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馬場紀衣の「読書の森」

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書物の森は、つねに深いものです。林立する木々のあいだで目移りするうちに、途方に暮れてしまうことも珍しくないでしょう。新刊の若木から、自力では辿り着けない名木まで。日頃この森を渉猟…
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#読書の森

ヒトの原点を考える|馬場紀衣の読書の森 vol.69

人間とはなにか。人間とは動物である。動物であるとはどういうことか。この問いを、とても分かりやすく、かつ的確に説明してくれる文章がある。 このはっきりとした物言いが私はすごく好き。ひどく小さな、とるにたらない存在に思える(あるいはまるきりその反対に思うこともある)人間にたいして、著者はいちいち絶望したり、感動したりしない。人間を真っすぐに見つめ、問い、正しく理解し、そのうえで読者に説明するのに一番分かりやすい言葉を選んでいる。言葉には説得力があり、人間への愛情すら感じる。

母親になって後悔してる|馬場紀衣の読書の森 vol.68

アンビバレンスだ。母として経験するさまざまな感情の揺れ動きのなかに、相反する感情がいくつもたゆたっている。「母」とは何者なのだろう。おそらく、この問い自体がまちがっている。母とは役割ではなく多様な人間関係の一つであり、関係性のなかで揺れ動きながらバランスをとりつづける主体なのだ。 著者のオルナ・ドーナトは女性が平均3人の子どもを産むというイスラエルの社会学者。彼女は長いあいだ、すべての女性が母親になりたいはずだという暗黙の社会的期待に疑問を呈するべく学術的な活動をしてきた。

暗闇の効用|馬場紀衣の読書の森 vol.67

「我々は昼を夜にすることも、夜を昼にすることも望まない」これは啓蒙主義の時代の作家、ジャン=ジャック・ルソーの言葉だ。生きものが一日を光と闇の交替に合わせて暮らしていることも、昼と夜が等しく大切な時間だということも理解しているはずなのに世界はますます明るいほうへと引きずられていく。神が街路を明るく照らす許可を私たちに与えていないことを知っていたルソーとちがって、現代人が暗闇の重要性に気が付いたのは街がすっかり明るくなってからだ。 人工の光は人体のリズムと調和を乱し、鳥を真夜

読書入門|馬場紀衣の読書の森 vol.66

読書ほど孤独な営みはないと思う。本を読んでいる人は静かだ。本が開かれている時、彼らはここではないどこかにいる。どこか、手の届かない場所に。この本を読んで、そんなことを考えた。 私は、からだ、というものにずっと惹かれているのだけれど、読書はまぎれもなく身体的な経験だと思う。表紙をめくるときの指先の感覚、紙の手触り、文字を追う眼の動きやページの擦れる音。そして、匂い。じっさい、古い本と新しい本とでは匂いがまるでちがう。本の一冊一冊が、まるで一人一人の人間のように孤立している、と

ルポ 筋肉と脂肪|馬場紀衣の読書の森 vol.65

いつも、すこしだけ空腹でいるように意識している。一日に三度も食事をする(というのがどうやら一般的らしい)というのがせわしなくて、私はしょっちゅう食事のタイミングをのがしてしまう。だから空腹状態という食べすぎの現代人にはちょうど良い習慣も、健康のため、美容のため、総じては自分のためにしてあげられる「健康的な選択」というよりも、なにしろ生きていくので精一杯なので、ふと気がついた時にはエネルギーが底をついているという状態なのだ。なにか食べなくては、と、とりあえず消化の良いものを選ん

黒の服飾史|馬場紀衣の読書の森 vol.64

毎朝クローゼットから服を選ぶとき、どんなデザインの服を着るかよりも先に私の頭にうかぶのは、何色の服を着るか、だ。それが赤なのか青なのか黄色なのかでその日の気分が決まってしまうので、真剣にならざるをえない。ごく個人的に言って、何色の服を着るかは、これから始まる長い一日をどんな気持ちで迎えるかを決める至極重要な儀式なのである。 他人のクローゼットを片っぱしから開けてまわるなんて失礼なことはできないので、実際のところは分からないのだけれど、想像するに、誰のクローゼットにも必ず一着

股間若衆|馬場紀衣の読書の森 vol.63

信号機も電信柱も看板も街のなかにあるものはすべて街のなかにあるものらしく、その場所に馴染んでいるように見える。晴れの日も曇りでも風が強く吹いていても、そこにあるのが当然という雰囲気でそこにあり、そこにあることで安心感すら与えてくれるものたち。街を街らしくするための小道具はたくさんあるけれど、その中でも裸体彫刻というのは、すこし異質な存在だなと常々思っていた。 それはおそらく、この人たち自身(裸体彫刻)が困っているようにもとぼけているようにも見える表情をしているせいだと思う。

土と内臓|馬場紀衣の読書の森 vol.62

肉眼では見ることができないというのは、だからといって存在しないわけではなく、見えないというだけで確かにそこにはあるのだ。それはなんてドラマチックで胸の躍ることだろう。海の底、宇宙。行ってみたいけれど行きたくない(なぜなら帰って来ることができないかもしれないので)と思わせる世界の果てがいくつかあって、この度、ここに、土の中が新しく加わったことを報告します。植物について書かれた本を読むたびに、植物の世界は人類が登場するはるか昔から自給していたのだ、という当たり前の事実を、私は新鮮

「腹の虫」の研究|馬場紀衣の読書の森 vol.61

「腹の虫がおさまらない」というのは腹が立って仕方がなくて気持ちが昂っている状態をさすのだろうけれど、この場合、興奮しているのは私なのか、それとも腹の中にいる虫のほうなのかどっちだろう。そんなことを考えていると可笑しくなってきて、しまいには笑ってしまうのだけれど、この場合も笑っているのは私ではなくて、腹の中にいる虫だったりするのだろうか。「虫が好かない」とか「虫がいい」とか「虫の知らせ」とか、虫にまつわるいろんな言い回しがあるけれど、一体全体虫って何のこと。それって、どんな虫な

チベット高原に花咲く糞文化|馬場紀衣の読書の森 vol.60

森林限界よりも標高の高い場所。冷たく、乾燥したチベット高原に暮らす人々にとってヤクの糞(牛糞)はもっとも重要な生態資源だ。ヒトと動物の暮らしの関係を考えるとき、動物の毛皮や乳や肉が取りあげられることはあっても糞に注目することはそう多くないのではないだろうか。さらにいえば、牛糞の有用性についてこれほど詳しく書いた本というのも珍しいように思う。 この資源の乏しい高冷地において、牛糞の果たす役割は想像以上だ。牛糞なくして人は生き抜けない、と言ってもいい。それほどまでに牛糞は人々の

ヌードの東アジア|馬場紀衣の読書の森 vol.59

ストッキングを嫌う女性が増えているらしいけれど、この窮屈で脆い履物が私は好きである。窮屈なのは補正のためだし、脆いのは繊細ということだから。そして繊細なものは得てして美しい。デンセン(編んだ糸が切れて線上にほころびること)はまあ、薄さとやわらかさの代償と思えば許せる。とはいえ「何を美しいとし、何を美しくないとするか。それは、人間の生来の感性ではなく、後天的な学習の産物であるところが大きい」という著者の意見にも頷ける。 日本人のストッキングへの意識は、第二次世界大戦後のごく短

自在化身体論|馬場紀衣の読書の森 vol.58

デジタル化の進展によって人はこの先どこへ向かうのだろう。自動車や航空機による移動、製造機械に頼った生産、インターネットがもたらした情報通信。工業化のそもそもの目的はそれまで人間の肉体が担っていた労働を機械に置き換えることにある。機械は身体を酷使する苦役から人を解放してくれた。それはとても便利なことで、と同時に、私にはすこし怖いことのように思える。今さら怖がったところでどうしようもないのだけれど。なぜって、私たちはもうずいぶんと前から「脱身体化」の動きにのまれているのだから。私

タイポグラフィ・ブギー・バック|馬場紀衣の読書の森 vol.57

マニアックな本だなぁ、と思う。でも、この本を嬉々として読んでいる人も、まちがいなくマニアックである。そしてこんなことをさらりと書ける著者に、私はくらくらしてしまう。なんの本かといえば、タイポグラフィ。書体、についてである。 書体について退屈な、つまらない印象を持つ人があるとすれば、その人はたぶん世界の、街中の、日常にあるものの半分も楽しめていない(と、ごくごく個人的に思う)。たとえ読書家でなくたって、人は文字に囲まれて生きているのだ。それはもう、音楽のように空間にただよって

子どもの文化人類学|馬場紀衣の読書の森 vol.56

ものすごく大切なことが、とてもていねいに、とても分かりやすく書かれている。子どもの育ちかたも育てかたも社会によってさまざまで、その子どもがもつ面白さや悩みや才能は親ですら計り知れないのだ、ということが実証的かつ直感的につづられた本だ。 たとえば極北の雪原に暮らす狩猟民ヘヤー・インディアンの子どもは、小さい時から自分のからだとどう付きあうべきかを学んでいる。冬になれば氷点下50度にもなるこの地で、テントをねぐらにする彼らのからだはしんそこ冷えきってしまうことがある。食物となる