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『痴人の愛』のナオミをやがて待ち受けるのは、夫にあっさり捨てられる運命である #6_2

「テストステロン」と「ドーパミン」の2つの化学物質が、いかに恋愛関係に大きく作用するかを指摘した前回。後編では、この視点をいよいよナオミと河合の関係に当てはめて考察していきます。従来的には、河合がナオミに支配されるマゾヒズムの文脈で読解されることが多かった『痴人の愛』ですが、はたして…? 文豪・谷崎潤一郎屈指の傑作が、小説としていったい何を描けているのかを明らかにします。

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テストステロンとドーパミンからみた河合とナオミの相性

「テストステロン」と「ドーパミン」…この2つを踏まえ、河合とナオミの性格描写に気を配りながら『痴人の愛』を読むと、2人の相性の悪さがきれいに浮かびあがってきます。

テストステロンでいうと、河合のレベルが低く、ナオミのほうが高いのは明らかです。河合は「女道楽」をしませんし、「質素で、真面目で、あんまり曲がなさ過ぎるほど凡庸で、何の不平も不満もなく日々の仕事を勤めている」堅実タイプの理系男子。さらに職場では「君子」という評判があったくらいですから、チームワークという意味でも模範的なサラリーマンだったことがうかがえます。

ナオミを囲いたいという考えは大胆ですが、そもそもの発端は「この殺風景な生活に一点の色彩を添え、温かみを加えて見たい」という動機に根差しているので、あくまで内向的です。したがって、河合のテストステロンは少なく、男らしくはなくとも「優しい系」のマイホームパパになる男性だと言えます。

一方、ナオミは逆の性格です。河合を支配したい欲求が強いことは前述の馬乗りの例で明らかで、ほかの場面でも顕著です。たとえば「驚くほど強情で、始末に負えないたち」で、最後はいつも河合が「根負け」してしまうと描写されています。ナオミは「空威張りの負け惜しみ」もしますので、元来負けず嫌い。兵隊将棋やトランプをしても「勝負事では自分の方がずっと強者だ」と思い込んでいる点や、勝つためなら手段を選ばない点でもテストステロンが高いことがわかります。さらにナオミは「意地っ張り」で、「つまらないことでふいと喧嘩になっちまうと、もう取り返しがつきません」と、不倫相手の浜田も嘆くほどです。

したがって、前回示した図表1でいえば河合のテストステロンレベルは低く、ナオミは高いということなので、夫婦関係では【3】の「かかあ天下」になることは必定です。ナオミが家庭で主導的な役割を果たし、河合が「従」となります。何をする、どこにいく、お金をどう使うといった決定権はナオミにあり、河合はしぶしぶそれに従うという夫婦関係になってゆくのです。馬乗りのシーンではナオミが「これから何でも云うことを聴くか」と問えば、「うん、聴く」となるし、「あたしが要るだけ、いくらでもお金を出すか」では、「出す」であり、さらに「あたしに好きな事をさせるか、一々干渉なんかしないか」と問われれば、答えは「しない」となります。2人のテストステロンが、この主従関係に大いに影響していることの証左です。

次は、河合とナオミのドーパミンレベルですが、こちらも読めばすぐに分かります。河合の趣味は「私の娯楽と云ったら、夕方から活動写真を見に行くとか、銀座通りを散歩するとか、たまたま奮発して帝劇へ出かけるとか、せいぜいそんなものだった」とあります。また「突飛なことは嫌い」で、「呑気なシンプル・ライフ」を望んでいます。「田舎育ちの武骨者」で、しかも「品行は方正」ですので、ドーパミンレベルは低く、完璧なインドア派です。

一方のナオミは、ドーパミンが際立って多い。交友関係が広く、人を自分の家に招き入れるのが好きな「パリピ的」傾向が多々見受けられることに加え、移り気でもあります。習いごとも、音楽や英語からはじまり、そのうちダンスに興味が移っていますし、不倫においても、ひとつの関係に真新しさを感じなくなってくると別の男に向かっています。 

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それでは、ドーパミンが多いナオミがどうして河合に興味をもったのかという疑問がわくかと思います。しかし当時のナオミとしては、見ず知らずの河合が新しい世界に連れ出してくれることに興奮を覚えたでしょうし、経済力のある河合がナオミの収入では不可能な体験をさせてくれるメリットが存在したのです。当然、ひとつの興味が薄れると次の刺激を求めたりはしましたが、同棲当初までは、それなりに楽しい日々だったはずです。

その後の夫婦関係でいえば、妻であるナオミがアウトドア派で河合がインドア派ですから、ナオミが外で遊ぶようになり、河合が自宅でナオミの帰りを待つ関係になるのは予想できたことでした。

ドーパミンに関する限り、2人の関係は理想の夫婦としては程遠いところに位置しています。しかし、河合はナオミの肉体に魅せられているので、ほかのすべてのものを犠牲にしても、関係を断つことはしませんでした。たしかに「稀有な夫婦関係」であることは事実のようです。

いかがでしょうか? このように、テストステロンとドーパミンの多寡の観点から性格の相性を紐解くと、河合とナオミの関係も把握できますし、また私たちの関係にも応用できると思いませんか。サドかマゾかといった一元的な関係性よりもずっと奥行きのある分析が可能となります。

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「耽美主義」の行きつくところ

ドーパミンの見地から2人の相性が悪いとしたら、この夫婦関係はいつまで続くのでしょうか? 将来を予測してみたいと思います。

そこで役に立つのが「恋愛均衡説」です。恋愛均衡説は、武者小路実篤『友情』において、野島、杉子、大宮の3人の関係を知るために援用した考えです。恋愛関係においては私たちに「魅力度(商品価値)」というものがあって、恋人や夫婦におけるお互いの魅力度は、おおむね均衡しているという説でした。

河合にもナオミにも同じように魅力度というものがあります。魅力度を構成しているものに、性格や学歴や見かけといったものがありますが、このような項目に2人の魅力度を蜘蛛の巣グラフにしてみたものが図表3です。

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図表3 河合とナオミの魅力度

河合の性格は普通(10点満点中5点くらい)ですが、前述したとおり、見かけはたいへん劣っています(2点)。 しかしながら社会的条件はほぼ完璧です。学歴は東京工業大学卒業で、勤勉な理系技師でした(9点)。また、遺産を相続した後は会社経営者になっていますので、社会的条件は文句なし(10点)です。見かけは悪くても、学歴と社会的条件に優れているのが河合という人物です。このような男性は結婚市場では引っ張りだことなります。

もう少しこの社会的条件の重要性を強調しておきます。第1回の夏目漱石『こころ』編で、早稲田大学において「恋愛学入門」を教えていると申し上げましたが、以下は私が毎年その授業で実施しているアンケート結果です。

(質問)以下の二人の男性をイメージしたとき、結婚するならどちらの男性ですか? 結婚したいと思う男性を選んでください。

 (1)フリーターで、年収が100万円のイケメン
 (2)弁護士で、年収が2,000万円の出川哲朗もしくは江頭2:50


(1)は見かけはたいへん良いが社会的条件はよくない男性で、(2)はその逆に見かけは劣るが社会的条件に優れる男性をイメージしています。

女性はどちらを選ぶと思いますか? このアンケートでは、約65%の女子学生が、年収が多く社会的ステータスが高い後者を選んだのです。前者を選んだ学生は35%にすぎませんでした。結婚市場における女性の好みは明らかです。こと結婚に関しては、男性は見かけで選ばれるのではなく(これは多くの男性には朗報です)、職業や年収といった社会的条件が整っていることが重要なのです。

そう考えると、河合自身は(今のところ)自分の魅力に自覚はありませんが、実は結婚相手として非常に有望な男性でした。

一方のナオミはどうでしょうか。明らかに、見かけはすばらしい(10点満点中10点)。しかしながら、家事力や育児力はほぼないに等しく(1点)、性格は好みの問題もありますが、決してほめられるレベルではありません(2点)。また学歴も教養もありません(2点)。ですから、見かけのみが突出した女性ということになります。

ナオミは、料理も片づけもできないといったように家庭内スキルがほとんどありませんので、こうした資質が要求される結婚には不向きです。その代わり短期的な関係を結ぶ浮気市場ではもっともモテるタイプです。顔や体型といった見かけの部分と夜の営みといった点では非常に魅力的ですので、肉体的な部分においてのみ関係する不倫では、理想的であるわけです。

作品中では、河合が異常ともいえるほどナオミの見かけに固執しているので、結婚生活が成り立っています。ところがです。残念ながら見かけというものは今後劣化してゆきます。若々しくいつもきれいでいたいというのは誰もが望むものですが、みな平等に年齢を重ねていくわけです。加齢にしたがって、しみ、小じわ、肌のたるみ、抜け毛が顕著になってきます。

河合は、美を追求する男性です。その美があるからこそナオミを愛していられるのです。しかし、年齢を重ねるにつれて唯一のよりどころである見かけが衰えてゆくのですから、将来的に河合の許容限度との均衡がとれなくなり、ナオミによる支配が我慢できなくなる日がきっとくるに違いありません。したがって、現在は「稀有な夫婦関係」を維持していますが、そのうちに河合がナオミを見放し離婚します。美を追求する河合だからこそ、関係性の破綻は不可避なのです。

社会的な条件に秀でている河合は、ナオミと離婚した後にすぐに再婚できるでしょう。そのときは、見かけも河合好みで、さらにほかの要素もナオミよりもはるかに優れる女性を選んでいるに違いないのです。

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第6回のまとめ

以上、内分泌学的アプローチに基づいて『痴人の愛』における河合とナオミの夫婦関係をみてきましたが、最後に以下の2点を指摘しておきたいと思います。

第一に、ここで解説したテストステロンとドーパミンの特徴をぜひみなさんの私生活に応用して、素敵な恋愛や結婚生活を楽しんでもらいたいと願っています。性格の相性にはこの2つの化学物質が大いに関係していますので、見かけなり言動なりを詳細に調べれば、だいたいのレベルを推量することが可能です。

すべての男女関係は、テストステロンの4通り、ドーパミンの4通りの、4×4=16通りのパターンのどれかに属することになります。このように分析すれば、相性がいいのか悪いのか、関係性について考察することができます。各々の相性を改めて知るいい手段になるわけです。

第二に、『痴人の愛』をマゾヒズムの小説と規定してしまうと、私たちからかけ離れた創作という理解になってしまいますが、内分泌学から分析すれば、河合とナオミの関係はレアな夫婦であっても、一般的な夫婦の延長線上にあるものと理解できます。夫婦には誰にも言えないような、特異な関係があるものです。どの夫婦にも活字にしたら恥ずかしくなるような秘めごとが1つや2つはある。この2人の関係と、それほど変わらないということです。たまたまナオミがテストステロンとドーパミンの量が多く、河合が少なかったから異常とも思える関係になっただけで、化学物質の多寡に応じて、一般の夫婦にも似たような関係があるものなのです。その意味で『痴人の愛』は「稀有」というより、「身近」な作品なのです。

バックナンバーはこちら↓

第1回 夏目漱石『こころ』前編
第1回 夏目漱石『こころ』後編
第2回 森鷗外『舞姫』前編
第2回 森鷗外『舞姫』後編
第3回 武者小路実篤『友情』前編
第3回 武者小路実篤『友情』後編
第4回 田山花袋『蒲団』前編
第4回 田山花袋『蒲団』後編
第5回 太宰治『斜陽』前編
第5回 太宰治『斜陽』後編
第6回 谷崎潤一郎『痴人の愛』前編


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