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三島由紀夫が『潮騒』の成功と引き換えにあえて書かなかったことについて考える #8_2

三島由紀夫といえば、言わずと知れた昭和の大作家。華麗な文体、緻密な描写のイメージですが、この『潮騒』は何かがおかしい…? 前編ではこの小説の不自然さについて検証しましたが、後編で考えるのは、「足りないもの」について。三島由紀夫ははたして『潮騒』で何を書き、そして何を書かなかったのでしょうかーー。

前編はこちら

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その③ 初江が新治を好きになった理由が不明

新治がなぜ初江を好きになったのかは不明でしたが、同様に、初江がなぜ新治を好きになったのかもよく分かりません。

恋愛は視覚から入りますので、まずは新治の見かけについて三島がどのように描写しているか知っておきましょう。

(新治は)まだ十八である。背丈は高く、体つきも立派で、顔立ちの稚なさだけがその年齢に適っている。これ以上日焼けしようのない肌と、この島の人たちの特色をなす形のよい鼻と、ひびわれた唇を持っている。黒目がちな目はよく澄んでいたが、それは海を職場とする者の海からの賜物で、決して知的な澄み方ではなかった。彼の学校における成績はひどくわるかったのである。

肉体的な美しさに秀でていることは分かりますね。高身長で、筋肉質で、色黒で、鼻筋が通っていることも分かります。野性的なたくましさを感じさせる描写です。

ただし、知性には優れません。中学校もやっと出られたくらいで、成績もひどいものでした。「すこしも物を考えない少年」であり、「想像力が欠けて」もいました。さらに「無口」な男性でもあります。

社会的な条件もよくありません。貧乏であり、小さな家に母親と弟と住んでいます。彼自身は船を所有しているわけではなく、漁撈長・大山十吉の船で働く身で、非常に少ない年収が推察されます。農水省の統計によれば、現在の漁業従事者の平均年収は350万円程度ですから、それをかなり下回ることでしょう。漁船を所有する宮田家の初江とは社会的条件の面でバランスしないのです。

初江が二度目に新治に出会うのは、観的哨(かんてきしょう)あたりで道に迷ったときです。その際に何か特別なことがあったわけではありませんが、新治は「自分とここで出会ったこと」を他言しないでくれと頼み、初江は「言わない」と約束したので、2人の間に「秘密の共有」ができたことになります。「秘密の共有」には、精神的な距離を縮める効果がありますので、初江に新治を意識させる、つまり恋愛感情を醸成させるきっかけになったことは間違いありません。

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次に新治と会話をするのは、新治が給料袋を落としてしまい、それを初江が偶然拾って届ける場面です。そのとき、新治は初江と川本安夫が結婚するという噂を確かめようとたずねますが、初江は大笑いして否定します。胸を押さえながら笑い転げる初江に対し、新治は「だいじょうぶか」と初江の胸に手を当てるのです。

この場面で初江は、3回目に会った同世代の男性に急に胸を触られて拒否をしません。拒否しないどころか「押さえてもろたら、少し楽や」といって新治からの接触を受け入れているのです。さらに、2人の顔は接近してキスをします。

ちょっと待った、と言いたくなります。3回会っただけで、初江は新治に胸を触らせ、さらに続いてキスまでしてしまうのです。

いったい、初江にそうまでさせたものは何なのでしょうか? 作中の描写では「秘密の共有」以外に理由は見つかりませんでした。『蒲団』の回で「五感と恋愛」を解説したように、恋愛は視覚的な審査を経て、聴覚、嗅覚、触覚に続き、キスに関わる味覚に移行します。ところが、初江と新治のこの恋愛には手順がなく、いきなり乳房を触らせ、いきなりキスに至るのです。「浮気市場」ならば恋愛速度の速さに納得がいきますが、「恋愛市場」の観点からは、手順を踏んでいない分、不自然の感が否めません。

三島は、初江が処女であり新治も童貞であるからと言いたいのでしょうか。どんなに恋愛経験に乏しくても、恋愛の手順というのは自然とそれなりに理解しているものです。経験がなくても、教えられなくても、人間であるならば、ホモサピエンスが誕生した17万年前からずっと自然に行なってきたことなのです。

のちの描写に新治が「あんなことがどうしてできたかふしぎである」と苦悩する場面がありますが、小説中で「ふしぎ」などと開き直られては、私たち読者はたまったものではありません。不思議を言葉で表現するのが小説というものなのですから。

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その④ 初江の行動が性的に大胆すぎる

『潮騒』の中では、初江の年齢が特定されていません。16歳くらいであろうか、と推測する学者もいます。  大学生の千代子を恋の敵役として登場させていますので、おそらく16歳~18歳くらいでしょう。先述のとおり、男性経験がなく、処女であるという設定です。

問題なのは、こんな女性が性的にたいへん大胆なのです。『潮騒』の中でもっとも有名な場面は、雨の日の観的哨で2人が落ち合うでしょうが、繰り返しますと、待ち合わせ場所に先に到着した新治は居眠りしてしまい、その間に来た初江は、ずぶ濡れの衣服を焚火で乾かします(好きな女性とのデート前に居眠りしてしまうというのも現実的ではありません)。やがて新治は眠りから覚め、下着姿の初江を見つめます。初江は「目をあいちゃいかんぜ!」と言いますが、新治は目を閉じません。初江は後ずさりして、2人は炎をへだて向かいあいます。この場面は次のような会話が交わされます。(《》は引用者による補足)

《新治》「なんだって逃げるんじゃ」
《初江》「だって、恥ずかしいもの」
《新治》「どうしたら、恥ずかしくなるのやろ」
《初江》「汝(んの)も裸になれ、そしたら恥かしくなくなるだろ」
《新治》(ふんどしだけになった後に)「もう恥ずかしくないやろ」
《初江》「ううん」
《新治》「なぜや」
《初江》「まんだ汝は裸になっとらんもの」
《新治》「汝がそれをとったら、俺もとる」

このような会話ののち、2人は全裸になります。性体験がまったくない男女に、このような大胆な言動が成立するものなのでしょうか?

常識では考えられません。どこが不自然かといえば、初江の大胆さです。新治のほうは理解できます。性的な関係をもちたいと願うことは男性の性行動としては当然だからです。ところが初江のほうは過去に肉体関係を一度ももったことがない女子なのです。通常は、性経験がないなら、保守的に行動するのが私たちに組み込まれた遺伝子の行動規範です。しかし三島は初江に逆の行動をとらせているのです。あたかも性経験のない女性も性的に大胆なこともするものなのだと。

初江は下着姿になるだけでは満足しません。新治のふんどしも脱げと言い、お互いに全裸になります。ここからも不自然さはさらに続きます。新治が「初江!」と叫んで初江のほうに行こうとすると、その前に初江は「その火を飛び越して来い。その火を飛び越してきたら」と言うのです。恥ずかしそうに無言で立ちつくしていたなら分かります。この場面で、どうしてそんな危険な行為を新治を求めなければならないのか。せっかく2人が裸になって、肉体関係を結ぼうというときに、です。

文芸評論家によっては「浄化する火をくぐらせる」清めの儀式だったと解釈しているようですが、非現実的な行為であることに変わりはありません。 小説は現実との整合性がなければ、おとぎ話で終わってしまいます。

不自然な描写はさらに続きます。結婚前に肉体関係にはなりたくないという初江に対し、新治は実直にそれを受け入れます。当時の恋愛事情としては納得のいくことではあります(『伊豆の踊子』の回の図表3「婚前交渉への意識に関する調査」参照)が、そのかわりに2人は長い間キスをするのです。ここで三島は次のように書きます。

永い接吻は、充たされない若者を苦しめたが、ある瞬間から、この苦痛がふしぎな幸福感に転化したのである。

キスが幸福感に転換し、それだけで満足するでしょうか。通常はありえません。長い間キスをしたら、新治の性器は勃起して、次のステップである性行為を望むものです。キスとは性行為への準備の確認作業です。幸福感に包まれることもあるでしょうが、それ以上に性欲が勝ってしまうのが男性の肉体的な構造になっているものなのです。

このシーンにおける三島の描写は、通常ではありえないことだらけなのです。

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その⑤ どうやって初江が処女と判断できたのか

5番目は、初江が処女であるとどうやって判別したかです。三島は初江が処女であることを強調しています。一度目は、観的哨において2人が全裸になるシーンです。

新治が女をたくさん知っている若者だったら、嵐にかこまれた廃墟のなかで、焚火の炎のむこうに立っている初江の裸が、まぎれもない処女の体だということを見抜いたであろう。決して色白とはいえない肌は、潮にたえず洗われて滑らかに引締り、お互いにはにかんでいるかのように心もち顔を背け合った一双の固い小さな乳房は、永い潜水にも耐える広やかな胸の上に、薔薇いろの一層の蕾をもちあげていた。

以上のように「処女」の体型を描いています。さらに、先ほども引用した海女の間で乳房を見せ合うシーンがあります。そこでは海女たちが初江の乳房を検分します。

初江の乳房を見ると、彼女と新治に関する悪い噂が時と共に消えたのが肯かれる。この乳房を見た女はもう疑うことができない。それは決して男を知った乳房ではなく、まだやっと綻びかけたばかりで、それが一たん花をひらいたらどんなに美しかろうと思われる胸なのである。

この処女への礼賛は川端の『伊豆の踊子』でも見られました。そのときにも述べましたが、処女かどうかは視覚で判断できるものではありません。「男を知った乳房」であるかを見た目で識別できるというのは、明らかに三島(および川端)の誤解であり、幻想です。肉体関係を一度や二度経験しただけで、乳房の形が極端に変化することはないからです。

たしかに、乳房の形は変化しますが、それは年を重ねるに伴ってのこと。加齢とともに、乳房にハリがなくなり、垂れてきて、乳首の色が変化することはあります。しかし、性行為の最中に男性が乳房を揉んでも、突然外見からわかるほどには変化はしないのです。

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『潮騒』の恋愛描写について仮説を立ててみる

それでは、なぜ三島は恋愛のプロセスを極端に省略したり、メルヘンチックな恋愛描写をしたりしたのでしょうか?

真っ先に考えが及ぶのは、三島には同性愛者の一面があり、女性の恋愛感情に対してそれほど理解が及ばなかったという点です。たとえば奥野健男は、三島は「ギリシャ的な美少年に感じる官能を、美少女の肉体(初江)に翻訳して表現した」から、「薄っぺらな人工美しか感じさせない」「新治と初江の愛も性も何かきれいごとで実感がない」と書いています。 

しかし私はこの立場はとりません。新治には三島が理想としたであろう男性の肉体美を新治を通じて描いていますが、初江のそれはあくまでも女性の描写として成立しています。それ自体になんら違和感はありません。違和感は、描写が少ないところにあるのです。

私が疑問に思った5つの不自然さは、もっと別のところに答えは存在すると考えたほうがよさそうです。そこで、以下にふたつの仮説を提示したいと思います。ひとつは、『潮騒』は脚本として書いたという説、もうひとつは『潮騒』は子ども向けに書いたとする説です。

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仮説その① 『潮騒』は映像化のための脚本である

『潮騒』はたしかに恋愛小説ですが、どちらかといえば、小説ふう脚本だと思うのです。もっと現代的にいえば、映画あるいはテレビドラマの脚本ということです。映像にするための設計図としてこの小説が書かれたと理解すると、様々な疑問がとたんにしっくり理解できるのです。

その根拠となるのは、『潮騒』全体が三島の解説調になっている点です。前回に『伊豆の踊子』を「説かず、描かず」の極致の小説と述べましたが、その対極にあるのがこの『潮騒』。新治なり初江なりの登場人物を読者に解説しながら、物語が進行しています。しかも物語に三島自身の感想なり私情もはさんで、という形をもってです。

この点は冒頭を読み直すとすぐにわかります。二行目で、「歌島に眺めのもっとも美しい場所が二つある。」(太字は引用者)と解説しています。作者が自ら「美しい場所」と感想を述べて規定しまっているのです。本来、小説とは、美しいか美しくないかは読者が決めるもので、読者が読んだ結果、「歌島には美しい場所が2つある」と思わせるのが本来の描写のあるべき姿です。ところが、『潮騒』では最初から最後まで、三島がすべてのストーリーを描き、感情移入しながら、ときには三島の世界観・倫理観を押しつけるように書いてしまっているのです。

このような私情を交えた解説はいたるところに見られます。たとえば、「(新治)はまだ十八である。」「(安夫は)まだ十九歳だ」「決して退屈しているとは見えず」「その老いの裸はさすがに見事である」「薄い眉は小狡さうである」(すべて太字は引用者)という具合です。このような解説は、純文学のジャンルには入りません。むしろ脚本であり、台本と言うべきものでしょう。

脚本には主に場所や時間を示す「柱」、登場人物の行動や心理を書き込む「ト書き」、役者が発声する「セリフ」の3つがありますが、この『潮騒』も同じように成り立っていると解釈できます。ただし小説形式のため、「柱」と「ト書き」がやたら長いという特徴がありますが、これは映像にする場合には必要となるものだからです。

こうして映画化やテレビ化を念頭に入れて書かれたのが『潮騒』であると解釈すると、なぜ新治と初江の見かけの描写について少ないのかは、映画というビジュアルで表現すれば、描写しなくても観ている方は理解できるからだと納得できます。俳優や女優を起用すれば、言葉をもって外見を描写する必要はまったくありません。観客のほうは俳優なり女優をみて「男らしい」「かわいい」などと見かけの判断することができるからです。

なぜ新治と初江が恋する心理のプロセスを描かなかったのか? こちらも合点がいきます。映画は通常90分~120分くらいで収まるものですが、その短い尺の中でいちいち恋愛の手順を描写していくと脚本が長くなってしまうからです。それよりも全体の話の流れである「ストーリー」を重視して描写する方が理にかなっています。

この仮説を裏づける傍証としては、実際に『潮騒』の出版から間もないタイミングで映画化されている点です。最初に映画化されたのは1954年11月20日封切のもので、小説が出版されたのは同年6月10日のことですから、出版後わずか4ヵ月後です。通常、映画の制作には一年くらいはかかるものでしょうから、当然、出版前に映画化の話が並行して進んでいたということになります。もしかすると、映画化を念頭において小説にも手が加わったと邪推もできるくらいの封切りの早さです。

事実、三島の述懐として監督たちと「シナリオを徹底的に検討した」とありますので、小説と映画の同時進行の時期があったことが分かります。 三島自身はこの映画の出来栄えをたいへん気に入っていて、実際にロケ現場を訪れたりもしました。 また映画を最初に観た際には「シナリオが徹底的に理詰めにできているのが、あの映画の成功の一因であると思った」と自画自賛していますから、この映画化が『潮騒』の執筆動機のひとつであったことが推測できます。

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仮説その② 『潮騒』はジュニア向けの小説である

もうひとつの視点は、『潮騒』がまだ恋愛経験のない子ども向けに書かれた小説ではないかということです。詩人の嶋岡晨の言葉を借りれば、「三島由紀夫唯一の〈ジュニア小説〉」という見方です。 

作品中、新治の初恋の描写や性的な表現は控えめであり、2人の恋愛表現はキスまでに留まっています。結婚前に性行為をさせない点や、裸の場面はあってもエロスのにおいは一切しない点も、ジュニア向けに書かれたとする根拠です。

上記の嶋岡は、文壇における師である川端の『伊豆の踊子』の成功が、三島の『潮騒』を書く動機だったと解釈しています。嶋岡は「川端の作品のなかで、いつまでもひろく若い層に読みつがれ、唯一の、大衆にむかえられた純文学作品が『伊豆の踊子』である。この清潔でほとんど夢のような、美しい哀傷にひたされた青春の記の文学的成功は、(略)三島にとって…羨望の的であったのではないか」と述べています。

たしかに『伊豆の踊子』にも共通する主題が描かれています。『伊豆の踊子』の「私」は20歳で踊子は14歳。一方の新治は18歳で、初江は年齢が明かされていないものの20歳は超えていないはず。年齢的に近く、両者ともに純愛をテーマにしていて、エロスを不自然なまでに描かず、主人公の男女の肉体関係はありません。女性の処女を賛美しているところも共通しています。

そもそも三島にとって川端とは、新人作家として自分を発掘してくれた存在です。年齢は26歳差ですが、三島が自決した後の弔辞で川端が「年少の無二の師友」と述べたことはよく知られています。ですから、三島は『伊豆の踊子』を意識し、同じような成功を願ったと推測しても間違いではないはずです。

したがって、川端の『伊豆の踊り子』に類似した作品としての『潮騒』を、まだ恋愛経験がほとんどない若者に向けて書き上げたという解釈も成立すると思うのです。

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第8回のまとめ

この連載初回の『こころ』から『伊豆の踊り子』まで、恋愛学を通じて私たちの現実の恋愛に役立つよう解説を加えることを目的としてきました。いわば文豪の恋愛小説を、ツールとして私たちの恋愛に応用し役立てようとしてきたのです。ところが、『潮騒』は恋愛学の知見では「割り切る」ことができませんでした。そこで、『潮騒』の恋愛描写に焦点をあて、現実の恋愛との整合性がとれない5つのポイントに絞って検討しました。

加えてなぜ三島が不自然と思われる恋愛描写をしたのか、2つの仮説を提示してみました。つまり、もし『潮騒』がジュニア向けであり、映画化を念頭において書かれたものであると考えるならば、完成度について納得のいく作品であったと言えます。

この前提に立つならば、三島としては、『潮騒』の興行的な成功は満足のいくものであったでしょう。現在までに5回も映画化され、テレビドラマにもアニメにもなりました。大衆の喝采を浴びることができたのです。また前述のとおり新潮社文学賞を受賞し、英語等にも翻訳され国境を超えた日本の文学作品となりました。『潮騒』を書くにあたっての三島本来の目的は達成されたと考えるのですが、いかがでしょうか。次回読むときの参考になれれば幸いです。


バックナンバーはこちら↓

第1回 夏目漱石『こころ』前編
第1回 夏目漱石『こころ』後編
第2回 森鷗外『舞姫』前編
第2回 森鷗外『舞姫』後編
第3回 武者小路実篤『友情』前編
第3回 武者小路実篤『友情』後編
第4回 田山花袋『蒲団』前編
第4回 田山花袋『蒲団』後編
第5回 太宰治『斜陽』前編
第5回 太宰治『斜陽』後編
第6回 谷崎潤一郎『痴人の愛』前編
第6回 谷崎潤一郎『痴人の愛』後編
第7回 川端康成『伊豆の踊子』前編
第7回 川端康成『伊豆の踊子』後編
第8回 三島由紀夫『潮騒』前編

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