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「同性愛」と「処女性」――『伊豆の踊子』を真に理解するにはこの2つのキーワードが必要だ #7_2

前回で詳しく分析したように、「恋愛小説」とは呼ぶにはあまりに特異な『伊豆の踊子』。しかしどうやら映画やドラマに見られるような、単純な青春の物語ではないようです。後編では、川端康成が作り出した作品世界に、さらに深く切り込む視点を提示します。

前編はこちら

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「異性愛」へのめざめなのか?

ここでぜひ知っておかなければならないのは、作者である川端の性的志向です。実は当時の川端は同性愛者でした。これは川端自身が随筆を通して告白していますから事実のようです。 

この事実を前提に『伊豆の踊子』を読むと、劇的に解釈が異なってきます。たとえば最後の場面では、船の中で少年(受験生)と知り合って、彼の「学生マントの中にもぐり」込んで、「少年の体温に温まる」という描写があります。季節はまだ11月、場所は温暖な伊豆にもかかわらずです。異性愛者では通常考えにくい行動です。

実際に川端が愛した相手は小笠原義人という1歳年下の男性でした。旧制中学の寮の先輩後輩の間柄で、川端は小笠原との関係を「初恋」だとしています。川端が東京に移り一高に入学すると遠距離恋愛になり、手紙のやりとりで交際関係を維持していました。川端が伊豆へ旅行したときも文通していました。伊豆旅行の数ヵ月前には、川端は大阪に戻って小笠原の部屋に泊まっています。 

このような観点から再度『伊豆の踊子』を読むと、新しい解釈が見えてきます。薫への恋心の意味するところは、異性にも恋することができたバイセクシャルである自分の発見だったのです。川端にとってはコペルニクス的大転回です。伊豆で踊り子を見かけて胸が高鳴った瞬間こそがひとつの大きな事件であり、川端にとって重要な告白であったと解釈することが可能になるのです。

この観点に立つと、薫の見かけのイメージも修正しなければならなくなります。「私」は薫を「凛々しい」と表現していますが、これは中性的な美しさということになりますし、体型も女性らしいふくよかさというより、ダンサーがしばしば持つ引き締まった筋肉による健康美のイメージに転換しなければならないのです。もしかすると、薫の見かけに小笠原の面影が見えたのかもしれません。

川端は伊豆旅行が終わった後は本格的に異性愛に目覚めたようで、友だちとともに女性のナンパに出かけるようになりましたし、「ちよ」という女性も好きにもなりました。さらには、伊藤初代という女性と婚約までしています。 

というわけで、薫との出会いが、「私」=川端の恋愛行動の大きな分岐点だったという意味において、『伊豆の踊子』は重要な作品であるという解釈も成り立つのです。

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川端は「処女」を賛美しているのか?

三島由紀夫は、川端文学は「処女の主題」をもっていると評しました。

『伊豆の踊子』ばかりでなく、『眠れる美女』『篝火』等でも処女の女性を好んで描いているので、川端の作品では「処女性」が重要なテーマのひとつであり、賛美していることは明らかです。

ただし、性的な対象としての処女に価値をおいての描写ではなく、肉体関係を経験しないことによって派生する「純粋無垢」といった感覚的な要素をもつ存在としての処女になっています。『伊豆の踊子』でも、薫が処女であると知った(思い込んだ)ことで、性的な興味を失い、好意を純粋無垢な存在へのいとおしさに変換していきます。

そもそも処女であるかどうかは、医学的な見地では立証するのが極めて難しいもので、本人の自己申告か、処女特有の行動によって推測するかのどちらかです。川端の場合は、薫の行動によって処女であると確信したわけですが、こうした処女への賛美が正しい姿勢なのかどうかは分かりませんし、ここではその是非は問わないことにします。

ただし、英国のジャーナリストであるクリフォード・ビショップが『性と聖』(2000年)で指摘するように、歴史的には処女性の喪失は「自己の根本的な変化」であり、また「処女や童貞は汚れを知らず、いまだ可能性に満ち、とりわけ少女の場合には純粋無垢で完全な存在」とされてきました。現代の私たちの感覚でいえばかなり時代遅れの感がありますが、 川端はこの立場をとっており、当時としてはこれは一般的な考え方だったのです。

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「処女性」について「進化生物学」から考察する

なお、「処女性」へのこだわりは、令和以前の日本だけに限りません。時間軸、地域に関わりなく、普遍的にこうした考えは広く世界で見受けられてきました。たとえば、古代メソポタミアの文献にも「花嫁は処女に限る」という記述が見られます。 歴史家のハンナ・ブランク(2011年)は、女性が結婚前に処女を喪失することによって「数千年間、非難されたり、攻撃されたり、嘲られたり、排斥されたり、結婚を禁じられたり、縁を切られたり」してきた歴史があると指摘しています。 したがって、男性が結婚前に処女を求めるのは、文化特有のものというよりも、私たちの遺伝子に根差した欲求と解釈できます。

せっかくですから、この「処女性」について恋愛学の知見にもとづいて徹底的に考えてみたいと思います。処女や童貞の方々が増えている最近の傾向からもぜひ押さえておきたい知識です。

まず「なぜ男性は女性の処女にこだわるように遺伝子にプログラムされたのか?」という疑問です。これは進化生物学の観点から説明できます。

私たちの遺伝子は長い間の進化によって形成されてきました。百年千年という単位ではありません。数万年という単位です。最後の氷河期が終わったのはいまから1万2千年前ですが、当時と現在の私たちとで、遺伝子はほとんど変わっていません。狩猟採集時代に最適になるようにつくられた遺伝子をいまでも引きずっているのが現代の私たちなのです。したがって、男性が女性に処女性を求めるのは、このはるか昔に形成されて以来、現在に受け継がれてきたものだということです。

ここで重要なのは、男性は女性の卵子に結合させる精子を提供し、女性のほうは妊娠して出産するという身体的な違いがある点です。女性は生まれてきた赤ん坊が自分の子どもであるという確証が100%あります。(病院でのとり違い事件が生じない限り)絶対に間違えようがありません。

ところが、男性は出産しませんので自分の子どもであるという確証がないのです。現在では医学が発達して、遺伝子検査によって生まれた赤ん坊が本当に自分の子どもかどうかを知ることは可能ですが、狩猟採集時代では不可能です。せいぜい顔が似ているとか、ほくろの位置が同じとかいった傍証だけで、100%の確証はもてません。西洋ではこれを称して「Mama’s Baby, Papa’s Maybe」と呼んでいます。言い得て妙ですよね。

したがって、男性は女性が貞淑で、自分の子どもを産んでくれることを強く求めます。これが処女性が求められてきた根源的な理由です。女性が浮気性であると、排卵期に別の男性と肉体関係をもち、自分の遺伝子とはまったく関係のない子どもを妊娠して出産する可能性が出てきてしまい、最悪の場合、男性には遺伝子をまったく共有しない子どもをそうとは知らずに育ててしまうリスクが生じます。自分が狩猟によって獲得した貴重な食料を投資して育てるわけですから、もし自分の遺伝子とは関係のない子どもだったら、その損失は計り知れません。

そうした事態を回避する指標として「処女性」を女性に求めてきた歴史があり、ホモ・サピエンスが進化する過程で淘汰圧がかかり、次第にその選好が遺伝子に組み込まれていったということです。

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恋愛経験の少ない女性は、結婚後に浮気をしないのか?

次に処女性と浮気の問題です。上記の「処女性」とは、結婚前にほかの男性と肉体的な関係のない女性のほうが、結婚後に不倫する確率が低いという前提条件に立ったものです。それは本当なのでしょうか?

この点を確かめるために、二変量解析を実施してみました。二変量解析とは、ふたつの変数に相関関係があるか(ピアソン相関係数)を確認する比較的簡単な分析テクニックです。2013年に公開された相模ゴム工業の「ニッポンのセックス」調査には都道府県別の恋愛や結婚に関するデータがありますので、その47都道府県データをもとに解析を行ないました。図表2がその結果です。

伊豆の踊子_図表2

図表2 不倫に関する二変量分析の結果
* ⇒ 相関係数は5%水準で有意(両側)。 ** ⇒ 相関係数は1%水準で有意(両側)。

「処女」を表す変数として「初体験年齢」と「性経験人数」の2つを用いました。「*」か「**」がついていると統計的に有意という意味で、その数字が1.0か-1.0に近づけば近づくほど、相関関係が強いことになります。浮気率とこの2つの変数に相関関係があるかを確認したところ、図表2のように、2点において相関関係があることが分かりました。

ひとつは、性経験人数と浮気率には正の相関関係があると確認できました。結婚前に肉体関係をもつ人数が多ければ多いほど、結婚後に浮気をする可能性が高いということです。ただしピアソン相関係数は「0.323」で5%の水準で有意となっていますので、「やや傾向が強い」といった程度です。

もうひとつは、初体験の年齢と性経験人数とには、負の相関関係があるという点です。つまり、初体験が早ければ早いほど、肉体関係をもつ人数は多くなるということです。ピアソン相関係数は「-0.372」で、1%の水準で有意ですから、かなりの確率でこのことが言えるようです。

以上を総合すると、

初体験の年齢が早い ⇒ 肉体関係をもつ人数が増える ⇒ 結婚後に浮気する

という図式になります。初体験の年齢は直接的には浮気に関係していませんが、過去の性経験人数を考えれば、間接的に影響しているということになります。結論として、処女だからといって結婚後に不倫を絶対にしないというわけではありませんが、確率的にいえば不倫する確率は低いと言えるでしょう。

ですから、往々にして非処女の女性が処女と偽る場合も散見されるところです。日本放送協会(NHK)が行なった全国調査によれば、10代後半の女性に19%、20代の女性の6%が、自分は処女であるとウソをついたことがあると回答しています。 

とはいえ、結婚後の男性の浮気率に比べたら、圧倒的に女性の浮気率が低いことは、『斜陽』の回で述べたとおりです。繰り返すと、現在進行中の男性の不倫は26.9%であるのに対して、妻の不倫は16.3%ですので、大きな開きがあります。

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現代では、女性に処女性を求めなくなった!?

川端の時代(大正時代とそれ以前)では結婚前に処女であることに優位性があり、男女ともに意識として肉体関係がないことを求めていたようですが、現在ではその割合は減少しています。

図表3をご覧ください。NHKが1973年~2013年に実施した「日本人の意識 40年の軌跡(1) ~第9回「日本人の意識調査から~」によれば、婚前交渉への意識の変化がよくわかります。

図表3が示すとおり、1973年の調査では、結婚前に肉体関係をもつことは、結婚前は「不可」とする回答が58%でもっとも多く、「婚約で可」が15%、「愛情で可」が19%、「無条件で可」が3%といったように、「不可」が過半数を超えていました。

伊豆の踊子_図表3

図表3 婚前交渉への意識に関する調査

ましてや川端が伊豆旅行をしたのは1918年のことで、いまから100年以上前です。この「不可」は限りなく100%に近かったことが推察できます。川端が処女を賛美し、読者もその価値観に賛同していた時代背景があったのです。

しかし、時代は大正から昭和、平成を経て令和になりました。婚前交渉は「不可」とする割合は着実に減少して、2013年では「不可」が21%(それでも結構多いですね)、「婚約で可」が23%、「愛情で可」が46%、「無条件で可」が5%になっています。

このように、結婚前の処女性へのこだわりは大幅に減少しました。性の解放と自由恋愛の普及、また結婚前に処女の女性が少なくなっていること。あるいは医学の発達により、生まれてくる子どもが男性の遺伝子を共有しているかは、検査をすれば容易に確認できるようになってきたことなどが、減少傾向の理由として考えられます。

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第7回のまとめ

いかがでしょうか? 『伊豆の踊子』を漫然と読んだだけでは、その奥に隠された川端の意図をはっきりと浮かび上がらせることは難しいと思いませんでしたか? 川端は読者が読みたいように読んでくれればそれで満足だったのかもしれませんが、彼の生い立ちや性格や経験といった背景をしっかり把握すると、小説に深みが出てきてさらに面白く読めるものです。

最後に、今日的な観点から川端の思い違いを指摘したいと思います。その思い違いとは、川端が処女=純粋無垢というふうに短絡的に考えていた点です。

「純粋無垢」とは、性経験ばかりでなく、そのほかの人生経験にも影響されていくものだと思うのです。教育を受けて知性や教養を高めたり、仕事をしたり、人生で挫折を味わったり、またその挫折を乗り越えたりといった経験を積むことで、純粋無垢さが徐々になくなっていくのが私たちの人生です。私たちが生きていくことは、人を傷つけ傷つけられ、だましだまされの連続です。このような人生の辛苦の中で、純粋無垢さを失うのはある意味で当然であり、それを「成熟」と呼ぶはずなのです。

しかし川端は、純粋無垢さを性経験に収れんさせています。処女=純粋無垢という等号を成立させているのです。しかし、実際はそう簡単なものではありません。たとえば、18歳の性経験がある女性(25.5%います)と、39歳の性経験がまったくない女性(29.0%)と、どちらが「純粋無垢」と言えるのでしょうか。川端の考えが正しかったら後者になりますが、現実にはそう一概に言えません。すべては人生経験の多寡、心の持ちようで違ってきます。14歳の薫はたまたま「純粋無垢」な処女だっただけで、同じような条件の14歳の処女がそうでない場合もあるし、その逆に14歳でも処女ではない女子が「純粋無垢」である場合もあるはずです。したがって、「純粋無垢」の根拠を性経験の有無だけに求めるのは間違いだと私は思うのです。

以上のように、いろいろな角度から『伊豆の踊子』を検討してみました。ぜひ、再度この小説をお読みいただければと思います。この批評を読んだ後は、まったく別の読み方、まったく違う世界が待っているはずです。


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第7回 川端康成『伊豆の踊子』前編


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