武者小路実篤『友情』は誰もが直面する「報われない恋」の救いとなるのか #3_2
武者小路実篤『友情』が長年読み継がれたのは、明治の時代にはまだ新鮮だった自由恋愛がしっかり描かれた小説だったからということが論じられた前回。後編では、その恋愛心理のなかでも、「報われない恋」の形態である「片思い」「叶わぬ恋」「失恋」をいかに巧みに段階的に描写しているかを明らかにします。現代にも通じる恋愛心理の普遍性に迫る後編をお楽しみください。
前編はこちら。
『友情』における恋愛の形態① 「片想い」
前回で触れたとおり、恋愛という見地に立つと、この小説のテーマは3つです。「片思い」「叶わぬ恋」「失恋」となります。1つ1つのプロセスを考察してゆきます。
まずは「片思い」からです。『友情』には、人生で初めて恋(片思い)をするとどのような心理になるのかが克明に書かれています。
『こころ』編で「恋愛バブル」について触れましたが、この恋愛バブルが生じた時の心理状態についてはお話ししておりませんでした。この『友情』では、恋愛心理の描写の宝庫です。
人を好きになると、初期段階として片思いとなりますが、心の中では次のようなことが起きています。
1. 恋愛バブルの萌芽→好きになった相手がいちいち気になる。
最初に起こるのは恋の萌芽です。当初は淡いものですが、いったん芽生えた恋の種が発芽してゆくと、やがて恋愛バブルの花が咲きます。
2. 妄想→その人のことをいろいろ「想う」ようになる。
次の段階は「妄想」です。二人の甘い時間を考えるようになります。現実にはありえない想定もするので、妄想をしている時間自体が楽しく感じられます。
3. トキメキ→その人のことを考えると胸がドキドキしたり、ときめいたりする。
それと同時に恋愛バブルが本格化しますので、心拍数が上昇して、トキメキの感覚に支配されます。
4. 美化→相手を理想化する。
恋愛バブルはインフレ感情で「あばたもえくぼ」状態なので、相手を徹底的に美化します。自分が理想化した偶像を好きになるわけですから、際限なく好きなままでいることができます。実は小説内で仲田は野島に「恋が盲目というのは、相手を自分の都合のいいように見過ぎることを意味するのだ。」と忠告しています。それでも、野島の杉子への美化(理想化)は止みません。
5. 嫉妬→その人が異性と話していると、不安になる。
素敵な人には当然競争相手がいるわけですから、異性と話していると嫉妬することになります。叶うなら競争相手を排除したいものですが、そうもいかず悶々とした時間を過ごすことになります。
6. 一喜一憂→その人から褒められると幸せな気分になる。うまく会話ができないと落ち込む。
空想だけでは物足りないので、実際に会話する勇気が出ると、話すことになります。ただ、恋愛バブルが生じていると平常心が失われている状態ですから、まったく会話にならないか、あるいはトンチンカンな会話になったりもして、自己嫌悪に陥り、後悔することもあります。逆に、会話がうまくいき、好きな相手から褒められたりすると有頂天になります。相手と自分がどういう会話をするかで激しい一喜一憂が生じるものです。
通常は、以上のような心理を経たのちに行動が開始されて、
・2人きりでデートしたいと思う
・その人と手をつなぎたいと思う
・手をつなぐようになると、キスしたいと思う
・キスが達成されると、肉体的に結ばれたいと思う
と続くのですが、この『友情』では片思いのみで終わります(実篤は恋愛に関する「性的」なものは一切排除して描写しています)ので、当然描かれていません。
このような片思いは、早い人では幼稚園の時に淡い思いとして抱く人もいます。みなさんも、幼稚園や小学生の頃にほのかな感情を覚えたことがあるのではないでしょうか? あの子のことが気になるとか、あの子と手をつないだとか、気になるから逆にいじわるをしたとか冷たくしたとか…。幼い頃の恋愛は屈折しているので、自分が好きという現実をストレートに表現することが難しい場合もあります。
『友情』ではたいへんストレートな表現で上記の片思いの感情を描いています。ステップごとにまとめたのが以下の図表2です。野島の行動がこの片思いにぴったり符号するのがおわかりでしょう。野島の苦しくもあり楽しくもある恋愛を臨場感ある描写で感じとることができます。
図表2 片思いの兆候と『友情』における描写
なお、上記のような片思いですが、積極的に勧められる恋愛の形態ではありません。遠くから思い続けるのには限界がありますから、早期にこの状態から脱して相思相愛になりたいものです。しかし、告白してふられたら、ショックで立ち直れません。傷ついて泣くくらいだったら、片思いのままの方がいいと思ってしまうのが通常の心理です。とくに女子の場合は、傷つくことを恐れるあまり、片思いのままでいる方を選びがちです。
野島も告白したいのは山々でしたが、どうしても勇気がでませんでした。結局、大宮がパリに行ってから1年後に仲介者を通じて結婚の申し込みをするわけですが、遅きに失した感があります。
『友情』における恋愛の形態② 「叶わぬ恋」
第2のテーマは、「叶わぬ恋」です。小説の中の「野島はなぜふられたのか」を分析するにあたって、もっとも参考になるのは「恋愛均衡説」というものです。
「恋愛均衡説」の基本的な考え方のポイントは、私たち人間が1つの商品であるという点です。恋愛や結婚や浮気というのは、各々市場というものがあって、そこでお互いの「本来価値」をもとにして物々交換を行なっているというふうに考えることができます(恋愛市場、結婚市場、浮気市場については前回述べました)。
人によって、その商品価値(本来価値)が異なります。商品価値の高い人もいればその逆に価値が低い人もいて、その人たちが、自分の本来価値を前提にした物々交換をするのが恋愛というわけです。誰だって自分を安売りしたくありませんので、自分の価値か同等かそれ以上の相手と相思相愛になりたいと思います。つまり自分の「商品価値」が高ければ高いほど、「高い異性」を買うことができるのです。一方、商品価値が低いと、それなりの相手しか手に入れることができません。
「本来価値」を点数でたとえるなら、100点満点中99点の人もいれば、60点の人も、30点の人もいるということです。しかしながら、恋愛市場では魅力度が均衡をとってしまうので、99点の人は同じように99点の素敵な人と相思相愛になり、60点の人は60点くらいの人と、30点の人は30点の人と釣り合い、カップルになるのが原則です。恋愛学ではこの法則を「恋愛均衡説」と呼んでいるわけです。
この仮説を『友情』にあてはめて考えてみましょう。
野島の本来価値は、それほど高くありません。23歳の脚本家の卵であり、そもそもまだ学生です。実家は資産家ではなく、脚本家として名前が売れているというわけでもなく、やせすぎと言われるくらいに貧弱な体格でもあります。卓球も極端に下手で運動神経もよくない。性格も無愛想で怒りっぽく、ひがむ素振りもするので、好青年とは言いがたい欠点も抱えています。あえて魅力度で点数をつけるとするとせいぜい65点くらいでしょうか。
他方、杉子は、まぶしいほどきれいで、女王のような気品があり、育ちもよく、性格はまっすぐ、快活で、物事をはっきりいう女性です。まわりのたくさんの男性を魅了してしまうくらいですから、魅力度でいったら90点くらいと考えられます。
つまり65点の野島が、90点の杉子に恋してしまったのです。当然、うまくいきません。杉子は自分を安売りしたくないわけですから。しかし、杉子は誰にでも愛想がいいので、彼女の笑顔や優しい言葉が野島だけに向けられたものと勘違いしてしまいます。
一方、野島の友人である大宮は社会的条件に優れています。まず当代随一の売れっ子小説家です。鎌倉に別荘を持っているほどの資産家でもあり、体格もがっちりして男らしく、野島を盛りたてるなど性格のよさも強調されています。魅力あふれる青年で、むしろ杉子より上くらい。魅力度は95点といったところでです。
ですから、杉子と大宮が結ばれたのは必然なのです。2人はほぼバランスがとれており、お似合いのカップルだったわけですから。
それでは、ふられた野島はどうすればよかったのでしょうか?
解決策は2つありました。1つには、杉子が90点なわけですから、自分も同じくらいの魅力になるまでじっと我慢すべきでした。脚本家の卵から脱し、仕事で成功して、男性の魅力の1つである社会的基盤が整ってから、杉子にプロポーズすべきでした。65点のままではうまくいくはずがありません。
もう1つは、野島本人がいみじくも言っているように、「己を知れよ」です。自分に言い聞かせるシーンで使われる言葉ですが、野島は自分の商品価値を知るべきでした。そうすれば、90点の女性を追い求めるのは無謀であり、叶わぬ恋であることが自覚できたはずです。「己を知れば」杉子は無理だと理解でき、自分に釣り合った65点前後の女性を追い求めたはずなのです。
『友情』における恋愛の形態③ 「失恋」
『友情』においては、「失恋」も大きなテーマになっています。失恋とはどういうものか、どのような精神状態になるのか、失恋を克服するにはどうしたらよいのかについて、小説の中に答えが隠されています。以下、順を追って見ていきましょう。
まずは、失恋の基本的構造を知っておきましょう。
失恋とは、「ふられる」側が被るものです。一方的な通告によって関係が解消されます。恋愛均衡説にしたがい、70点同士の恋人カップル(A君とBさん)の場合を想定して考えてみましょう。
A君とBさんは、交際当初はラブラブです。インフレ感情の「恋愛バブル」が生じているわけですから、お互いを100点満点近くの99点と評価するようになっています。世の中にこんな素敵な人はいないとさえ思うわけです。ところが、失恋に至るということは、どちらか一方、そうですね、たとえばBさんのA君に対する恋愛感情が冷めてゆくということです。
BさんのA君の評価がピークの99点から徐々に減点されていき、80点になり、しまいには70点以下になります。当初思ったより男らしくないとか、暴力的だとか、価値観が一致しないとかいったように、性格に根ざした評価が下がるようなことがしばしば生じます。あるいはBさんが80点の男性(C君)から言い寄られた結果、興味がC君に移った場合も散見されるところです。
そうすると、Bさんは、徐々にA君と距離をとり始めます。いきなり別れを切り出すとA君がびっくりしてしまうので、とりあえず「フェイドアウト」してゆきます。A君は不審に思い、Bさんに「どうして最近冷たくなったのか」と問いただしますが、Bさんは「ごめんさなさい。ほかに好きな人ができたの」と言い、恋愛関係の解消となります。この場合、ふるのがBさん、ふられるのがA君ですので、A君が「失恋」となります。
ここでの最大の問題は、BさんにとってA君は70点以下になっているので未練なく別れることができます。しかしA君にとってのBさんは99点のままですので、大きな失望です。人が「失恋」に痛みを覚えるのは、自分はまだ恋愛バブルの真っ最中であるからです。A君もBさんの評価が70点以下になっていれば問題ありません。綺麗に別れることができます。しかし、この場合、A君はまだBさんのことが大好きなのです。ですから、恋愛バブルが大きければ大きいほど、別れはつらいものになります。
なお、通常、失恋するのは男性です。早稲田大学で教えている「恋愛学入門」の授業でのアンケート調査では、だいたい2:1の割合で、男性の方がより多くふられていることが分かりました。ふるのは女性、ふられるのは男性なのです。
また同じアンケート調査では、失恋から立ち直る日数も質問しています。その結果、男女ともに同じくらいで平均57日かかることが分かりました。だいたい2ヵ月くらいで失恋から立ち直るようです。人間は忘れる動物ですから、どんな痛みでも最終的には睡眠と時間が解決してくれるようです。
失恋を克服する方法
では、恋愛バブルの最中にあるA君は、どのように失恋を克服することができるのでしょうか? この意味で、『友情』の野島がどのように対処したかが役に立ちます。
1. ふられた事実の再認識
失恋した際にとくに大切なのは、失恋した事実に実直に向き合うことです。失恋はたいへんな痛みが伴うために、「もしかするまだふられていないのでは?」「復活する望みがあるのでは?」という一縷の望みにすがりたくなるものです。その望みときっぱりと決別することが失恋を克服するために非常に重要なステップとなります。
野島もそうでした。仲介者を立ててプロポーズしたのですが、それに対して断られた時に「彼はそれでもあきらめられなかった。」とあります。それで、杉子の兄の仲田に「杉子さんの本当の意思を知らせてほしい」と手紙を書きましたが、仲田からは「当人も今結婚する意志はまるでない」と再度断られます。それでも失恋の事実が受け入れられず、杉子にも直接手紙を書いてしまいます。それに対して、杉子から無理であるとの返信をもらって、やっとのことで「絶望だということを本当に感じた。」となりました。ここで野島は初めて失恋を受け入れ、克服しようと努力するのです。
2. 時間とエネルギーを別に向ける
失恋から立ち直るには睡眠と時間が必要と述べましたが、それ以外にもいくつかの方法があり、うまく組み合わせれば、2ヵ月以内に克服することが可能となります。
まずは、「空白となった時間とエネルギーを代替物で埋める」です。通常、恋愛関係に入ると、「お金」「時間」「エネルギー」の3つを恋人に投資します。デートに行って食事をするにはお金が必要ですし、デートには時間とエネルギーを消費します。相思相愛であればあるほど、この3つを際限なく使うことになります。
失恋というのは、突然この3つの投資先が失われた状態になるということです。一緒にいた時間がポッカリ空白となり、心の中(本当は頭の中)が空虚になり、お金も使わなくなるわけです(お金だけは失恋しても失わないものですが)。つまり、空いた時間とエネルギーの処理に困るということが失恋の本質なのです。
この2つを上手に埋めることがカギとなります。具体的には、
・友だちと一緒に酒を飲んで、グチをこぼす
・友だちとスポーツをして汗を流す
・仕事に没頭して時間とエネルギーを使う
といったことが、現実に失恋から立ち直る代表的な方法です。
野島の場合は、前述のとおり、3つめの仕事でした。野島は次のように表明しています。「仕事の上で決闘しよう。」と。恋に向けていたエネルギーを仕事に注ぎ、大宮への復讐を仕事上の成果で晴らすという気概を表明しました。脚本家として成功しようと努力すれば、その努力に比例して時間とエネルギーを消費するので心の空虚さを忘れることができるというわけです。
3. 思い出を消去する
元カレ、元カノを思い起こさせるものはすべて捨てることも重要です。元カレからのプレゼントを捨てられないという女性がいますが、どんなに高価なものでも、破棄してしまうことをお勧めします。「モノ」は過去を想起させてしまいます。モノも、手紙も、思い出も、すべて消去することが前に進むエネルギーとなるのです。
野島の場合はベートーヴェンのマスクを石にたたきつけて壊しました。親友である大宮から贈られたものですが、それを破壊することで、過去の一切の思い出をなくしたのです。
4. 相手を貶める、もしくは自分の魅力を過信する
3番目の方法は心の持ちようということになりますが、①相手の魅力度を貶めたり、②自分の魅力を過信したりすることです。やや突飛に聞こえそうですが、この点を理解するのに「恋愛均衡説」が役に立ちますので、数字を使って説明します。なお、実篤はこの方法については言及しておりませんが、野島は実際に必ず用いたであろう解決方法です。
まずは「杉子を貶める」です。「貶める」とは極端な言い方ですが、90点の杉子だから未練が生まれるのです。これが野島より点数の低い女性だと思うことができたら、杉子を忘れることができるでしょう。ですから、その意味で、「杉子を65点未満の女だと自分の中で貶める」ことが必要となってきます。
そのためには、杉子の悪いところを思い出すのです。ノートに書き出しても結構。たとえば、野島自身がいみじくも言っています。「あんな女は豚にやっちまえ。僕に愛される価値のない奴だ。」と。こんな感じでいいのです。そのほかにもたくさん思い浮かびます。
・「杉子は奥ゆかしさがなく、気が強すぎて喧嘩したらたいへんだ」
・「傲慢なところも嫌だし、あれじゃあ一緒に暮らしたらたいへんだ」
・「見かけが良いっていったって、一年も経てば飽きるだろう」
・「杉子の誰にでもいい顔をする八方美人的なところが嫌だ」
・「わがままなお嬢さんタイプで、きっと炊事や家事が下手だろう」
といったように、アラはいくらでも見つかるものです。それらを思い出してみれば、杉子の魅力度は減少してゆくはずです。
その逆に、もう一つできることは「自分の価値が実際に高いことを実感する」です。つまり、実は野島は65点ではなく、実は90点以上の男であると思い込むことです。
そのためには、友だちに会って、酒でも飲みながら、これでもかって褒めてもらうことが必要です。
・「野島、おまえはすごくいいやつだ。おまえの魅力が分からない女はバカだ」
・「日本一の脚本家になれるよ。俺が保証するよ。杉子はそのことを見抜けなかったな、実に残念な女だ」
・「野島、おまえほど一途な気持ちを持つことができる純粋な男って、日本には滅多にいないよ。俺たちは一生親友だからな」
といったように、友だちから褒めちぎってもらえば、失恋の痛みは軽減されるはずです。持つべきは友だちなのです。
5. 新しい恋人をつくる
失恋から立ち直るにはなんといっても、「新しい恋人を見つける」というのが万能薬です。新しい恋をすれば、お金、時間、エネルギーをそちらに向けることができるので、即効性のある解決方法です。
そんなにすぐに忘れて、次の女性に向かっていくのは不可能だと思われるかもしれません。それがそんなことはないと実篤は仲田の言葉を使って述べています。
「僕の知っている奴に、ある女を夢中に恋して、その女と結婚出来ないと死ぬようなことを云っていた奴があった。ところがその女がふとした病気で死んだのだ。その時は気違いのように泣いていたが、半年もたたない内にちゃんと細君をもらって今では幸福にくらしている。」
失恋したら、この仲田の言葉を思い出すべきです。
第3回のまとめ
失恋の痛手から脱却するためには、上記の解決方法を上手に組み合わせて実行することです。失恋してグダグダしている時間は、『こころ』の回で申し上げたように「機会コスト」の損失です。失恋のショックで何も手につかないような状態は、時間とエネルギーの無駄遣いでしかありません。その時間とエネルギーを利用すれば、次の恋人も見つかりますし、仕事も捗ります。一刻も早く立ち直ることこそが、よりよい人生のためには不可欠なのです。
バックナンバーはこちら↓
・第1回 夏目漱石『こころ』前編
・第1回 夏目漱石『こころ』後編
・第2回 森鷗外『舞姫』前編
・第2回 森鷗外『舞姫』後編
・第3回 武者小路実篤『友情』前編
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