人間が地球を守る必要はない?『南極で心臓の音は聞こえるか』序文先行公開!
皆さんこんにちは!元光文社新書の藤です。
本日より7月新刊『南極で心臓の音は聞こえるか』の一部を先行公開してまいります。
『南極で心臓の音は聞こえるか』ってなに?という方はこちらの記事を…。
第59次南極地域観測隊の一員(越冬隊・気水圏一般研究観測)として1年4ヶ月の南極生活を経験された山田恭平さんが綴る南極の日々の記録です。
今回はその「序文」を先行公開します。著者さんは「人間ごときが地球を守ってやる必要はない」と説きます。地球温暖化に詳しい大気研究者がそう説く真意とは?
また「なぜ南極を観測するのか?」という素朴な疑問にも、研究者の立場からの答えが書かれています。
2018年2月10日 南極大陸・S17観測拠点、雪上車内にて**
缶のラベルを読むと、シラップ漬けとある。
シロップではなく、シラップだ。これは缶詰が古いからこういう表記なのだろうか、はたまた現在も缶詰業界では、シラップ、の書き方が標準なのだろうか、などと考える。幸い、時間はいくらでもある。
びゅうびゅう、という擬音語では済まされない風が外では吹き続けてはいるのだが、ずっと聴き続けていくとただの環境音となる。零下の気温ではあるが、SM100雪上車のエンジンは乗車している人間の態度に反して一所懸命に頑張ってくれているので、寒くはない。どころか暑いほどで、そうなったら燃料節約のためにエンジンを止める。秒速15mを超える風の中で給油はしたくない。
南極大陸沿岸氷床斜面、観測拠点S17。
現在いる場所を簡潔に書き下そうとするのであれば、そんなところだろう。
S17というのは拠点名だが、この名称が日本の代表的な観測基地である昭和基地から内陸部に向けてどれくらい離れているか、という指標にもなる。
氷床というのは大陸上に載っている氷の塊のことだが、一般的にこうしたものは「氷河」と呼ばれる。「氷床」と呼ばれるのは余程巨大な氷河だけなのだが、実は地球上にはグリーンランド氷床と南極氷床の2種類しかない。そして南極氷床はグリーンランド氷床の10倍近く大きい。世界一広大な氷床である。
唯一どこの領土でもない大陸
南極大陸は六大陸中、最も遅く到達された、地球上で唯一どこの領土でもない、最南端の大陸である。
自分は2017年11月から2019年3月までのおよそ1年4ヶ月間、大気に関する一般観測研究(気水圏)を行うため、第59次南極地域観測隊の越冬隊のひとりとして南極へ渡った。
おかげで貨幣制度が怪しくなったり、服はガムテープで補修するものではないということを忘れたり、33人以上人間がいるとコアリクイのように威嚇するようになったり、公衆浴場の先客に対して「おつかれさまです」と声をかけそうになった。北半球の低気圧の回転方向が時計回りなのか反時計回りなのかも忘れてしまったので、気象関係の研究者としては致命的である。
南極。
世界各国が基地を持ちながらも、あらゆる国の領土ではない場所。大陸の
98%が氷で覆われていて氷床という形で淡水を保有する巨大な水源。吹き荒れるブリザードによって観測作業のみならず、あらゆる野外活動が不可能になる過酷な空間。真夏にもかかわらず零下になるような、そんな場所。
いったい。
いったい、なぜ、こんな場所に?
再起をかけた国家プロジェクト
国家レベルで言えば、南極とは敗戦国が再起するための、旗印となる場所であった。
第二次世界大戦の負けに打ちひしがれていた日本は、世界に劣らぬ国を作り上げるため、科学的な探求を南極から始めた。敗戦から10年、1955年のことだ。当時はまだ日本の国際復帰に非難の声があったものの、最終的に日本の主張は認められ、南極大陸の一角を割り当てられた。南極大陸のなかでも到達不能海岸と呼ばれた場所――現在まで続く日本の南極観測の拠点・昭和基地が存在している、その一帯である。
同年11月、南極観測は閣議決定された国家プロジェクトとして動き出し、国全体の寄付と支援を受け、翌1956年11月に最初の南極地域観測隊が出航。到達不可能とされた地に降り立ち、昭和基地を建設して帰ってきた。
それからおよそ60年。日本は同じ場所で観測を続けている。
地球全体の課題解決に向けて
全球的な視点に立てば、南極というのは気候変動にとって非常に重要な場所だ。
例えば温暖化に伴う南極氷床の融解は、海水準の上昇という地球規模の現象として現れ、生態系や人間生活に大きな影響を及ぼすと予想されている。
温暖化しても地球そのものが困るわけではない。恐竜が生きていたジュラ紀や白亜紀は現代より二酸化炭素濃度がずっと高く、温暖な気候だった。そうした気候でも、地球は壊れたりはしなかった。地球表面が完全に氷に包まれる全球凍結状態になってしまったこともあったが、それでも地球は存在し続けた。この強大な存在を、その表面にへばりついて生きる人間ごときが守ってやる必要はない。
だが温暖化してしまっては、人間が困るのだ。
人には見せない努力を、水面では静かながら水面下で水をかく白鳥に喩えられることがあるが、同様に発生確率は低いものの予想ができない金融打撃のことを黒い白鳥(ブラックスワン)と呼ぶ。これのさらなる変化形として、緑の白鳥(グリーンスワン)と呼ばれる概念がある(Bolton et al., 2020)。気候変動による金融危機のことで、その額は億や兆どころではなく、年間で約1京円にもなるとまさしく桁外れの予想をしている研究機関もある。温暖化による経済的損害は甚だしく、適応にはとかく金がかかる。
この星を守るため、だなんてことは言わない。大事なのは人類で、もっと言うなら自分や自分の大事な人たちだけだ。楽しく生きていくためには余計なことに金を使いたくないが、しかし何もしなければもっと金がかかる。だからどうにかして、少しの投資で温暖化の被害は軽く留めなければいけない
研究者にとっての南極
大仰な話をしたが、研究者からすれば南極は「研究が進んでいない場所」というだけで価値がある。
というのも、世の中ほとんどの研究というのは何かに役立つというものではなく「とにかくなんだかわからないから役に立たないだろうけど研究する」という基礎研究だからだ。
研究者や研究論文というものは佃煮にするほど存在しているのに、糞のように役に立たない。だが糞尿は古来有効な肥料である。論文検索の最大手サイト、Google Scholar には、「巨人の肩の上に立つ」という文言が掲げられている。かの有名なアイザック・ニュートンも書簡で引用したというこの文句は、科学においては忘れてはいけない事実だ。孤立した天才は何も生み出さないし、役に立つ研究だけでは新たな発見は生じない。
とはいえ、そんな役に立たない研究でも論文には「この研究はこういう役に立ちますよ」と書く。そう書かないと論文を批評する査読者に文句をつけられて修正要求が出されるからだ。くそ、思い出して腹が立ってきたぞ。だからとにかく、こじつけでも、こういうことに役に立ちますよ、と書く。が、実際には単にわからないことがあるから研究しているだけだ。
その研究はいつか誰かが引用して役に立つかもしれないし、役に立たないかもしれない。それでも、目の前の課題に取り組むのが研究者だ。
南極は未知の宝庫、だから研究者は南極を目指す。
だが自分が南極を目指したきっかけはと言えば、そうした背景とは関係ない。話は学生時代にまで遡る。
心臓の音が聞こえる場所
「南極に行きたいなら、金持ちになるか南極観測隊になれ」と教えられたのは高校生のときだ。高校にOBが来て講演をした。南極観測隊だと言っていた。彼の話で、覚えているのは3つだけだ。
1つ目は「南極に行きたいなら、金持ちになるか南極観測隊になれ」ということ。
2つ目は「南極観測隊になるなら研究者になるのが簡単だ」ということ。
3つ目は「南極大陸では自分の心臓の音が聞こえる」ということ。
南極大陸を海岸から内陸へ上がって、ずっとずっと内側へと進んで、誰も生活しておらずどんな生き物もおらず、風も吹いてこないようになれば、あまりに静かすぎて己の心臓の音が、血管を血液が流れる音が、ついには聞こえてくるという。
この話は強く心に刻まれ、呪いのように浸透して、ずっとずっと、進路や意思決定のときの指針となった。
自分はおそらく一般的な「南極地域観測隊=プロフェッショナルの集団」という認識からは外れた存在である。機会と人に恵まれているだけで、何か優れた性質があるわけではない。優秀な研究者では、ない。
ただ心臓の話を聞いたときから、南極のほうを向いて、南極に行くための道を歩んできた。行きたかったから、行った。このような理由で南極に来るのは、20世紀初頭の我先にと探検をし続けてきた英雄時代では叶わなかっただろう。だが、英雄の時代は終わった。自分のように肉体的・頭脳的に優れるところなく、人づきあいがダーウィンよりも苦手で、勤勉から二百歩は遠い、取るに足らない平々凡々な人間でも、南極に行けるようになった。
本書は南極出発直前から約1年4ヶ月の南極生活の間に書いたブログ『この星を守るため~第59 次南極地域観測隊非公式ブログ~』を再構築して執筆、編纂したものである。南極滞在中、自分は主要基地である「昭和基地」、南極大陸沿岸部にある「S17観測拠点」、そして「内陸(南極大陸の内側)」と大きく3つの場所を移動し、観測を行った。自分が大気の研究
者であることから、ブログでは南極で行った大気の観測・研究について主に綴っており、時折、南極の日常などを織り交ぜて紹介している。本書でも同様に南極の日々を綴りつつ、南極観測までの道のりや研究者の資金面の話などにも触れる。
なお、この本のベースとなったブログはもともと、
・ 日常的に私的なブログ(主にゲーム関係)を書いていたので、定期的にものを書くことは嫌いではない。というより、何か出力していたほうが楽しい
・一般の人間が知らない南極について書けばある程度集客力がありそう
・ニッチな話を続けていれば話題になって書籍化などもありえて儲かるのではないか
・金が欲しい
・溢れるほど金が欲しい
といった理由でTwitter のアカウントなども作って始めた。実際に始めてみると、積極的に他者と交流を するわけでもなかったのでなかなかフォロワーも増えなかったが、南極を目指し女子高生4人が奮闘するというアニメ『宇宙よりも遠い場所』関係の記事からいくらかフォロワー数が増えた。我ながらつくづく運に恵まれた男だと思う。
その後、南極から戻ってみるとうまい具合に光文社が罠にかかったので、してやったりの次第である。しかし今改めて振り返ってみると、もっと儲ける方向で考えておけば良かった、と思わないでもないのだが(たとえばブログに広告を載せるだとか)、そうしたことを考え付かないのがお金持ちにはなれない所以だろう。この本の出版にしろ、光文社に騙されているのかもしれないし。
『南極で心臓の音は聞こえるか』本文公開 記事一覧
1.『宇宙よりも遠い場所』の展開予想を行った南極観測隊員の話が光文社新書に!
2.人間が地球を守る必要はない?『南極で心臓の音は聞こえるか』序文先行公開!
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4.「南極は暑い」って本当ですか?!南極大陸での観測活動
5.南極・昭和基地ってこんな感じです!鄙びたサロンとトイレ事情
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