じないようにすることだけに意識を集中しすぎるのかもしれない。

一般に、学校運営には、このような経済的基盤と共に、教育的基盤が正常・健全であることが大事だとよく言われる。だが、そこには最も大事なモノがあと一つ抜け落ちているのではないだろうか。それは、「精神的基盤」である。心の健全さがなければ、学校運営は簡単におかしな方向にいってしまうのではないのか。

では、その心の健全さというのは、どんなものなのか。実は、それこそが、創立者の思想に表されていることなのである。学校、とくにほとんどの私学には、創立者が必ずいる。そして、創立の理念というものが、どこの学校にも掲げられている。

そこには、どうして「この学校が創られることになったのか」という、学校の存在理由が明確に示されているのである。この創立者の理念が、きちんと引き継がれているかどうか、常に内省し検証を怠らないこと。これが、学校にとっての「こころの健全性」を保つ唯一の方法なのではなかろうか。

誇りを持って創られた学校が、いつの間にやら金のことだけを考えるようになってしまう。そうした変化は、周囲の人間にすぐに見破られてしまうのである。とくに、若い学生たちは敏感だ。

学校運営上における経済の問題や教育の問題は、「精神」に従属することなくして、その健全性を保つことは不可能である。

これから高等教育の門をたたく者にとっては、究極の売り手市場となる。

現在もまだ、学生をカモだと思っているような学校法人があれば、もはやその法人に未来はないだろう。法人は、もっと学生たちから愛されるようになる運営を行うことが必要だ。それには、学生を利用するという態度を改め、個々の学生に対して「慈」の気持ちをきちんと持つことが必要となるだろう。それなくして、存続などありえないのである。学生はそんなに馬鹿ではないのだから。

学生に愛される研究室の秘密

最近は、ついぞ、自らの出身大学に愛着があるなどという発言を耳にする機会は減ってしまった。『名門高校人脈』(鈴木隆祐著、光文社新書)では、そうした世相を表すように、もはや大学閥ではなく高校閥のほうに、結束のウエイトが移ってきたと指摘している。成果主義が導入されるに従って、旧来の大学閥から、より結びつきの濃い高校閥のほうが重視されるようになってきたそうだ。

私の周囲でも、出身大学への愛着を口にする人は少ないが、出身高校のことを語りだすと止まらなくなるという人たちは沢山いる。彼ら彼女らは、一様に、母校や母校の先生、先輩・後輩のことを愛してやまない。その訳を聞くと、多くは「自分たちを大切にしてくれた」という思いがあるということだった。個々人への配慮ができるというのは、小回りがきく高校ならではのことだろう。

それから比べると、大学というところは、どこも少し大きくなりすぎたのかもしれない。大学を一つの顔として見て、「愛着がある」と言われることが少なくなったのは、そういうことも影響しているのかもしれない。

一方で、大学のなかでも、研究室という小さな単位にまでなると、「愛着がある」ということで語られる話はまだ少なくない。

関西で一流とされる私立大学の、ある研究室の卒業生たちは、口を揃えて「この研究室に来てよかった」という。どこがよかったのかと尋ねると、先生がよかったのはもちろんのこと、教室全体に醸し出される雰囲気がとてもよかったという。具体的には、全員が「良い卒業論文を書く」という目標に向かって一致団結して、決して反目するようなこともなく、最後までお互いに協力しあうという雰囲気が実現されていたそうだ。

人が集まれば、普通は、喧嘩や足の引っ張り合いも多少あろうというものだ。しかし、この研究室では、開設以来一度もそういったことが起こったためしはないそうなのだ。

それには、教室を運営する教員によるさまざまな仕掛けもあった。

たとえば、結束力を高めるために、年間を通じて、勉強の合宿やスイカ割りなどのイベント、ゼミ旅行、クリスマス・パーティ、その他多数の飲み会などが意図的に計画されている。研究テーマは自由に設定でき、学科の他の研究室のようにキチキチとしたものでなくとも認められる。だが、ここにもある計算があって、あえてそれを許している。

学科のなかでも、異色の研究発表を行うということであれば、当然、他から叩かれる。そうしたプレッシャーには、一致団結して戦うことが必要となる。要するに、共通の敵が生まれるわけだ。必然的に、団結力は高まっていく。目標も高く設定される。毎年、学科で一番になることを目指して、全員が頑張るという構図が出来上がる。

メーリング・リストなどが活用され、他者の研究に有意義な資料等が見つかれば、すぐにそれを教えあうという空気が醸成されてもいる。さらに、卒業生も、こうした助け合いの場に度々顔を出す。

卒業論文等は、皆で冊子に編集する作業が行われ、大学内外の研究室に配られる。そのため、皆、恥をかかないように必死で論文を書く。極めつきは、卒業論文完成直前二週間ほどを、一つの部屋に集まりながら全員で過ごすことだ。テンパった空気のなかで、皆が、お互いに助け合いながら、完成を目指す。

そしてそこには、朝から晩まで付きそう教員の姿がある。加えて、卒業した先輩も時々参加してくれる。しかも、毎日、ケーキやお菓子、コーヒー・紅茶といった差し入れ付きだ。もちろん、教員や先輩の持ち出しだ。

こうまでされて、自分の先生や先輩そして同級生、研究室を愛さない学生がいるはずがない。もちろんそれは、いろんな仕掛けがあってのことであるが、しかし、その団結力の最大の秘密について考えるとき、私には、そこにたった一つのキーワードが見えてくるのだ。

それが、「利他の精神」である。

この研究室では、入研した第一回の集まりで、教員から伝えられる大切なメッセージがあるという。

「お互いに協力し合いなさい。決して、足を引っ張りあうようなことはしないように。相手のためになることに、力を惜しまないこと。それが、いつか自分に返ってきます」

二〇歳そこそこの若者たちに、こうしてとうとうと利他の精神が説かれるわけである。そして、その具現化のためにさまざまな仕掛けが用いられ、一年後には立派にそれは学生たちのなかに身体化されるのである。

教員自身も、利他の精神の持つ力の大きさを行動で示すように、多大なる時間と金と労力を学生のために投じるのだ。朝から晩まで、二週間も学生指導に付きっきりになるということや、毎日の差し入れを買いに行ったりすることなど、雑務に追われる教員にとってどれ程の負担となることか。だが、それが「利他の精神」の現れなのだろう。

〝持ち出し〟をどれ程できるかが大事なのです、とは当の先生の言葉である。

学生たちは、自分たちのために先生がどれ程一生懸命になってくれているのか、それをしっかりと見て分かっているのだ。だからこそ、学生同士もそれに負けじと、一生懸命に利他の精神を発揮させる。そして最後には、皆、「ここに来てよかった」と言って、笑顔で卒業していくのである。

昔に比べ、同窓会を開いても人が集まらない。寄付をお願いしても、思うように集まらない。親子代々にわたって、進学してくれるパターンが減った。こういうことを耳にすることは、最近では珍しいことではない。

最近の若い人たちの考えは、昔とは全然違っている。時代が変わったのだ。そう言って、若い人たちが学校への愛着を示さなくなったことを、単純化してただ嘆くだけの風潮も、また然りである。だが、本当に時代が変わっただけなのか。時代が変わっても、愛される先生や場が学校のなかに確かにあることは、たった今、見てきた通りだ。

若者が学校への愛着を失いつつあるのは、若い人たちの考え方が変わったのではなく、学校法人が一人ひとりの学生を慈しむことを忘れてしまい、自らが生き延びることだけに必死になってしまっているからではないのか。利他の精神はまったくなく、自らの利益だけを守ることに執着している人がいたとする。一体、誰がそんな人に愛情を示し得るというのだろうか。

相手が人から学校に変わっても同じことだ。利他の精神のない学校に、どんな学生が愛着を示してくれるというのか。

本書で取り上げてきた高学歴ワーキングプアたちも、利他の精神を失い、自らが生き延びることだけを最優先した「経営優先思考」を学校法人が選択した結果、必然的に生み出された産物であった。いわば、彼らは食いものにされた被害者なのだ。こんな目にあえば、ふつうは誰でも裏切られたという気持ちになるのではなかろうか。

社会のなかに、そうした「裏切られた」という思いを持つ人たちを沢山輩出することは、社会全体の損にはなっても、なんら得になることはないはずだ。

日本社会のなかに閉塞感が漂い始めて久しい。皆、自らが生きることで精一杯であるかのように見える。だが、学校にだけは、そうなってほしくない。なぜなら、学校だけが、明るい未来を実現し得る可能性を持つ人たちの輩出に、直接かかわっている、社会にとってとても大切な存在であるからだ。日本の閉塞感を打ち破る人材を生み出すことができるのは、学校をおいて他にないのである。

私たちの子孫を、慈愛に富んだ社会に住まわせたいか、それとも、弱肉強食の論理がまかり通る熾烈な競争社会をよしとする殺伐とした世界に住まわせたいか。学校の態度こそが、それを決定するのである。

もし、学校が「利他の精神」を十分に発揮したならば、教育の成果が出るといわれる二五年後の世界は、少なくとも今より期待が持てるものとなるだろう。

希望のある社会の実現に向けて、今、学校が果たすべき役割はとてつもなく大きい。同時に、私たちにとっては、全国の学校法人の動きを注視していくことが重要となろう。人の目を意識しないものはいないからだ。

自らの子どもや孫を、どの学校へ入れたらよいのか。彼らに、「ここに来てよかった」と言ってもらえるか、それとも、「来なければよかった」と言わせてしまうのか。学校の選択を間違うことは、まったく異なる道のりを子孫たちに歩ませることに他ならない。

そのことは、二五年後の社会がどのように形成されていくのかということに直結している。私たちの子孫が住まう世界は、温かい世の中なのだろうか、それとも、冷たい世界なのか。

今、学校法人の「利他の精神」が試されている。

おわりに

日本のような成熟社会における〝ネクスト・ソサイエティ〟は、〝知識社会〟であるといわれている。BRICs(ブラジル、ロシア、インド、中国)どころかVISTA(ベトナム、インドネシア、南アフリカ、トルコ、アルゼンチン)の台頭が指摘されている現在、サービス業(第三次産業)だけでなく、農業(第一次産業)でも製造業(第二次産業)でも、最先端の付加価値を備えた製品やサービスを生み出していかなければ、日本に未来はない。その意味で、高等教育の充実という施策は、少しも間違っていない。

だが、こうした〝提言〟は、学者や評論家が行うことである。これを、国民の税金を使って政策として行う以上、具体的な社会のニーズを探り、政府の打った施策が社会のどの部分でどのように具体的な形で動いていくのかという、明確なビジョンが必要となる。

もし、それがないままに行われた施策であるとすれば、それは第一義的に税金の浪費であり、自己の職責に対する責任の不在であり、結果的に組織の既得権だけが温存されたとすれば、犯罪ともいうべき背信行為である。私が本書において指弾するのは、もっぱらこの部分なのである。

多くの日本人が、来るべき〝ネクスト・ソサイエティ〟を、生きがいを感じながらより豊かに生きていくために、高等教育の充実が本当に必要だとすれば──少なくとも私はそう信じている──、学生、その保護者、納税者が一方的に犠牲を強いられる現在の三方損は、かならず克服されなければならない。

それどころか、日本に〝知識社会〟という新たな〝価値〟を創造していくためにこそ、キャリア官僚たちの優秀といわれ続けてきた頭脳が、その真価を発揮されるべき時なのである。

本書執筆にあたっては、多くの方々に大変お世話になりました。失意のどん底にありながら、なお明日への希望を手放すことなく必死に日々を生きる非正規雇用の博士たち、そしてワーキングプアと呼ばれるすべての人たち。同じ苦しみの内に生きる御同朋たちからは、心の奥底の貴重な声を聞かせて頂きました。感謝します。社会が少しでも変わることを願いながら本文をしたためてみました。お役にたてたとしたら幸いです。

実名でのインタビューに応じて頂いた、パイプドビッツの佐谷宣昭社長、志賀正規氏、九州大学の南博文教授、立命館大学のサトウタツヤ教授からは、激動期にある高等教育の現場で青息吐息の院生や無職博士たちに、大きな夢と生きる力を賜りました(私も何とか生きていけそうな気がしてきました)。ありがとうございました。

最後になりましたが、光文社新書編集部の三宅貴久氏に精一杯の感謝の気持ちを込めてお礼を。筆者の荒削りな文章が、もし読者の目を疲れさせないものへと昇華していたとしたら、ひとえに三宅さんの的確かつ丁寧な助言と修正によるおかげです。

非正規雇用が少しも不思議なことではないという価値観が、この国の社会全体の中に根を張ろうとしている今、そこに一筋の光明が差し込むことを願う人たちは少なくありません。本書は、その想いの集結により生み出されたものと感じる今日です。この小さなスペースですべての人をご紹介することは不可能ですが、関わった方たち全員の幸せと健康を祈ります。

日本の大地に生きるすべての人々が安らげる世を願って。合掌

平成一九年九月

水月昭道

5月20日発売の新刊です。


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