横断歩道って、最近のもの!?――日本人が堂々と車道を歩いていた頃の風景。
光文社新書で1年ぶりに続編が登場した、昭和30年代のカラー写真を集めた『続・秘蔵カラー写真で味わう60年前の東京・日本』。著者のJ・ウォーリー・ヒギンズさんは、米国出身で、日本と日本の鉄道を愛するあまり、日本に移住してしまった、現在92歳の老紳士。鉄道ファンの間では「撮り鉄」として名前が知られています。ウォーリーさんの撮った写真は、いま、鉄道写真としてだけでなく、当時の日本各地や人々の様子をカラーで記録した貴重な資料として、注目を集めています。
今回は、ウォーリー さんの友人であり、出版にあたり取材、翻訳、写真整理に携わったライター・翻訳家の佐光紀子さんが、制作中のこぼれ話を紹介。んんん、昭和30年代の皆さん、マナーが悪かったわけではないのですね…??
文/佐光紀子
写真とコメント/J・ウォーリー・ヒギンズ
みんな、堂々と、車道を渡っていますが…
東中洲(福岡県福岡市)1957年4月28日 玉屋百貨店の前にて。人が少なく見えるのは、みんなが通りを渡る交差点から写真を撮ったからだ。車が少なく見えるのも、信号が赤で、私が交差点に立ち入って写真が撮れる状況だから。今もそうだが、この頃の中洲は、歩道の人通りからもわかるように、賑やかだった。(第2弾・P416掲載)
車がほとんど走っていないとは言え、福岡の玉屋百貨店の前の大通りを、堂々と渡る人々。キャプションにあるように、「この頃の中洲は賑やかな街だった」とウォーリーさんは言います。
「とは言っても、この大通りを、横断歩道を無視して渡っちゃう人が、結構いたということなのよね」
本を校了したあとで、子どもを含め堂々と大通りを渡る人が写る写真を眺めながらウォーリーさんと雑談をしていると、
「いや、この当時は、まだ横断歩道はなかったからね」
とウォーリーさん。
「え?」
一瞬耳を疑いました。「横断歩道って昔はなかったの?」
「この頃は、横断歩道はほとんどなかったよ」
驚いて調べて見てみると、横断歩道の表示が法律で決まったのは、1960年12月だったようです。ということは、この写真が撮影された3年以上後のこと。どうりで、通りには横断歩道の影も形もないわけです。
こちらからすると、物心ついた時にはすでに横断歩道があったので、なんとなく、横断歩道はずっと昔からあったような錯覚に陥っていましたが、ウォーリーさんの一言で、じつは比較的最近(とはいっても60年代ですが)の産物なのだということを知りました。
戦後の日本の発展の過程を目にしてきたウォーリーさんと、発展の途中からこの国で生まれ育った私には、時々こういう認識のずれが起こります。ウォーリーさんから見れば、「当然だろう、当初はほとんど車がなかったんだから」というようなことに、私がビックリして、逆に彼をあきれさせるなんていうことが、取材中一体何度起きたことか。
マナーの悪い歩行者、ではなかったのですね…
そして、彼のこの一言で思い出したのが、第1弾に出てくるこの写真です。
銀座(東京都)1960年4月23日 銀座四丁目交差点から数寄屋橋方面を見たところ。銀座の大通りなのに、車の後ろをゆったりと歩行者が渡っている。(第1弾・P402-403掲載)
1960年に撮影された銀座四丁目付近ですが、最初に見たときは、「なんて大胆な歩行者!」と編集者共々ビックリ仰天。思わず【危ない!】というコラムを作って、この写真を掲載してしまったのでした。その際に「みんな、こんなふうに銀座の大通りを勝手に渡っていたの?」と聞くと、ウォーリーは、「昔はみんな気をつけて渡っていたから、無謀なことをしなければ、大した問題ではなかったよ」と涼しい顔。
でも、今回、改めて「当時はまだ横断歩道がほとんどなかったからね」と言われて、いまいちど見直してみると、この写真の状態、うなずけます。だって、横断歩道がなかったんですものね。どこを渡るのも、轢かれさえしなければ、ある意味、こちらの自由だったのです。
ちなみに、第2弾の中に、珍しく、当時の横断歩道が写っている写真を見つけました。この写真です。下のほうにうっすらと、見えますでしょうか。
牟岐(徳島県)1962年5月23日 高知県の甲浦へは、高松から牟岐まで列車で出て、バスに乗り換える。道路の一部は近代的だったが、多くは補修を必要とする状態だった。(第2弾・P404掲載)
1960年に初めて制定された横断歩道のデザインは二種類。1つは単純な二本線タイプと、もう1つは、写真のように側線付のゼブラが中央で食い違うデザインでした。その後、1965年に、単純なハシゴ形のゼブラに変わったようです。
写真の上方には、「交通事故0日 牟岐町中村交通安全自治会」の横断幕が。この後、さらに車が増え、交通戦争と称されるようになると、「横断の際、手を上げて合図する運動」も推進されるようになり、ガードレール、道路標識、信号機なども急速に整備されるようになったようです。
ところで、全くの余談で恐縮ですが、1枚目の写真(東中洲の写真)で私の目が釘付けになったのは、道を渡る兄弟とおぼしき少年二人でもなければ、道のど真ん中を闊歩するスーツに長靴のサラリーマンでもありません。右端の路面電車の近くにいるオレンジ色のAラインのワンピースを着た女性です。
ローマの休日を思い出すようなショートカットにキレイなドレス。そして真っ白なハイヒール。なんておしゃれな女性だろう、どんな仕事をしていたのかしら。
そんな話をすると、ウォーリーさんは困ったように口をつぐんでしまうのですが、当時の女性のファッションも、カラーならではのお楽しみです。
――――――――――――――――――――――
前作よりさらにパワーアップして発売された光文社新書『続・秘蔵カラー写真で味わう60年前の東京・日本』。当時を知る人も、知らない人も、たっぷり楽しめます。またご家族やご友人へのプレゼントにも、ぜひお買い求めください…!
未読の方は、第1弾もおすすめです。
◆◆好評マガジン◆◆
(1)未来から来た人|日本をこよなく愛する92歳の「撮り鉄」J・ウォーリー・ヒギンズさんのこと
(2)未収録カラー写真で楽しむ『60年前の東京・日本』①――60年前の日本。米国人撮り鉄を魅了した「どこまでも続く線路」とその先の風景
(3)未収録カラー写真で楽しむ『60年前の東京・日本』②――「子どもたちは、窓際が好き」米国人のカラー撮り鉄が記録した60年前の日本
(4)コラムの一部を特別公開!①――92歳の米国人・伝説の撮り鉄が選んだ「私が好きな60年前の日本」
(5)コラムの一部を特別公開!②――昔はこんな駅だった!? カラーで楽しむ60年前の懐かしの全国駅前風景
(6)コラムの一部を特別公開!③――車より電車、電車よりバイクが偉かった!? 60年前の日本、疾走するバイクのいる風景。
(7)未収録カラー写真で楽しむ『60年前の東京・日本』③――「キモノが普段着」だったあの頃の、色鮮やかな写真。