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『風立ちぬ』が示す4つの視点から、幸せな夫婦のあり方について考える #9_2

宮崎駿監督が映画『風立ちぬ』の着想を得たことでも知られる、堀辰雄の不朽の名作『風立ちぬ』。長らく生と死の意味を問う小説として知られてきましたが、実は「結婚」という視点に着目すると、作品の新しい魅力が浮き彫りになるものでした。後編では、『風立ちぬ』が示唆する「幸せな夫婦」のあり方について考察していきます。

前編はこちら

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その① 夫婦関係が長期的でないこと

『風立ちぬ』の場合、2人の関係は短期的なものでした。最初に出会った1933年夏から節子が亡くなる1935年12月までですので、だいたい2年半という期間です。恋愛バブルはピークを迎え、幸福感が逓減することもありませんでした。節子の死が目前に迫っていることを知っている「私」は、彼女が生きている間、全力で愛そうとします。後悔することのないように、できる限り「幸福」でいようと努めたわけです。

『風立ちぬ』においては、まずこの期間が短かったという事実を明確にしておきたいと思います。もし2人の関係が長かったら、言い換えると恋愛バブルがはじけた後だったら、このような幸福な関係をずっと維持できたかは疑問です。

この点は、現代の夫婦が直面している切実な問題です。日本人の結婚生活が必ずしも幸福でない最大の理由であるかもしれません。

なにしろ結婚後の夫婦生活がたいへん長いのです。現在は人生100年計画と言われている時代であり、平均寿命は男女ともに80歳を超える世界有数の長寿国になっています。平均初婚年齢はだいたい30歳くらいですから、50年以上も1人の配偶者をずっと愛さなければならないことになります。恋愛感情が数年程度しか続かない前提に立てば、愛情が伴わない夫婦関係を非常に長い間維持しなければならないわけです。結婚当初は幸福に感じたとしても、20年後、40年後も同じように幸福でいられるかはたいへん難しいと言わざるをえません。

歴史的に申し上げると、そもそも私たちの祖先の寿命は、明治時代を迎えるまでは長い間40歳未満でしたので、夫婦関係の維持はそれほど難しくはありませんでした。 厳しい環境下で食料不足が生じやすく、また医学の未発達のために幼児死亡率が非常に高かったために、平均寿命がこれほどまでに短かったのです。恋愛に関していえば、夫婦関係が成立してから10~15年くらいでその関係が終わっていたということです。したがって私たちの祖先は「この人と関係を持って、恋愛が長続きするのか」とか、「老後も一緒にやっていけるのか」などと考える必要がなかったのです。

その後、寿命は徐々に延びてゆきます。戦国時代の織田信長は「人間五十年、下天のうちを比ぶれば、夢幻の如くなり。ひとたび生を得て滅せぬもののあるべきか」と好んで謡ったと言われていますが、これは16世紀に平均寿命が50歳だったというわけではなく、むしろ50歳まで生きる人は例外的長寿でした。

戦後まもない1947年の時点で、ようやく男性の平均寿命は50歳、女性は54歳になります。その後、高度経済成長期を経た日本人の食生活が豊かになり、健康への意識の向上、医療の充実などにより、平均寿命は急速に伸びていきました。それに伴い、夫婦間の「幸福」な関係を維持するには、ますます不断の努力が必要になってきたわけです。

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その② 愛する気持ちを「五感」で伝えること

夫婦の幸福を醸成する2番めの方法は、「五感」を使ってお互いの愛情を表現することです。「私」と節子はこれをなんの照れもなく実行しています。

この連載を通じて、恋愛の手順としては「五感」があると幾度も申し上げてきました。最初に「視覚」があって、次に「聴覚」「嗅覚」「触覚」、そしてキスである「味覚」といったように、恋愛感情が高まるにしたがって、「視覚」から「味覚」へと愛情表現も豊かになっていきます。

「幸福」な夫婦関係には、この愛情表現が不可欠です。肉眼で見る、会話をする、至近距離にいてにおいを嗅ぐ、身体に触れる、キスをするという5つをしている状態が、恋愛が満たされている状態です。

「私」と節子の関係もまさしくこの5つの感覚の交換が十分に行なわれています。図表2をご覧ください。『風立ちぬ』の中にある五感に関する描写を拾ってみました。

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図表2 『風立ちぬ』における五感の描写

「視覚」的には、つねに2人は一緒にいて互いを「見て」います。しばしば見つめ合っているときもありますし、常に微笑んでもいます。「聴覚」的にも相手に自分の愛する気持ちを伝えています。私がいまある幸せはあなたのおかげである、というメッセ―ジをお互い与え合っており、それを照れることなくきちんと言語化されることが重要なのです。

「嗅覚」的にも、2人の相性のよさが伝わってきます。なにしろ「好い匂いのする存在」なのですから。「触覚」「味覚」的にも2人は緊密です。お互いの手をとりあったり、肩を寄せ合ったりしていますので、つねに身体のどこかを触れ合っています。またキスもことあるごとにしています。相手のことがどれだけ好きかを、身体を使って表現しているのです。

たとえば「今日はなんだか見知らない薔薇色の少女みたいだよ」というように、相手を褒めることは大事なポイントです。「私のそばから離さない」ことも、「いきなりお前の手をとる」や「額にそっと接吻」することも重要です。結婚生活が長くなってくると、徐々にキスをする回数が減り、セックスレスになり、手をつなぐことも体臭を嗅ぎ合うこともなくなり、会話も減少していきます。さらには笑顔を交わすことも減っていきます。ですから、「私」と節子のように、五感的に愛情を表現することは、夫婦関係の継続のためには極めて重要なのです。

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その③ 与え合う「補完的関係」を構築すること

3つめは、お互いが与え合い、補完し合うことが不可欠である点です。

『風立ちぬ』の中の2人の関係は与え合う関係です。愛し合い、与え合い、精神的に支え合っています。「私達はお互に相手の気持ちをいたわり合う」とありますので、2人の精神的な交換がスムーズに行なわれていることがうかがえます。

『風立ちぬ』で目を引くのは、「私」が自分が節子に与えている質量に満足していない点です。それは「私」の次の言葉に端的に表れています。

「おれは何んだかいまのような生活がおれの気まぐれなのじゃないかと思ったんだ。そんなものをいかにも大事なもののようにこうやってお前に……」

「私」は一緒にサナトリウムに住んでいるし、節子に限りなく与えているのですが、自分ではまだ足らないと感じているのです。ものすごく深い愛ではありませんか。

節子の方も「私」からもらっているばかりではありません。できる限りの努力をしています。たとえば第4章「冬」の中では、節子が病気でありながら、「私」の帰りを外に出て待っている描写があります。病弱な節子も「私」に何を与えられるのか、常に考えている様子が浮かび上がってきます。

このように、幸福な関係には与え合うこと、つまり相互補完がもっとも重要であるのです。この場合、「与え合う」ものは、同じものの「重複」ではなく、足りないものを補い合う「補完」が最適でしょう。自分にないものを相手からもらい、自分の持つものを相手に与えてシナジー効果を期待するのが夫婦間の理想とすべき関係です。「いろいろあっても、この人がいないと結婚生活が成り立たない」という関係を構築できれば、2人は楽しく一緒にいられるもの。「おしどり夫婦」と呼ばれる人たちは、きっとそんな関係が築けているのだと思うのです。堀の言葉で表現すると、「一生の間をどれだけお互に幸福にさせ合えるか?」ということです。

相互補完は双方向であることとともに、同じくらいの質量の交換が行なわれることが理想です。もし一方にメリットがたくさん存在して、他方には少なかったら、少ない方は不満に思うことでしょう。徐々に距離をおき、最終的には与えることを止めてしまいます。メリットが2人にとって大きく、お互いがいないと存在しえないような関係になると理想的な「幸福」状態となることができます。

いかに相手から「奪えるか」ではありません。それは「愛」ではありません。相手を愛するとは相手にいかに「与えるか」です。たとえば年収を増加させるでも、料理のレパートリーを広げるでも、健康の知識を増やすでもなんでも構いません。愛の基本は相手が欲しているものを「与える」ことです。

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その④ 減点制から加点制へ変換すること

4つめの秘訣は「加点制度」の導入です。

通常、夫婦関係が長くなると、相手への期待値が上がり、評価は「減点制度」になってゆくものです。食事を毎日作ってくれる、汚い衣服は洗濯かごに入れれば洗ってくれる、部屋はいつもかたづいているといったことから、給料は月に一度かならず振り込まれる、遅くまで家族のために残業をする、一年に一度は2人で旅行するといったことまでが日常化すると、相手に対しての感謝の気持ちは薄れてゆくものです。

夫婦関係を良好なものとして維持するためには、この期待値が上がってしまうことを避けなければなりません。

 この点、『風立ちぬ』での顕著なのは「加点制度」になっている点です。「死」を目前にしていますから、「生」で得られるものは、すべて加点として考えています。「死」はゼロですから、その対極にある「生」は加点なのです。堀の言葉を用いれば「普通の人々がもう行き止まりだと信じているところから始まって」いるからこそ、すべてがプラスに転じます。たとえば、2人は普段見慣れている自然の美しさにまで感動しています。もう見られないと思えば、自然の美しさはプラス=加点なのです。

また相手が自分にしてくれることはすべてが感謝の対象です。このようなゼロスタートの立場からすれば、「私」にとって節子といるすべての時間は加点の対象であり、「私達の日常生活のどんな些細なものまで、その一つ一つがいままでとは全然異った魅力を持ち出」します。

一方、節子も「こうやってあなたのお側にいさえすれば、私はそれで好いの」と「私」と同じように謙虚ですので、考え方の基本は加点になっています。幸福な夫婦関係でいるためには、陥りがちな「減点制度」から、一度リセットして「加点制度」へ変換することが重要なのです。

たとえば、夫にとっては、妻が朝ごはんをつくってくれたら加点になります。加点ですから、すんなりと「ありがとう」の言葉が出てきます。その反対に「自分は働きに出るのだから、朝ごはんをつくるのは当然」と思えば、加点ゼロ。おいしくない料理をつくった場合には減点になってしまいます。

妻にとっては、残業をしてまで稼いでくれる夫は加点です。残業して夜遅く帰ってくるから減点では、一生懸命働く夫が可哀そうです。残業してまで稼いで経済的資源を供給しようとする夫は、仕事の疲れと妻からの減点のダブルパンチで立ち直ることができません。

ですから、幸福な夫婦関係を維持するためには、朝起きたら相手への期待をリセットし、ゼロから始めましょう。毎日、相手への期待をゼロにすれば、相手から提供されるすべての素敵な行為は、幸福につながってゆくのです。

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「愛し合う」とは?

最後に、夫婦で愛し合うとはどういう状態なのかを理論的に考えてみましょう。誰もが愛する人と相思相愛でいたいものですが、そうした状態はどうすれば可能なのか、指針を示したいと思います。

記号を使って説明します。まず「夫→妻」を「夫は妻を愛する」とします。そうすると、夫婦ですから

 ・ 夫→妻
 ・ 妻→夫

がまず夫婦関係の基本になります。ただ、これはお互いを愛している状態ではありません。「夫が妻を愛している」、「妻が夫を愛している」の2つの想いが併存している状態であるだけです。自分は相手のことを愛しているのは分かっているが、相手がどう思っているかは分かりません。

人間の相思相愛のためには、お互いがお互いを愛していることを確認している状態が必要です。つまり、

 ・ 夫は「妻→夫」を知っている。
 ・ 妻は「夫→妻」を知っている。


という2つが存在してはじめて、相思相愛の状態であると言えます。つまり「私はあなたが私を愛していることを知っている」「あなたも私があなたを愛していることを知っている」の両方が成立していることが相思相愛の必要十分条件なのです。

『風立ちぬ』の中でも、言葉や行動によってお互いの愛を確認しあっていますから、「私」も節子も、相手が自分を愛していることを知っている状態になっています。そうであるからこそ、

「何を考えているの?」
「お前には分かっているだろう?」

という会話が成り立つのです。言葉にしなくても相手がなにを考えているのか、相思相愛であるならば理解できるのです。

お互いが愛し合っているからといって、その事実を言葉で確認する必要がないと言っているのではありません。恋愛感情というのはうつろうものですから、「大好きだよ」「愛しているよ」を言葉にしてお互いに伝えることが不可欠です。「私はあなたが私を愛していることを知っている」とは思っていますが、これを言葉によって補強してもらえるとうれしいものなのです。

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第9回のまとめ

「まとめ」として強調しておきたい点は、幸福な夫婦関係のためには、幸福を創出する努力が大切であることです。幸せは一つではありません。いくつでも創出可能です。

幸福の種を蒔いて、花を咲かせること。幸せな人生とはこれに尽きていると思います。種を蒔くことなく過ごす守りの人生だったら、平穏に何事も起こらない1日が過ぎていくことを願うだけになります。守りの姿勢は、不幸にならない生き方をしているにすぎません。

新しい幸福を創出できれば、いまある幸福が消え去っても新しい幸福で補えることになります。幸福に向かって不断の努力をすることで夫婦関係はステップアップしてゆくものです。

夫婦関係に行き詰まったらぜひ『風立ちぬ』に立ち返って考えてみてください。幸福へのヒントが必ず隠されているはずです。



【編集部より】「恋愛学で読みとく『文豪の恋』」は今回で完結となりますす。ご愛読ありがとうございました。この連載を1冊にまとめたものが2020年秋に発売予定です。どうかお楽しみに!

バックナンバーはこちら↓

第1回 夏目漱石『こころ』前編
第1回 夏目漱石『こころ』後編
第2回 森鷗外『舞姫』前編
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第8回 三島由紀夫『潮騒』前編
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第9回 堀辰雄『風立ちぬ』前編


【お知らせ】この連載が光文社新書として9月17日(電子版は9月25日)に発売されます! 村上春樹『ノルウェイの森』編が書き下ろしとして新たに加わっていますので、お見逃しなく!


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