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不倫をしたくてたまらなかった『蒲団』の時雄は、しかし意外と「いい夫」だった #4_2

ちょっぴりフェティッシュなイメージの一方で、繊細かつ緻密な恋愛描写が光る田山花袋の『蒲団』。後編では、この小説の2大テーマのひとつである「不倫」がどのように描かれているかを詳しく見ていきます。そして、不倫願望に悶々とする時雄が意外に「いい夫」である理由とは――? 何かと話題を巻き起こしがちな「不倫」について、「不倫学」を提唱する森川先生の考察が冴え渡ります。

前編はこちら

「不倫」を定義する

『蒲団』が扱うもう一つの重要なテーマは「不倫」です。不倫とは、いろいろな定義が考えられますが、既婚者が行なうものであることは確かですね。

18世紀のドイツの哲学者、イマヌエル・カントによれば、結婚とは「性器の独占的保有」の関係ですので、この定義にしたがい、

 不倫とは、既婚者が配偶者以外の人と性行為を行なうこと

とします。精神的な浮気や、手をつなぐ、キスをするといった行為は含みません。

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こうした不倫ですが、現代の世の中には蔓延しています。また古来より、不倫を表す言葉として「不義密通」「姦通」「姦淫」「不貞」「よろめき」「野合」「道ならぬ恋」「桑中の期」「密懐」「密会」といった多彩な言葉が使われてきていますので、時代を超えて夫婦間に不倫が横行していたことも分かります。

「不倫は文化」とは石田純一さんの有名な言葉ですが、実際には不倫はすべての国籍、人種、文化、歴史を超えて普遍的に見られる現象なので、どこか固有の国の文化的産物というより、遺伝子に根差した欲求と考える方が自然です。「不倫は遺伝子」なのです。

結婚制度は人間がつくりだした社会制度です。一方、不倫は遺伝子の欲求です。この両者の間で葛藤するのが、私たち人間ということになります。ただし、不倫は秘匿が原則なので、表にはなかなか出てきません。『蒲団』はそうした私たちの隠された不倫願望を明らかにした点で意義のある小説だと言えます。

ただし『蒲団』は「不倫小説」ではありませんので、念のため。あえて言えば「不倫願望」小説です。時雄は不倫の妄想をしていましたが、実行はしませんでした。行為に及ぶか及ばないかは大きな違いです。実際に及んでいたら、もっと違った小説になっていましたし、明治時代にあっては社会的な拒絶にあってたいへんな事件になっていたに違いありません。『蒲団』は不倫しなかったからこそ名作になったのです。

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不倫には「方程式」が存在する

不倫するかしないかを決める場合、実行者は用意周到なシミュレーションをします。不倫したらどんなにすばらしいかとか、あるいは不倫をしても発覚しないか。自分は秘密にするが相手も秘匿してくれるだろうか。発覚した場合には配偶者からどのようなペナルティが待っているのか、あるいは離婚されてしまうのかどうかーー。時雄の場合も妄想を通じていろいろな場面を想定しています。

繰り返しますが、時雄には不倫願望はあっても、芳子に対して不倫を実行しませんでした。手をつなぐこともキスもしようとしませんでした。

どのような計算があったのでしょうか? 不倫をするかしないかの意思決定は、実は方程式(アルゴリズム)にすることが可能です。以下に「不倫の方程式」をつくってみましょう。

方程式を作るためには、下記の4つの変数を考慮することが不可欠です。

1.[不倫から得られる利得]
⇒最大のリターンは性行為に伴う快楽、スリル、および一時的ではあるものの相手を保有できることです。露木幸彦氏が『みんなの不倫』で指摘しているように、不倫相手には性行為というリターンのほかに、恋愛的メリット(=恋愛バブルが生じていること)、精神的メリット、逃避的メリットといったようなものが同時に存在しているということになります。

2.[発覚する確率]
⇒不倫が発覚する確率を計算に入れなければなりません。不倫を実行する場合、露見する確率を計算して最悪の事態に備えておくことが重要になります。

3.[発覚後のダメージ]
⇒不倫が配偶者に見つかった場合に被るダメージがあります。発覚した場合、単なる叱責から、物質的・金銭的補償、さらには別居、離婚といった強硬手段に訴えられる時もあり、あるいは配偶者や子どもの心を傷つけるといった場合もあります。また不倫が発覚したあとに、不倫相手と会えなくなるというもの大きなダメージのひとつです。

4.[倫理観]
⇒倫理観があれば、不倫は自制するものです。倫理観がなければ人は簡単に不倫に至ります。道徳観や倫理観というものは、その人のもつ生来的なものと、これまでの人生で受けきた教育や経験によります。また不倫した後の罪悪感をどの程度いだくかもこの変数に含まれます。

以上の変数を考慮に入れて「不倫の方程式」を作成すると、以下のようになります。

不倫の意思決定=(不倫で得られる利得)-[(不倫発覚の確率)×(発覚後のダメージ)+(倫理観)]

上記の方程式がプラスになれば不倫する、マイナスになれば不倫しない、という意思決定になります。不倫に突き進む場合は不倫で得られる利得が決め手となり、その逆に、不倫を思い留まらせるものは不倫が発覚した時に被るダメージ、および自分の心に内在している倫理観しだい。どちらの方が大きいかという問題になるのです。

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時雄はなぜ不倫を思い留まったのか?

時雄には不倫願望がありましたが、最後まで不倫を実行しなかったということは、上記の方程式でいえば、マイナスになったからです。

なぜマイナスになったのでしょうか?

第1の不倫から得られる利得は、時雄にはたくさんありました。結婚生活が平凡になり、妻にも飽きていましたので、刺激がほしかったことが大きな利得と考えられます。その刺激として「出来るならば新しい恋を為たいと痛切に思った」とあるので、恋愛バブルからくる刺激がほしかったのでしょう。

第2は不倫が発覚する確率です。発覚の可能性は高かったはずです。なにしろ、芳子は時雄の姉の家に滞在していたので、姉を通じて発覚することは必然でした。時雄の妻も、時雄が芳子を気にかけていることは十分に承知していたので、不倫した時はすぐに判ってしまったことでしょう。

なお、念のために申し上げておきますと、現代社会における不倫の発覚率はすでに統計的に判明しています。夫の場合が21.0%、妻の場合は6.8%です。妻の場合は不倫をしてもほとんど発覚しませんが、夫の場合は5組に1組が発覚するようです。 

第3の発覚後のダメージについての描写はありません。発覚後に妻から離縁されるとか、子どもはどうするのかといった点についての記述がないのです。そこまで時雄の頭が回らなかったのでしょう。時雄には文学者としてのプライドがあったので、芳子に拒絶された時のダメージは相当あったと考えられます。

第4は倫理観の有無ですが、時雄にはこの倫理観が多分にありました。加えて「自己の良心」を抱き、「厳格たる師としての態度」を忘れずにいました。

実は花袋は『蒲団』を書いた当時を回想して、「『蒲団』を書いた頃」という随筆を描いています。そこには次のような記述があります。

その頃、私達の体に一番強く響いて来たことは、義理とか人情とかいふものに捉へられて……否、社会に、社会の道徳律に、伝統的社会の慣習に捉へられて、人間の多くが思ふままに振舞ふことが出来ず、そのため表と裏と言ったやうな不自然な二元的行動に落ちて行つてゐたことであつた。

時雄=花袋には、文学者として芳子に接するという「表」と、ひそかに芳子に恋愛感情をいだくという「裏」があったということです。その「裏」の恋愛感情に対して、社会の道徳律や伝統的社会の慣習に裏打ちされた「表」の良心と、先生と生徒という関係を崩したくないという道徳心が働き、不倫行為に突き進むことを思い留まらせました。時雄=花袋は、恋愛感情の成就や性的な欲求よりもこうした倫理観を優先したわけです。

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現代の不倫の実態

時は過ぎ、明治から、大正、昭和、平和を経て令和の時代になり、今ではすっかり不倫に対する罪悪感は薄れました。また平均寿命も84歳以上となり、それにつれて結婚生活も長くなりましたので、結婚の倦怠期間も長くなりました。不倫が増大する社会的な背景が顕著になったということです。

この流れを踏まえ、現代の不倫の実態について明らかにします。図表2をご覧ください。わが国の不倫の実態を示す驚くべき統計です。

蒲団_図表2

図表2 わが国の不倫の実態(左:男性、右:女性)

左側が男性の数字、右側が女性の数字になっています。また、「現在不倫中」「一年以内の不倫経験率」「一生の間の不倫経験率」といったように、3段階に分けています。

一目瞭然ですが、現在不倫中の夫婦は、夫が26.9%、妻が16.3%です。これが一年以内の不倫率となるとさらに増えて、夫57.3%、妻23.9%となります。さらに、長い人生の間では、男性の74%、女性の29.6%が不倫を経験しています。花袋のような強い倫理観をもつ男性が減ったようですね。

ちなみにこの数字には、風俗に行って性行為を行なう「風俗不倫」の数字は含まれていません。これについては国立女性教育会館が作成した「人身取引(トラフィッキング)問題について2011」に詳しく、最低1度でも性風俗を利用したことがある男性の割合は41.8%であるとしています。 「たまにある」が13.3%、「よくある」が1%ですが、「警察白書」によれば、2014年末時点で全国の性風俗店舗数は店舗型が8,373、無店舗型が20,491で合計31,514店もあるので、わが国の「風俗不倫」は盛況と言えます。

上記の74%とこちらの41.8%に鑑みると、「性器の独占的保有」関係としての結婚はすでに破綻していると言えるかもしれません。多かれ少なかれ、あるいは遅かれ早かれ、人生のうちで少なくとも1回は不倫をしているのが、男性既婚者ということです。

なお、女性の不倫が昔より増えているらしいことは、しっかりしたデータとしてはありませんが、理論的には想定できることです。私が行なった二変量解析によれば、女性の有職率と不倫率は正比例の関係があることが確かめられました。「一億総活躍プラン」によって女性が結婚後も仕事を続けている割合が増加していますので、それに比例して女性の不倫が増えているのは明らかです。

なお、未婚女性の中で「私、不倫しているの」という人がいますが、それは正しい表現ではありません。不倫しているのは、相手の既婚男性であって、未婚女性の方は不倫ではありません。正しくは「私、不倫されているの」となります。言葉は正しく使いましょう。

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第4回のまとめ

五感のプロセスとしての恋愛、不倫の実態という2つの側面から、『蒲団』を解説しました。この2つを理解した後に、再び『蒲団』を読めば、主人公の時雄に対してまた違ったイメージを持つかと思います。

時雄は結婚の現状に対して不満を持っていますが、根は実直で文学者らしい生真面目さをもつ人ということが分かります。この世の中に一度も不倫の妄想をしたことがない中年の既婚者はおりません。そして現実に不倫を実行する男女は増えています。こうした観点に立てば、時雄は実際に不倫をしたわけではなく、妻子にダメージを与えてもいないのです。もちろんキモいわけでも変態なわけでもなく、意外にいい夫なのです。

バックナンバーはこちら↓

第1回 夏目漱石『こころ』前編
第1回 夏目漱石『こころ』後編
第2回 森鷗外『舞姫』前編
第2回 森鷗外『舞姫』後編
第3回 武者小路実篤『友情』前編
第3回 武者小路実篤『友情』後編
第4回 田山花袋『蒲団』前編


【お知らせ】この連載が光文社新書として9月17日(電子版は9月25日)に発売されます! 村上春樹『ノルウェイの森』編が書き下ろしとして新たに加わっていますので、お見逃しなく!


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コメント (1)
はじめまして。
ちょうどギズモードjapanの"つがい特性"を読んでいて、ヒトのように一夫一妻、一夫多妻の認知なくても種の保存以外に芽生える本能は鳥やコヨーテ、その他でもある、の各研究者の考察から自分なら何を選ぶかなって思っていたとこです(笑)

ヒトも結局は動物。不倫を善悪でジャッジするのは司法のみ。あとは個々の裁量と度量かなと。
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