出る杭は破壊されるのがタイ式(第8回)
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タイを襲う新型コロナと政治の混乱
ここのところ日本でも頻繁に報道されているが、タイでは新型コロナウィルスが猛威を振るうだけでなく、毎日バンコクのどこかで反政府運動の集会が開かれている。警察側もかなり強硬な手段を取り、また反政府集会も徐々に過激化しているようだ。在住日本人の間ではただでさえコロナ禍で生活もままならないのに、反政府運動によって不安がより広まっている。特にタイ在住歴が長い人ほど胸騒ぎを覚えている状態だ。というのは、近年、タイはずっと政情不安が続いている状況で、一時的に落ち着きを見せても、結局今のような状態に戻っていく。そして、タイ人の行動パターンがだいたい同じで、過激化すると一層事態が悪化する傾向にある。
タイの政治が不安定なのは2006年の軍事クーデターからだ。今のところタイにおける最後のクーデターは、現政権成立時の2014年に起きたもの。このクーデターは、タイが立憲君主制になった1932年の立憲革命から数えて19回目になる。アユタヤ王朝時代も数知れないほどのクーデターがあったようだし、そもそもアユタヤの次のトンブリー王朝から現王朝のチャクリー王朝になったのも、初代国王ラマ1世王が前国王に対し反乱したからだ。こうなると、むしろこういった状態の方がタイは正常なのかもしれないとさえ思えてくる。
ボクは今回の騒動の端緒である2006年はバンコクにいた。そのときの体験を踏まえ、タイ人の性質などを紐解いていきたい。ただし、あくまでも一人の在住者目線での話であり、ジャーナリスト的見解ではない。ボク自身がどの派閥に傾倒しているかということでもないことを前提にしていただきたい。タイ好きのボクとしては平穏に暮らせれば、政治はあまり興味がない。
初めて体験したクーデター、2006年のあの日
2006年のクーデターは9月19日に起こった。当時の首相タクシン・チナワット(以下敬称略)に対する軍事クーデターで、本人はアメリカに外遊中だったこともあり、クーデターそのものは無血クーデターとして成功した。
当日午後、政府庁舎などを兵士や戦車が包囲していたことを知っていた人は近隣の人や一部のマスコミだけだったかと思う。というのは、ボク自身も夜になるまでなにも知らなかったのだ。夕方ごろからテレビが映らないとは思っていた。どのチャンネルも国王賛歌が静止画像で流れるだけ。あのころはテレビをあまり観ていなかったし、タイのインターネットは今ほど発達していなかったので、ウェブサイトのニュースもなにもなかった。
夜9時ごろになってから異常に気がついた。テレビは唯一、ネーションという局がニュースを流しており、「軍隊がナントカカントカ~」と言っているのはわかった。当時ボクは会社員だったので同僚に電話をかけてみたが、繋がらない。おそらくそこも規制されていたのかも。やっと在住日本人に繋がったが、彼は普通に夜遊びをしていた。ただ、バーでかかっていた衛星放送で、CNNやBBCがタイでクーデターが起こっていると言っていたという。しかし、それもすぐに画面が切れ、軍にシャットダウンされた。その後、ネーションを見ていると、ニュースキャスターのうしろを兵士が通ったかと思った瞬間、バツンと画面が途切れる。実にわかりやすい終わり方だと思ったものだ。これが深夜0時ごろだったろうか。
そうしているうちに全チャンネルに同じ画面が流れた。子どものころに観た、昭和から平成に年号が変わる発表のような雰囲気で、クーデターが成功したことを宣言していた。
翌日もテレビは映らなかった。なにせ衛星放送まで統制されているので、NHKだって映らない。これ以降、タイ人は「タイは民主主義の皮をかぶった社会主義」などと言うようになるほど、メディアは政府などの監視下にあることがはっきりとした。それ以前もそうだし、今も、たとえばウェブサイトでは不適切なものは見られない。主にタイの政治に関係した批判だったり海外のポルノサイトは、タイではほとんど読むことができない。非公開や特定の人にしか公開していないSNSも、アカウント名がわかっているものは警察の端末で閲覧できる。 もちろん名目上は捜査の場合に限るだろうが、警官なら誰でも自由に署内の端末からLINEユーザー同士の会話をすべて読める、と現職警官がある取材でこっそり教えてくれた。一般的なタイ人は犯罪とは無縁なのであまり知られていないが、公然の秘密でもある。
そういったわけで、ボクは初めてクーデターを体験した。子どものころにフィリピンのクーデターの様子などを報道で見ていたので、ドンパチと撃ち合いが起こるのかと思ったが、それ以降もクーデターそのものはわりとおとなしく遂行されるのがタイのやり方のようである。
2000年代初頭は、在住20年クラスの日本人はタイで起業してタイに根付いて暮らす人ばかりだったので、滞在期間がせいぜい5、6年の駐在員や現地採用会社員のほとんどが初めて軍事クーデターを目の当たりにした。19日の夜のうちにボクは当時の支社長に電話をかけ、20日は休業するように進言し、それが採用された。実際、多くの企業で20日は休みになった。ところが翌朝になってやらなければならないことがあることを思い出し、ボクひとりで出社している。当時のボクは「今日やらないでいいことは明日やる」をモットーに仕事をしていたので、それが仇になってしまった。
タイは自称インテリの保守派の方が野蛮?
2006年のクーデター翌日から、海外のメディアではやっぱり軍事クーデターで成立した政府を批判する声が大きかった。ただ、ボクから見ても、当時のタクシンはやり過ぎだった。自身の利益のために法律を変えたり、軍用機を自家用機のように使ったり。だから、反タクシン派が彼を追い出すには、あのときはこれしか方法がなかったと今でも思う。
一方で、タクシンが首相になった2001年から、みるみるうちに街が蘇ったのも事実だ。1997年のアジア通貨危機でタイは大不況になった。ボクが初めてタイに来た98年は物価がかなり安く、廃墟ビルがあちこちにあった。それがタクシンが首相になった途端にビルがちゃんと完成したのだ。
タイのいろいろなものがクリーンにもなった。バイクタクシーは今でこそ区役所での登録制になっているが、それ以前はタイ・マフィアの収入源だった。麻薬事案に関してはタクシンの命令による売人粛清で多くの人が犠牲になったが、実際、それ以降にタクシン派が政権に就くと、すぐさま麻薬の事件が減った。ボクは華僑報徳善堂という救急救命のボランティアをしていたので直接感じたが、タクシン派の時代とそれ以外では麻薬絡みの事件件数に大きな違いがあった。
さらに、ナイト・エンターテインメントも変わった。バンコクでは当時24時間営業のバーがどこにでもあったが、せいぜい深夜2時までの営業になったのもタクシン時代からだ。バンコクを見ると、チャトチャック・ウィークエンドマーケットやターミナル21、サイアム・スクエアなどにタイ人デザイナーの服飾店が多くあるが、ファッション業界に力を入れたのもタクシン。さらに、貧困者層や地方の農民に1日1バーツ保険という安価な制度を与え、医療が行き渡るようにもした。
この連載で何度も書いているが、タイの富裕層はとてつもない格差社会の上層にいる。そんな彼らは貧困層を人と思っていない節がある。飛ぶ鳥を落とす勢いのタクシンが、さらに貧困層の支持を得ていることに、彼らが既得権益を奪われると恐れたのは想像に難くない。2006年のクーデターはあくまでも反タクシン派の軍幹部の仕業だが、これ以降にタクシン派・反タクシン派の争いの構造が、一般層と保守層もしくは富裕層の争いになってくる。
2008年に選挙が行われた。クーデター当初から一定期間ののち総選挙を行うことは軍部が約束していた。普通に考えれば予想がつくが、タクシン派が大勝利。タイは平均所得以上を稼ぐ人が20%もいない国なので、タクシンの施策で恩恵を受けた人の方が多いのだから、選挙をすればそうなるのはバカでもわかる。
これに納得がいかなかったのが保守派だ。ちなみに、当時タクシン派は赤いシャツを着て応援し、保守派は黄色いシャツを着て集会に集まったので、赤シャツ・黄シャツなどと色で呼ばれることもある。保守派は赤いシャツを着ている連中は貧乏人ばかりで、選挙権があることがおかしいと考えでもしたのだろう。あの手この手で引きずり下ろす行動に出始める。特に裁判所などはタイの中枢という時点でもとより金持ちの家系の出身、つまり保守派側なのは明白で、親タクシン派政権のあれはダメだこれもダメだと審判する。その後選挙をするたびにタクシン派が勝ち、保守派たちが難癖をつけて無効にする。
なにより、多くの人をあきれさせたのは、2008年、当時開港したばかりのスワナプーム国際空港の保守派集団による占拠だ。これによって多くの外国人が帰国できなくなり、10万人近くの観光客が足止めされ、さらに欠航や予約キャンセルでおよそ520億円もの損害が出たとされる。最終的に、韓国を皮切りにいくつかの国の航空機がタイ東部の海軍基地内の滑走路に無理やり着陸し、自国民を脱出させる事態にまでなった。クーデターが無血なのに、その後のデモ活動で戦争勃発のような脱出劇が起きたのだ。
こういってはなんだが、保守派は富裕層が中心であり、インテリを気取っているのに空港を占拠してタイの経済活動全般を邪魔するというのが理解不能だ。保守派はタクシン派を見下しているが、保守派の方がよほど野蛮なことをしている。ボクはこの空港占拠と、選挙で選ばれた当時のタクシン派政権の解体が、この一連の政治騒乱の着地点を失い、今に至っている大きな要因だと思っている。
一連の中でも最悪だった2010年の強制排除
ちなみに、タクシンは2006年のクーデター勃発時はアメリカにいて、そこから現在に至るまで海外亡命生活を余儀なくされている。ただ、2008年の選挙でタクシン派が政権に返り咲いたことで半年ほどタイに帰国していた時期はあった。そのあと、北京オリンピックを観に行くと言って出て行ったきり帰ってきていない。2006年の外遊時には夫人も尋常じゃない荷物を飛行機に積んでいたという話もあって、あのクーデターはタクシンにとっては突然ではなく、富裕層同士の予定調和の部分もあったのではないか。いずれにしても、大富豪なので亡命生活も悠悠自適らしく。
2008年の選挙で勝ったものの追い出されたタクシン派。代わりに政権に就いたのが民主党だ。タクシン政権以前の与党である。しかし、空港占拠で大暴れしてくださった保守派のみなさんに倣って、タクシン派もその後のデモが過激化していく。タイは旧正月が4月中旬で、学校も3月から5月まで夏休み。2009年のこの時期、地方から大量のタクシン派がやってきて、バンコクやタイ各地で反政府運動を繰り返した。とはいえ、この年は旧正月が終わるとさっとデモ隊たちは帰って行った。
2010年も同じ時期にデモが始まった。ところが、これが一連の政治騒乱の中では最悪の出来事になった。まず、旧正月直前の4月10日にバンコクの西側にある、政府関係庁舎が多い辺りでデモ隊の強制排除が始まった。陸軍の治安維持部隊がデモ隊に向け実弾を水平発射したとされ、多数の死傷者が出た。日本人ジャーナリストも亡くなっている。
この事件でもデモは治まらず、反政府運動の主要な集会場所は当時伊勢丹があったセントラル・ワールドの前の道路に移った。ここでさらに1ヶ月以上も座り込みが続き、日本人向け夜遊びスポットであるタニヤがあるシーロム通り近くまで座り込みが広がり、シーロム通りに軍側のものと見られる迫撃砲が撃ち込まれるなど、とにかく一触即発の状態だった。その道路からルンピニ公園を挟んだ側にある日本大使館も領事部サービスが停止状態になった。
5月19日水曜日のことだ。明日でもいいことはがんばって今日やらない主義のボクは、度重なる騒乱で会社が休業状態になっても、何度も出社する羽目になっていた。しかし、この年は異常な状態で旧正月以降、ほとんどの社員が出社できない。ボクは営業だったのでノートパソコンを与えられていて自宅で仕事をしていた。だから、特に業務に滞りがなかったのだが、支社長がたまたまこの19日「とりあえずみんなで出社して、輸出入の書類などを処理しよう」と言い出す。
ところが、早朝から治安維持部隊が日本大使館の近辺からルンピニ公園に侵入し、セントラル・ワールドの南側から一気に攻めていた。ボクは車通勤だったのでラジオを聞きながら高速道路を走っていたのだが、タイのキャスターが「ヘリから催涙弾が撃ち込まれている」とか言っている。都心の方を見ると、いくつもの黒煙が上がっていた。やっと会社に着いて何度も窓を見ると、黒煙がどんどん近づいてくる。逃げるデモ隊を追って会社そばまで軍が来ていた。ボクは支社長に「すいません、会社と心中する気はないので…」と伝え、帰宅した。
家に帰ると、ちょうど反政府運動の首謀者たちがセントラル・ワールド前に作ったステージで、いったん撤退しようと座り込む参加者らに呼びかけた。その瞬間、群衆の中から発砲音が聞こえ(テレビ中継では画面の外側から聞こえた)、首謀者たちは逃げ出し、そのまますぐ近くのタイ国家警察本部に自首した。収まらないのが血の気の多い参加者だ。その後、バンコク中に火を点けて周り、セントラル・ワールドは半壊したし、全焼した建物は数知れず。ボクも荷物をまとめ、いつでも逃げ出せる準備をして、テレビのニュースやネットを翌朝まで凝視していた。
疲弊したタイ国民が望んだ現政権だったが……
この5月19日以降、バンコクは無法地帯と化した。戦勝記念塔近くの通りにはどっちの派閥かはわからないスナイパーが潜み、近隣住民を次々と射殺。ある人はタバコを吸おうと窓から顔を出した瞬間に殺されている。これはたぶん海外ではほとんど報道されていないが、一部地域は本当に戦場のようになっていたのだ。ボクは2008年12月までその辺りに住んでいたので、引っ越してよかったと思ったものだ。
また、セントラル・ワールド裏にある寺院に、デモ隊のうち女性や子どもが避難していたが、目の前にある高架電車BTSの橋の上から軍による銃撃があったようで、犠牲者が出ている。4月、5月の強制排除で公には91人が死亡、1800人以上が負傷したとされているが、死者は実際にはもっと多いとボクは思う。これが当時の政権民主党が崩壊するきっかけになった。
翌2011年に総選挙が行われ、民主党が大敗してタクシンの実妹インラック・チナワット(敬称略)がタイ初の女性首相となった。ここから数年間は保守派もわりとおとなしかった。経済もやはりタクシン派ということでよくなり、もうこれでいいじゃないか、という雰囲気が強かった。
ところが、インラック。節々でミスを犯し、徐々に信用を失ったというか、保守派につけ入るスキを与えてしまう。そうして2013年にまた反政府運動が活発化した。保守派のお家芸である、ちょうど経済に影響を与えるスポットに座り込む作戦が実行された。バンコク都内数ヶ所を封鎖するその作戦名が「バンコク・シャットダウン」。明確でわかりやすいが、インテリのすることとは到底思えなかった。
このデモは長かった。2013年11月下旬から、現政権によるクーデターが起こる2014年5月まで続いたのだから。このバンコク・シャットダウンではインラックを追い出したい主張ばかりで、では追い出したあとに誰がタイをコントロールするのかというビジョンは弱かったように思う。座り込みはただの祭り状態だった。実際、一連の座り込みは赤・黄に関係なく、首謀者たちが歌謡ショーだとかエンターテインメントを参加者に与えていた。一説ではどちらも参加者に日当を払っていたということで、結局、本当に政治を変えたいという人は一握りだったわけだ。
ボクの中で特に印象が強かったのが、大学生あるいは大卒でそれなりに知識もあるはずの人たちもまた、バンコク・シャットダウンに賛同していることだった。タイの大学に在籍する学生や卒業生は賛同する一方、留学経験があったり、外国の教育を受けている人はこの座り込みにかなり批判的だった。このときにボクは、タイの教育は富裕層にとって国民をコントロールするための道具なのではないか、という疑念を持つようになった。
2010年の座り込みもそうだが、デモが長くなると当然ながら参加者以外もピリピリとした雰囲気になってくる。着地点がどこにもないので、終わりが見えないから仕方がない。2014年2月に下院選挙が実施されたものの、各地の投票所でデモ隊による妨害があり、正常な選挙ができなかった。ボクも近隣の投票所で発砲事件が起こった音を聞いている。そして同月下旬、バンコク・シャットダウン集会場近辺で爆弾テロが起こった。これで子どもが3人亡くなっている。子どもを大切にするタイ人にはかなり強烈な出来事だったこともあって、この事件からバンコクにいるすべての人の苛立ちがピークに達し、ボク自身もまるで2010年5月に起こった強制排除の直前のような不穏な空気を感じた。
2014年5月ごろに、現首相であるプラユット陸軍司令官が双方の話し合いの場を設けるためにどこかの施設で会議が行われたのだが、5月22日、突然、クーデター宣言をし、プラユット司令官を首相とする現政権が成立。限りなく保守派に見えるけれども、一応第3の勢力として、多くのタイ人が「とりあえずこれでいいか」ということで、軍事政権を受け入れる形になった。
出てきた杭を壊して化けの皮が剥がれた政府
この軍事政権は当初2年間の制限付きで、再び選挙をするということだった。ところが、実際に選挙が行われたのは2019年3月だ。その間、憲法を改正したり、軍事政権は当初こそあきらめの中でタイ国民に受け入れられていたが、だんだんと信頼を失っていく。
2019年の選挙は結果的にプラユット首相が勝った。タクシン派を含め、反軍事政権派がわずかに議席獲得に至らなかった。500議席中、親軍事政権派が254、反軍事政権派が246という結果。第1党になったのはタクシン派の流れをくむタイ貢献党で、プラユット首相率いる国民国家の力党は2番手ではあったが、民主党など保守派がプラユット首相側について、全体的には軍事政権が勝った形になっている。
この選挙で期待されたのは、1978年生まれの若い党首が率いるアナーコットマイ党(新未来党)だ。反軍事政権側であり、新しい党だったにもかかわらず議席数が3番目に多い結果だった。しかし、その後選挙違反が指摘され、党そのものが解体されてしまう。党首も向こう10年間は政治活動が禁じられてしまった。
この件だけでなく、一連の選挙や政治の中で司法裁判所が下した決定には絶対的な理由はある。軍政が憲法を改正したりなど、いろいろな決定にも同じことが言える。しかし、何度も書いているように互いの主張に着地点、妥協点がない状態のタイにおいて、タイ人の感情としては、現政権が信用ならない、というところに向かってしまう。出る杭は打たれると日本で言うが、タイでは出る杭は抜いて破壊して捨てる、と見えてしまうのも無理はない。恐ろしいほどの格差社会で、富裕層は人を殺しても裏で手を回して裁判も行われないというのがこれまでのタイだったので、一般国民層がそう捉えるのはごく当たり前のことだ。
そうした中で若い活動家たちが声を上げているのが、今現在タイで起こっている反政府運動だ。ただ、今回の反政府運動がこれまでと違うのは、現政権に対する抗議の声だけでなく、これまでアンタッチャブルだった王室にまで批判の声を出していることだ。長くタイに住んでいるボクとしては、この声の方が衝撃的だった。
タイには王室不敬罪があって、何人たりとも王室に対して不敬になることを言ってはならない。2014年以前のデモ活動の中にはこれを利用して、赤・黄が互いに相手陣が不敬罪に該当することを指摘して逮捕させるというのも闘いの手法のひとつだった。だから、近年はこの不敬罪の存在がより強いものになっていた。そのこともあって、ボクだけでなく在住外国人の多くが「え? それ言っちゃう?」と思っただろう。
2006年以前、1960年代から90年代にかけても何度もクーデターや主張の衝突がタイでは起こってきた。その際に本当に泥沼化したとき、いっぺんにタイを正常に戻していたのが国王陛下の言葉だった。だから、2006年以降も誰もが、国王がいつかは仲を取り持ってくれるという想いをどこかに抱いていた。ところが、その「国王」とは前国王、ラマ9世王のことで、ラマ9世王は2016年10月13日に崩御。今はラマ10世王の時代である。
国王が変われば、王朝は同じでも考え方も違う。国民の支持率も違ってくるだろう。それに、ラマ9世王は2016年時点で在位70年と在位年数が世界で最も長い君主となった。それはすなわち高齢だったわけだ。20年くらい前まではタイの国立大学の卒業式は、ラマ9世王が直々に全学生に卒業証書を手渡していた。国立大学の卒業式は3月ではなく、国王のスケジュールに合わせて行われていたのだ。卒業証書を直接国王から受け取れるということは、タイ人にとっては最上の名誉だ。その後、ラマ9世王が高齢になったので王室のどなたかが代わるようになった。
ボクが思うに、今のその若い活動家たちが30代とすれば、国王から卒業証書を直接受け取っていないので、その名誉や忠誠心がそれより上の世代と比べて希薄なのかもしれない。だから「タイ王国」であるのにもかかわらず、反政府活動の中で王室批判を言ってしまうのではないか。
ネット社会も少なからず影響している。タイ政府は先述のように「民主主義の皮をかぶった社会主義」と揶揄されるくらい、実際にメディアが統制されている。今はネットを開けば世界の情報が入ってくる。他国のタイ批判も目に留まり、若い人たちはタイ国内だけでは知り得なかったことも知ってしまう。ネット規制があるとはいえ、すべての「タイ政府にとっての悪質サイト」を遮断することもできないので、それもまた、今の反政府運動がこれまでと違う理由になっていると思う。
いずれにしても、現在の一連の政情不安は2006年のクーデターから続いていて、プレイヤーが変わっただけで、やっていることは同じ。現政権が長くなると反政府運動が始まるのもこれまで通り。じゃあ、軍事政権打倒が成功したところで、ほかに強力なリーダーはいるのでしょうか、というと、それに疑問点があるのも同じだ。
ところが、若い活動家は違う話まで持ち出してしまった。かつての国王がなんとかしてくれるという、国民の父的な存在にまでいろいろと言うようになってしまった。もう、こうなったら徹底的に潰されるか、勝つしか道はない。在住外国人が不安になるのは当然のことだ。
真偽は不明であくまでも噂レベルなのだが、今の反政府運動の活動資金は実は海外にいる、2006年に追い出されたあの人から出ているとか。結局、プレイヤーも変わっていないのか! という話もあったりなかったり。そうなると、あの人も富裕層なわけであって、なんであれ得をするのは富裕層で、富めない者はいつまでも振り回されるだけ。これがタイの本当の姿なのかもしれない。
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