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ロシア、フランス、アメリカ、中南米、アジア文学も…挫折した長編作家がぐっと身近になる【第7回】「短編小説」から始める世界の古典文学|駒井稔

光文社新書

著者に寄り添い、あるいは対峙しつつも、読者と同じ立ち位置の存在でもある編集者ならではの気取らぬ読書論を、雑誌編集者として、また古典新訳文庫の編集者として長年活躍してきた駒井稔が、エッセイ風に綴ります。

「8歳から80歳までの本好きの方々に贈る、とっておきのブックガイド」

話題は日本だけでなく、海外の書店や出版社、編集者、作品へと縦横無尽に広がる予定です。肩の力を抜いてどうぞお楽しみください。


【第7回】「短編小説」から始める世界の古典文学


「長編作家への苦手意識」を克服させてくれる魅力的な短編たち


連載の第1回で書いたように、若い読者から「長編小説で挫折した話」を聞くたびに、私は同じ作家の、基本的には短編、場合によっては中編を読むことを勧めています。

「え、でも代表作を読みたいじゃないですか」と言ったのは、まえがきに登場した従弟の娘さんです。彼女にはフローベールの短編集『三つの物語』とゾラの短編集『オリヴィエ・ベカイユの死/呪われた家』を勧めたことは書きました。

この春に大学生になった彼女に先日、聞いてみると、なんと『感情教育』『ナナ』を読了したというではありませんか。何の屈託もなく「面白く読めましたぁ」と言われた時は、またうれしくなってしまいました。苦手意識は割合に簡単に克服できるのだなあと思ったのです。

これは老若男女問わず言えることです。じつは私自身も同じことを感じていました。

彼女が外連味(けれんみ)なく語ったことは、ドストエフスキーも含めて、長編作家だと思われている作家たちの作品に、短編や中編から入ることの大切さを物語っていると思います。

もちろん、長編から読める方は、いきなり挑戦していただいて何ら問題はありません。そして長編読了後に短編集を読むと、また違った味わいがあって、これも得難い読書経験になることと思います。


文学関係者たちも発信――『「罪と罰」を読まない』『この名作がわからない』


長編小説を読むことは、読書人の証ともいえるとよく言われます。日本文学に較べて海外文学は、壮大なスケールに満ちたあまりに長い長編小説が多いのも事実です。

なかでも長編小説の代表といえば、誰しもドストエフスキーの五大長編を思い浮かべるのではないでしょうか。

作家の三浦しをんさんと翻訳家の岸本佐知子さん、クラフトエヴィング商會の吉田篤弘さんと吉田浩美さんの4人の著者による『「罪と罰」を読まない』という秀逸なタイトルの本があることをご存知でしょうか。

文字通り読まずに語り合う本なのですが、これがドストエフスキーの本質に迫っていて非常に面白い本です。

また詩人・小説家の小池昌代さんと作家で比較文学者の小谷野敦さんの対談、『この名作がわからない』という本も、『罪と罰』『カラマーゾフの兄弟』を俎上(そじょう)に上げていて、文学の本質に迫る好著だと思います。タイトルがストレートでいいですね。

古典新訳文庫では、この原稿を書いている時点で、「ドストエフスキー五大長編」の最後の作品である『未成年』全3巻の2巻までが刊行されていますし、『カラマーゾフの兄弟』は全5巻累計で120万部以上売れています。

いずれも亀山郁夫さんの新訳で、評判の高い作品ですから、長いからといっても単純に読まれないというわけではないこともよく分かります。

しかし、しかしです。編集者である私自身の経験から言っても、挫折することが一番多いのが長編ではないでしょうか。

まずはドストエフスキーの短編・中編から


古典新訳文庫では長編作家の短編集が用意されています。そのなかには短編といっても中編に近いものもありますが、いわゆる大長編と較べてみれば読みやすさは抜群ですので、同時に取り上げることにしました。

ということで予想通りかもしれませんが、まずはドストエフスキーの中短篇集からご紹介しましょう。

安岡治子さんの新訳による『白夜/おかしな人間の夢』がそれです。全部で5作品が収められています。

お読みになった方もいるとは思いますが、「白夜」はナイーヴな青年の悲しい恋の物語です。

訳者の安岡さんは「物語の結末も、男性主人公の失恋に終わるとは言え、恨みつらみや絶望、自暴自棄とは無縁の、ドストエフスキーにしては珍しい、せつなくも清々しい感動を与える珠玉の名編と言えよう」と評しています。

私も個人的に若い頃から好きな作品ですが、今回読み直してみて、これもまたドストエフスキーの小説なんだなあ、と感慨深く思いました。あとがきで安岡さんが書いている言葉をご紹介しましょう。

 本書に選んだ作品は、不思議にどれもせつないながらも、そこはかとなく明るさが感じられるものではないだろうか。ドストエフスキーと言えば、暗く重く辛い作品ばかりだと思っておられる読者は、意外な印象を抱かれたかもしれない。

安岡さんの指摘する通り、ほとんどの読者が、ドストエフスキーと言えば、暗く重いという先入観を持ってしまいますが、この中短編集は、そんなドストエフスキー像を根本から変える力を持っています。お勧めするゆえんです。

こういう作品から入れば、世界最高峰の小説といわれる長編にも挑戦できると思います。

「らしくない」ドストエフスキー……多面的な魅力に出会える作品たち


この本にほかに収められている中短編も、素敵な作品ばかりですが、私が個人的に好きな作品は「百姓のマレイ」という短編です。

ドストエフスキーと思しき主人公の「私」が、シベリアに流刑になっていた時のことを思い出して書いているという設定になっています。

『死の家の記録』を読んだ方は、あの本に書かれている囚人たちのあまりに粗暴で個性的な人間像を思い出すかもしれません。

ドストエフスキー(1879年、58歳ごろ)


少しストーリーをご紹介しましょう。

粗野なふるまいをする囚人たちに辟易(へきえき)していた29歳の「私」は、ある日、突然9歳の時のことを思い出します。自分の家のそばの茂みで昆虫採集をしていると「狼がくるぞ!」という声を聞くのです。

驚愕(きょうがく)のあまり、近くで地面を耕していた百姓のマレイに助けを求めます。「狼が来るんだよ!」

しかし、やがて、それが空耳であることが分かります。落ち着きを取り戻した「私」は百姓のマレイに「もう行くから」と告げます。

「さあ行きなされ。わしが後ろから見ていてあげるで。狼なんぞに、来させるもんか!」と、相変わらず母のごとき微笑みを浮かべながら言い足した。「キリスト様が一緒にいてくださるでな。さあ、行きなされ」。そして、私に向かって手で十字を切ってくれ、自分も十字を切った。

マレイはその後も「私」のことをずっと見送ってくれました。マレイは家の私有農奴で、自分は旦那の坊ちゃんでした。しかし、この貧しい農奴の優しい微笑を、20年後のシベリアで「私」は突如として思いだすのです。

 貧しい農奴のあの優しい母のごとき微笑、彼の切ってくれた十字、「そりゃあ、おったまげたんだな、可哀想になあ!」と言いながら頭を振ったこと。そしてわけても、土で汚れたあの太い指で静かにそっと優しく私の震える唇に触れたことが、いま蘇(よみがえ)ったのだ。むろん、誰でも子供を励ますことはあるだろう。しかし、あの時の二人きりの出会いの中で起こったのは、いわば何かまるきり別のことだった。(中略)それにしてもあの出会いは、他に誰もいない野原での二人きりのものだったのだから、粗野で野獣のように無知なロシアの農奴、しかも当時は自身の自由など、まだまったく期待も予想もできなかった農奴の、あの者の心が、どれほど深い教養溢(あふ)れる人間味豊かな感情と、繊細でほとんど女性的とも言うべき優しさに満ちていたかを、おそらく天上からご覧になっていたのは、神様だけだっただろう。

こういう心理描写は、小説家としてのドストエフスキーのもっともすぐれたところではないでしょうか。

そして「私」はこの思い出のおかげで、周囲にいる囚人たちをまったく違う目で見ることができることに気づくのです。

彼らもまた、あのマレイと同じかもしれないではないか。つまり根本には、あの優しさがひそんでいるのだということを理解するのです。これは大きな回心につながります。

他の短編も、「らしくないドストエフスキー」の作品ばかりです。そもそも「らしいドストエフスキー」というのは、なんでしょうか。多面的な作家をあまりに単純にイメージを作り過ぎていたようにも思います。

ドストエフスキーには、アンリ・トロワイヤの書いた『ドストエフスキー伝』がありますが、こういう短編集を読んだ後では、妻アンナの『回想のドストエフスキー』に書かれている、この作家が嫉妬するところや、意外な一面も興味深いものになるでしょう。

作家として、人間として、ドストエフスキーは極めて複雑な人間であったことは、ある意味当然なのですが、それを思い出す意味でもお勧めの評伝です。


何度も挫折したトルストイも、まずは中短編から


ドストエフスキーが登場したら、トルストイの作品ももちろん取り上げなければならないでしょう。

昨年秋、古典新訳文庫でトルストイの『戦争と平和』全5巻が完結しましたが、この新訳をもって、私も生まれて初めて読了することができたことをこの連載で書いたところ、「ええ、とっくに読んでいると思っていました」と周囲からはひどく驚かれました。

いえいえ、挫折の連続だったのです。

前にも書きましたが「人生に手遅れはない」と思っています。優れた新訳が登場すれば、読了できる読者も増えていくでしょう。

なによりも、創刊時の1冊であった『イワン・イリイチの死/クロイツェル・ソナタ』の中編2作を読んでいたことも、今回の読了に繋がったと思っています。もちろん50代で読んだ新訳『アンナ・カレーニナ』にも深い感銘を受けました。

どれも望月哲男さんの清新で明晰な訳文に負うところが大ですが、『イワン・イリイチの死/クロイツェル・ソナタ』という助走があったことは大きいと思います。

私自身は、いわゆる短編では、有名な「イワンの馬鹿」「壺のアリョーシャ」も以前から大好きでした。今でも機会があると読み返しますが、いくつかの翻訳の違うものを、それぞれに楽しんで読むのも、有名な短編小説ならではの贅沢です。


「壺のアリョーシャ」の、なぜか心に残る人物造形


今回は「壺のアリョーシャ」をご紹介しましょう。

2006年に刊行された集英社文庫ヘリテージシリーズの『トルストイ』に、覚張シルビアさんの新訳が収められています。

編者の加賀乙彦さんの要約を引用しましょう。

両親の言いつけを忠実にする末っ子のアリョーシャの話である。彼が「壺」と呼ばれるのは、母親の言いつけで牛乳の壺を輔祭(*ほさい:司祭の仕事を補佐する人)の妻に届けさせたときに、躓(つまず)いて壺を壊してしまったからだ。アリョーシャは、子供たちに馬鹿にされても、陽気で笑っていた。父に叱られれば黙って聴いていた。十九歳のときに、ある商人にやとわれたが、身なりが貧しいし、言葉遣いが乱暴なので、礼儀作法を知らないと好かれなかった。しかし、仕事はよくするし、いつも微笑んでいた。給料は全部父親がもっていくので、アリョ―シャはいつも一文も持っていなかった。屋根の雪おろしをさせられたとき、足を滑らして出口の上に落ちた。彼は全身が痛かったが、黙っていた。そして、三日目に黙って死んだ。

「イワンの馬鹿」にも通じる、いかにもトルストイらしい人物造形だと思うかもしれません。

この作品を書いた時、トルストイは77才でした。

加賀さんの文章には出てきませんが、実はこのアリョーシャに恋人ができるのです。料理女のウスチーニヤという女性が、アリョーシャに好意を寄せ、アリョーシャも彼女が好きになり、結婚を申し込むのです。

しかし、周囲の反対でこの話はなかったことにされました。物語の最後には死の床にあるアリョーシャにウスチーニヤがこう話しかけます。

「何だい、まさか逝ってしまうのかい?」とウスチーニヤは尋ねた。
「仕方ないよ。いつまでも生きられるわけじゃなし。いつかはその時がくるんだ」とアリョーシャはいつものように早口で言った。「ウスチューシャ、憐(あわ)れんでくれてありがとな。結婚するなと言われてよかったんだ。だってもう死ぬんだから。これでよかったんだよ」
 彼は司祭と共に、ただ手を合わせ、心で祈った。彼の心にあったのは、人の言うことを聞き、怒らせなければ、この世でうまくいったのと同じように、あの世でも大丈夫だろうということだった。
 彼はあまり話さなかった。ただ、水を飲みたがり、ずっと何かに驚いている様子だった。
 何かに驚いて、伸びをし、そして死んだ。

私はこのラストが何度読んでも心に残ります。そして、連載第2回でご紹介した、ロシアの近代出版の礎(いしずえ)を築いたスイチンの自伝『本のための生涯』に出てきた、本の行商人たちと話す農民服を着たトルストイの姿が浮かんでくるのです。


アメリカ文学――難解な『白鯨』のメルヴィルに近づくための中編3冊


さて、ロシアから離れてアメリカに行きましょう。

アメリカ文学の古典といえば、何と言っても『白鯨』でしょう。D.H.ロレンスも『アメリカ古典文学研究』という本でメルヴィルを取り上げていますが、私の友人と同様、『白鯨』を読了するのにどれほどの時間を費やしたかを嘆く読者にたくさん会っていました。

そして私自身も、『白鯨』はじつに奇妙な小説であることに気づいていました。

白鯨に片脚を食いちぎられたエイハブ船長の、鯨に対する復讐譚(ふくしゅうたん)だと思って読み始めると、例えば32章には「鯨学」があり、74章は「マッコウ鯨の頭」、75章は「セミ鯨の頭」など、とにかく鯨に関する蘊蓄(うんちく)が満載なのです。エイハブ船長はどうしたのだ、これはいったい何の本なのだと思ったものです。

ところが、古典新訳文庫で『ビリー・バッド』という遺作と、『書記バートルビー/漂流船』という作品の新訳を読んだ時に、そうか、こういう作家なのだと理解できたのです。

ビリー・バッドという名の、誰からも愛された水兵が、不条理な理由により処刑される『ビリー・バッド』。そして奴隷船の反乱を描いた「漂流船」も優れた作品ですので、一読をお勧めしますが、「書記バートルビー」は、じつに奇妙な小説だといっても過言ではないと思います。

というより、こんな奇妙な小説は読んだことがないというのが最初の感想でした。

メルヴィルの奇妙なようで、じつに今日的な中編小説「書記バートルビー」


法律事務所に新しく雇われた書記のバートルビーは、じつに一生懸命に法律文書を筆写します。

しかし、確認のための読み合わせをしようとすると「わたくしはしない方がいいと思います」と言って拒否してしまうのです。しかもちょっとした用事を頼まれても同じセリフを吐いて拒否します。

やがて仕事そのものも拒否するようになり、事務所の所長は解雇しようとするのですが、事務所に住んだまま出ていかないバートルビーに業を煮やして、事務所そのものを移転してしまいます。

ですが、それでも前の事務所から出ていかなかったバートルビーは、浮浪者として警察に捕らえられ、刑務所に送られます。所長は会いに行くのですが、バートルビーは食事も拒んで死んでしまうのです。

これを「不条理」という言葉で表現するのは簡単すぎるような気がします。「わたくしはしない方がいいと思います」というセリフは、今やかなり有名ですが、物語の語り手である法律事務所の所長との刑務所でのやり取りは心に残ります。

「バートルビー!」
「わたくしはあなたを知っています」彼は振り向きもせずに言いました。「そしてあなたには何も言いたくはありません」
「君をここ(刑務所)へやったのは私ではないよ、バートルビー」私は言いました。彼の暗黙の疑念に鋭い痛みを感じていたのです。「それに君にとって、ここはそんなにひどい場所ではないはずだ。ここにいるからといって、君が非難されるようなことは何もないし。それに、ほら、ここは人が思うほどわびしい場所ではないよ。見てごらん、空も見えるし、ここには芝生もある」
「わたくしは、自分がどこにいるかは知っています」彼はそう答えましたが、それ以上何も言おうとしなかったので、私は彼の許(もと)から去りました。

この後、バートルビーは何も食べずに弱っていきその生を終えるのですが、この小説の最後はこういう終わり方をしています。

 ああ、バートルビー! ああ、人間の生よ!

この作品を読み、さらに先に挙げたもう2編を読んでから『白鯨』に再挑戦すると、違った読み方できるようになると思います。

メルヴィル(肖像画、1870年、51歳ごろ)

つまり、19世紀的なリアリズムの作家ではなく、極めて今日的な作品を書いた作家であることが分かるのです。


三島由紀夫の分析――日本の短編小説と西洋の短編小説との違い


さて、突然ですが、三島由紀夫の『文書読本』に、短編小説の文章について書いた一節がありますのでご紹介しましょう。

ヨーロッパの近代詩人たちが、詩で表現しようと思うことを、日本の現代作家は短篇小説で表現したのであります。ですから日本の短篇小説の最高のものは、ヨーロッパでならば散文詩として書かれたものに近いものもあります。(中略)
 西洋では短篇小説という区分は、長篇小説即ちロマーンあるいはノヴェルに対して、ノヴェレットという形もあれば、ショート・ストーリーという形もあれば、フランスのコントという形もあります。英国系のショート・ストーリーという考え方は、かなり包括的な見方であって、文学の質とは関係なく、かなり文学的な短篇小説から、落ちのきいた通俗的な短篇も一括して含めていくし、フランスのコントもリラダンのような哲学的短篇(『残酷物語(ルビ:コント・クリユエール)』)やフロベールの『三つの短篇(ルビ:トロワ・コント)』のような醇乎(じゅんこ)たる芸術的短篇から、モーパッサンの沢山のコントを含む、大体において首尾一貫した話をもって、単純な筋をもって終末に落ちに類したものがついているような、一つの文学形式として考えられています。

さすがに西洋文学に通暁(つうぎょう)した三島の分析です。日本の短編との違いは、極めて鋭い分析だと思います。

それでは、ここに挙げられているフローベールの『三つの短篇』(古典新訳文庫では『三つの物語』)から、今回は「聖ジュリアン伝」をご紹介しましょう。ちなみに最初の短編「素朴な人」の話は、すでに従弟の娘さんに話して聞かせた話を連載第1回(ちょっと長いまえがき)で触れました。


「聖ジュリアン伝」――多くの人が魅せられた、フランスでは大変ポピュラーな短編


「聖ジュリアン伝」の舞台は中世。素晴らしい狩りの腕前をもつ主人公ジュリアンは、領主の息子ですが、動物を殺すことに一種独特な血生臭い官能性を感じる資質を持っています。

ある日、鹿の一家と出会います。まず小鹿を射殺し、それから母鹿の胸に矢を射ち込み、最後に大鹿の額(ひたい)に矢を放ちます。

 大鹿は矢の痛みを感じていないかのようだった。仲間たちの屍骸を踏みこえて、真っ直ぐにこちらへ歩を進めてくる。角先で腹をえぐるつもりなのだ。ジュリアンは言い知れぬ恐怖に全身を包まれ、後ずさりをした。だが、驚異の巨獣は、そこまでで足を止めた。そして、燦然(さんぜん)と目を輝かせ、長老のように、裁き主のように、おごそかに、遠くで鐘を打つ音が続いている間に、三度こう繰り返した。
「呪われし者よ、呪われし者よ、呪われし者よ。荒ぶる魂を持つ者よ。いつの日か、お前は、お前の父母(ちちはは)を殺(あや)めるだろう」
 大鹿は膝を折り、静かに瞼(まぶた)を閉じると、そのまま息絶えた。

この宣告にジュリアンは驚愕し、声も出ませんでした。そして当然、深く苦悩するのですが、ある夏の夕方、偶然コウノトリを狙って槍を投げたつもりが、なんとコウノトリと思ったものは実は母の被(かぶ)り物だったのです。

あやうく母の命を奪いそうになったことを知ると、ジュリアンは戦慄(せんりつ)します。すぐに城をでて放浪の旅に出て傭兵になります。

やがて一人の王女と出会い結婚することになりますが、悲劇的な運命が彼を襲います。なんとジュリアンを探しにきた老いた両親を、大鹿の予言通りに、誤解から殺してしまうのです。

自分が両親を殺害したことを知って再び放浪の旅に出たジュリアンは、川の渡し守になるですが、ある日、ひどい癩病(*連載末注)を患っている男を乗せ、自分の小屋に連れて行って食事を与えます。

それから寒さを訴える男の願いを聞き入れ、裸になって彼を抱きしめて温めてあげるのです。

その男は、じつは主イエスでした。そしてジュリアンは主イエスに抱かれたまま昇天するのです。


ジュリアンは聖人に列せられます。私はフローベールのこの「聖ジュリアン伝」を読むたびに、これが文学なのだと強く思うのです。三島が魅せられたのもよく分かります。

谷口亜沙子さんの訳文も見事ですので、ぜひとも読んでいただきたい1冊です。

谷口さんはあとがきで、この『三つの物語』が、フランスの本屋さんであればかなり小さな店であっても、1冊は置いてある大変ポピュラーな作品であること、そして中学校や高校の教科書に使われることも多い作品であることに触れています。ちょっと羨ましく思えてきます。


ゾラの短編「シャブール氏の貝」


フランス文学を続けましょう。ゾラを読んだことがありますか。『居酒屋』『ナナ』などの長編で知られる、フランスの自然主義文学を代表する作家であり、ドレフュス事件の際は、「私は告発する!」と声を上げた勇気ある知識人としても記憶されています。

『オリヴィエ・ベカイユの死/呪われた家』の訳者の國分俊宏さんがあとがきで書いているように、ゾラはフランスでは現在でも非常に人気の高い作家なのですが、日本では最近、あまり読まれていないことを私も残念に思っていました。

この短編集はそういう意味でも画期的だと思います。

計5篇が収められていますが、私が一番好きな「シャブール氏の貝」を取り上げたいと思います。

シャブール氏は実業で成功したブルジョアで、若い妻を娶(めと)ります。しかし4年経っても子どもができません。医師のアドバイスは「貝を食べなさい」というものでしたので、海辺の町へ妻のエステルと出かけて滞在します。

そこで夫婦は、若い男性エクトールに出会って親しくなり、やがて青年は妻に恋をします。

なんだあ、フランス文学の常道じゃないかと言われればそうなのですが、そこからがゾラの凄いところで、このありがちな設定を、自然描写を含めて実に見事な小説に仕立て上げていくのです。

妻のエステルとエクトール青年が海に入るシーンを紹介しましょう。

二人はすべるようにゆっくりと進んだ。こうして同じ波の中に包まれていると、まるで二人だけの官能的な秘密を共有しているようだった。エクトールは、エステルの後を追って進み、彼女が残した水の軌跡の中に身を置いて、その同じ流れの中で、彼女の体の温かさを感じようとした。

それこそ大変官能的な描写ですが、この文章を読んで感嘆の念を抑えきれませんでした。

さて、ある日、出かけた海岸の断崖の下にある洞窟にいた妻と青年は、潮が満ちて、しばらく戻れなくなります。シャブール氏は仕方なく、潮が引くまでその断崖の上で、例によって医師に勧められたカサガイをという貝を食べながら待っています。

その時、妻と青年が洞窟のなかでなにをしていたかは想像がつきますよね。パリに戻った妻は9カ月後に男の子を産みます。シャブール氏は狂喜乱舞します。

シャブール氏は大喜びでギロー医師のところへ報告に行った。そして自慢げにこう繰り返したのだった。
「カサガイですよ。間違いありません! ええ、ある晩に、かご一杯のカサガイを食べたのです。いやはや! なんとも奇妙な状況だったんですがね……。それはともかく、先生、まさか貝がこんな効果を発揮するとは、ちっとも思いませんでしたなあ」

なかなか味わいのあるエンディングではないでしょうか。いかようにも解釈は可能ではありますが、抜群の筆使いだと思います。

こういう短編を読むと長編も読んでみたくなりませんか。ゾラという作家がぐっと身近に感じられるはずです。

エミール・ゾラ(1902年、62歳ごろ)


バルザックの怖ろしいほどの筆遣いに一気読み――短編「グランド・ブルデーシュ奇譚」


「グランド・ブルテーシュ奇譚」はバルザックの書いた短編小説です。次から次へとフランスの偉大な作家たちが登場しますが、まったく怖れる必要はありません。

この短編は、バルザックの長編の長く細密な描写にうんざりした人にこそ、お勧めなのです。

主人公の「わたし」は医者として、ある金持ちの夫人の治療のために、ヴァンドームという美しい町に滞在していました。ある時、打ち捨てられた古い屋敷を見つけます。

この奇妙な屋敷に魅せられた「わたし」は、庭に勝手に入り込んで時を過ごします。そんなある日、滞在している宿に公証人が訪ねてきて、その屋敷、グランド・ブルテーシュ館の庭に入ることを禁じるという宣告をされます。館に住んでいた貴族の奥さんの遺言だと言うのです。

宿のおかみさんから、館に住んでいた夫婦の詳細を聞くことができました。そして戦争捕虜としてこの町に連れてこられたスぺイン人の青年貴族のことについても話を聞くのです。

その青年はある日、忽然(こつぜん)と宿から姿を消したことが分かりました。「わたし」はさらに、かつてグランド・ブルテーシュ館の奥さんのところで働いていて、今はこの宿の女中をしているロザリーという女性から、事の次第を聞くことができたのです。

それはこんな話でした。

グランド・ブルテーシュ館のメレ夫人は、具合が悪いと言って3カ月の間、1階の部屋で一人で寝ていました。夫は2階で寝ていたのですが、ある日ビリヤードの勝負で大負けした晩に、妻と久しぶりに少し話そうと思い、妻の寝室へ行きました。

すると、部屋にある衣裳部屋の扉の閉まる音が聞こえたような気がしたのです。誰かその小部屋にいるのかと夫が問うと、妻からは「いいえ」という答えが返ってきます。

彼は立ち上がって、小部屋の扉を開けようとした。すると妻がその手をぐっとつかんで押しとどめ、悲しげに彼を見つめると、妙にうわずった声でこういった。
「だれもいなかった場合には、わたしたちはこれまでですわね」

うまいですね、さすがバルザックです。ここまで言われたので、夫は扉を開けることを断念しますが、ここからがこの小説のクライマックスになります。

夫はそんな時間にもかかわらず、左官屋を呼んで、衣装部屋の扉をふさぐに足りるレンガをもって来るように命じます。メレ夫人の顔がかすかに青ざめます。もちろん、その小部屋にはメレ夫人の愛人であるスペイン人の青年貴族が潜んでいたのです。

職人が気を利かせて小部屋の扉の窓ガラスを割った一瞬だけ、メレ夫人は中にいる青年に「希望をすてないで」とうなずくことができました。

朝4時には作業は終了しましたが、夫は妻の部屋で寝ました。その後、夫が出かけると言ったのを真に受けて、夫人は青年を救い出すために壁を壊そうとしますが、じつは夫は出かけていませんでした。妻を罠(わな)にかけたのです。

それから20日間というもの、残酷な夫は妻のそばを片時も離れませんでした。何日間かは、小部屋から物音が聞こえ、妻が助けてと懇願しても、夫はこう言うだけでした。

「あそこにはだれもいないと、きみは十字架にかけて誓ったではないか」

怖い小説でしょう? バルザックの筆遣いのうまさは、この短編を一気読みさせてしまいます。

バルザック(1845年、46歳ごろ)

よく、『ゴリオ爺さん』の冒頭の描写の長さに辟易したという声を聞きますが、ここだけの話ですが、モームのいうように(連載第5回)、飛ばし読みしてしまえばよいのです。一度読んで小説の構造が分かったら、逆に詳細な描写も楽しむことができる可能性があります。

この妻の浮気に対する夫の仕打ちの残酷さは、日本の小説ではちょっと味わうことのできない凄惨さがあります。こういう短編を幾つか読んで、バルザックの作風に慣れてくると、きっと長編も読むことができると思います。


長編のイメージがある20世紀作家たちの短編集――ガルシア=マルケス、バルガス=リョサ、ソルジェニーツィン…


さて、19世紀文学の王道の作家ばかりを取り上げてきましたが、時代を20世紀に移しましょう。ラテンアメリカ文学の短編集をご紹介したいと思います。

ラテンアメリカ文学といえば、ガブリエル・ガルシア=マルケスの『百年の孤独』や、マリオ・バルガス=リョサの『街と犬たち』『緑の家』といった長編を思い出す人が多いと思います。

この2人の短編を含めた『20世紀ラテンアメリカ短篇選』が2019年に岩波文庫から刊行されています。

ガルシア・マルケスの「フォルベス先生の幸福な夏」は、読みごたえのある短編ですから、すでに『百年の孤独』を読んだ人にもお勧めです。

そして20世紀のロシアの長編作家といえば、有名な『収容所群島』を書いたソルジェニーツィンではないでしょうか。そんな彼の短編を集めた『ソルジェニーツィン短篇集』があります。

私の好きな作品は、冒頭にある「マトリョーナの家」です。

ソルジェニーツィンというと、ソ連体制に激しく抗議をした政治的な意味合いを持つ作品を連想する人がほとんだと思いますが、この作品はまったく違う味わいが魅力です。訳者あとがきをご紹介しましょう。

私たちはマトリョーナを描く作家の筆に一見チェーホフ的なものを感じるかもしれない。だが、注意ぶかく眺めてみると、ソルジェニーツィンの筆は意外に激しいものがあり、〈善良さ(ルビ:ドブラター)〉の化身ともいうべきマトリョーナという女性を積極的に押しだそうとしていることを発見する。特に、物語のしめくくりとして語られる数行は、作家がマトリョーナを単なる片田舎の名もない一老婆としてではなく、ロシア女性の一種の理想像として、全ロシア、否、地球全体をも支える〈義人〉の一人として讃えていることを明らかにしている。

その最後の4行を紹介しておきましょう。

 われわれはこのひとのすぐそばで暮しておりながら、だれひとり理解できなかったのだ。このひとこそ、一人の義人なくして村はたちゆかず、と諺(ことわざ)にいうあの義人であることを。
 都だとて同じこと。
 われらの地球だとても。


ソルジェニーツィン(1994年、Photo by Evstafiev, CC BY-SA 3.0)
https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=3428690による


短編集から入る21世紀の韓国文学――パク・ミンギュ「そうですか? キリンです」


それではアジアの21世紀文学の短編もご紹介しましょう。

私が個人的にも大好きな作品は、パク・ミンギュ(1968~)という韓国の作家の『カステラ』という短編集に収められている、「そうですか? キリンです」という作品です。

経済的に恵まれない家庭の高校生が、夏休みにいろいろなアルバイトを掛け持ちして家計を支えています。ガソリンスタンドやコンビニなどのバイトに加えて、先輩が紹介してくれたのは、満員電車に乗客を無理やり押し込むという「プッシュマン」という仕事でした。

わが国でも昔はそんな光景が見られたことがありましたが、90年代の韓国でも同じことがあったのです。現在はそういう混雑は解消されたという注がついていますが、日本とまったく同じような光景が見られたのです。

ある日、主人公の「僕」が乗客を押し込んでいると、小さな商社に勤める父がそこにいました。「僕」は、父を無理やり押し込んで電車に乗せてやるのです。それが何度も繰り返されます。

そんなある日、母が病気になり、働けなくなってしまったので、担任の教師の計らいで朝の授業を免ぜられてプッシュマンに戻ります。父の会社の状況も厳しくなって他の会社を探していると聞かされ、アルバイトにさらに精を出す日々が続きます。

ところが、この父がある冬の日に消えてしまうのです。どこを探してもいないのです。

春になり、母が退院して生活はなんとか成り立つようになるのですが、ある日、主人公の「僕」は仕事の後で、向かいのホームに端正なスーツ姿のキリンを見つけます。キリンはホームのベンチに腰掛けました。

「僕」はキリンが失踪した父であることを確信します。すぐにそばに行って話をします。

僕一人が泣いていた。不思議にも涙が止まらない。父さん……僕は胸の中にしまっておいた言葉を取り出し、キリンの膝の上に自分の手をおいた。震える掌(てのひら)ごしに、自分の手で押したからこそ憶えているスーツの質感がそのまま伝わってきた。雲の影がそそくさと通り過ぎていく。キリンは相変わらずなんの反応もみせなかった。父さん、父さんだろ?

反応がないので「僕」は家の近況について報告します。そしてキリンに父親であることだけでも答えてくれと懇請するのです。

 無関心な、しかし灰色の瞳がようやく僕をじっと見つめた。キリンは自分の前脚を僕の手の上に重ね、ゆっくりと、こう言った。

 そうですか? キリンです。

短編ならではの素晴らしいエンディングだと思います。ちなみにこの『カステラ』は、2015年に第1回日本翻訳大賞を受賞しています。

作者のパク・ミンギュという作家の魅力的な短編集である『短篇集ダブル サイドA』『短篇集ダブル サイドB』は、齋藤真理子さんの見事な訳で読むことができます。

こういう短編集から、現代韓国文学の豊穣(ほうじょう)な世界に入っていくことをお勧めします。


チベット文学も短編から――日本が舞台「遥かなるサクラジマ」


ちなみに現代アジア文学ではもう一つお勧めがあります。チベット文学の『路上の陽光』です。

ラシャムジャという作家の短編集ですが、白水社から発売されて評判になった『「その他の外国文学」の翻訳者』の一人である星泉さんが翻訳しています。

これまではなかなか遠い存在であったアジアの現代文学、とりわけチベット文学なども、こういう短編集を読むことで一気に身近な存在となります。

最後の短編の題名は「遙かなるサクラジマ」。もちろん日本を舞台に、チベット人の女性の哀しみと希望を描いた味わい深い短編です。

こういう作品を読めるようになったことはとても幸福なことだと思います。

短編小説は、長大な古典文学の入門としても最良のテクストですが、同時に世界文学の最先端を知る上でも、最もとっつきやすい小説の形式であることは間違いありません。

さあ、苦手な分野の小説も、初めて読む外国文学も、短編から始めてみましょう。きっと楽しく読めるようになりますよ。


(*注)『三つの物語』「聖ジュリアン伝」が成立した当時、この病気は伝染性の強い病とみなされ、患者は社会から排斥されたり隔離されたりするなど差別的な生活を強いられていました。また第二次世界大戦後に特効薬が普及し完全回復が可能になったのちも、日本では1996年に「らい予防法」が廃止されるまで同様の政策が残っていたのはご承知のとおりです。現在ではハンセン病と表記しますが、作品の時代背景および文学的な意味を尊重して当時の呼称を使用しました。差別の助長を意図するものではないということをご理解ください。


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第7回の読書ガイド

・『「罪と罰」を読まない』岸本佐知子・三浦しをん・吉田篤弘・吉田浩美著、文春文庫
・『この名作がわからない』小谷野敦・小池昌代著、二見書房
・『白夜/おかしな人間の夢』ドストエフスキー著、安岡治子訳、光文社古典新訳文庫
・『ドストエフスキー伝』アンリ・トロワイヤ著、村上香住子訳、中公文庫
・『回想のドストエフスキー1・2』アンナ・ドストエフスカヤ著、松下裕訳、みすず書房
・『イワン・イリイチの死/クロイツェル・ソナタ』トルストイ著、望月哲男訳、光文社古典新訳文庫
・『トルストイ ポケットマスターピース04』加賀乙彦編、編集協力乗=松享平、集英社文庫ヘリテージシリーズ
・『アメリカ古典文学研究』D.H.ローレンス著、大西直樹訳、講談社文芸文庫
・『白鯨 上・中・下』メルヴィル著、八木敏雄訳、岩波文庫
・『ビリー・バッド』メルヴィル著、飯野友幸訳、光文社古典新訳文庫
・『書記バートルビー/漂流船』メルヴィル著、牧野有通訳、光文社古典新訳文庫
・『文章読本』三島由紀夫著、中公文庫
・『三つの物語』フローベール著、谷口亜沙子訳、光文社古典新訳文庫
・『オリヴィエ・ベカイユの死/呪われた家』ゾラ著、國分俊宏訳、光文社古典新訳文庫
・『グランド・ブルテーシュ奇譚』バルザック著、宮下志朗訳、光文社古典新訳文庫
・『20世紀ラテンアメリカ短篇選』野谷文昭編訳、岩波文庫
・『ソルジェニーツィン短篇集』ソルジェニーツィン著、木村浩編訳、岩波文庫
・『カステラ』パク・ミンギュ著、ヒョン・ジェフン/斎藤真理子訳、クレイン
・『短篇集ダブル サイドA』『短篇集ダブル サイドB』パク・ミンギュ著、斎藤真理子訳、筑摩書房
・『路上の陽光』ラシャムジャ著、星泉訳、書肆侃侃房
・『「その他の外国文学」の翻訳者』白水社編集部編、白水社

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【著者プロフィール】

駒井 稔(こまい・みのる)
1956 年横浜生まれ。慶應義塾大学文学部卒。'79 年光文社入社。広告部勤務を経て、'81 年「週刊宝石」創刊に参加。ニュースから連載物まで、さまざまなジャンルの記事を担当する。'97 年に翻訳編集部に異動。2004 年に編集長。2 年の準備期間を経て'06 年9 月に古典新訳文庫を創刊。10 年にわたり編集長を務めた。著書に『いま、息をしている言葉で。――「光文社古典新訳文庫」誕生秘話』(而立書房)、編著に『文学こそ最高の教養である』(光文社新書)、『私が本からもらったもの――翻訳者の読書論』(書肆侃侃房)がある。現在、ひとり出版社「合同会社駒井組」代表。

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