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堀辰雄『風立ちぬ』 は夫婦間の幸福を描ききった小説として再評価されるべきだ #9_1

さて、この連載もいよいよ最終回です。最後は、堀辰雄『風立ちぬ』を採り上げたいと思います。

これはいままで解説してきたどの作品とも似ていない、特異な恋愛小説です。何が特異かというと、恋愛というよりも「結婚」に重きをおいた内容だからです。

この作品で問われているのは、夫婦間における「愛」と「幸福」です。読者のみなさんが結婚されているならば、この2つがどれだけもろく貴重なものかご理解いただけると思いますが、そんな「愛」や「幸福」を考える今回のよりどころは、「結婚学」になります。私は「恋愛学」「結婚学」「不倫学」という3つのジャンルを構築し、科学的な知見をもとに分析することを仕事にしています。連載の過去8回は「恋愛学」あるいは「不倫学」からでしたが、今回は視点を変えて考察します。

「結婚学」とは、結婚に関わるメカニズムを解明しようとする学問です。結婚市場とはどのようなしくみで成り立っているのか、結婚生活とはどういうものであるか、離婚とはどのような経緯で至ってしまうのか、幸福な結婚を維持するために何をしなければならないのか等々を研究します。

この『風立ちぬ』は、夫婦のあり方や夫婦の幸せを描いたものの中では随一の傑作と言ってよい小説です。相手を愛するとはどういうことなのか、「幸せな結婚」をするためにはどうしたらいいかについて、有益な知見にあふれています。これから結婚する人や、現在結婚生活に悩んでいる人にとくに推薦したい小説です。

ただし、難解な箇所が散見されます。多分に詩的であり、5W1H、つまりWho(だれが)、When(いつ)、Where(どこで)、What(なにを)、Why(なぜ)、How(どのように)が明確にされていないので、しっかり読まないと理解できない作品になっています。

必要な情報を随時補足しながら「あらすじ」をまとめましたので、まずは小説の全体の流れを把握していただけたらと思います。

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あらすじ

『風立ちぬ』は、「序曲」「春」「風立ちぬ」「冬」「死のかげの谷」の5章から成り立っています。

「序曲」は、秋近くのある日のできごとから始まります。主人公は「私」と「節子」の2人。「私」は小説家であり、堀辰雄本人と目されます。つまり「私小説」を思わせる作品ということになります。 

2人は、1933年の夏に軽井沢で「偶然に」出会った仲です。この日、「私」は絵を描いている節子と白樺の木陰で語り合っていると、どこからともなく風が吹いてきます。「私」はふと、20世紀のフランスの詩人・小説家であるポール・ヴァレリーの詩の一節「風立ちぬ、いざ生きめやも」が口をついて出てきます。

2、3日後、節子は迎えにきた父親と帰京しました。「私」は自分の仕事の見通しがついたら、節子と結婚することを約束します。

第2章「春」は1年半後の3月。「私」は節子と父が住む家を訪れます。「私」と節子はすでに婚約していますが、節子は結核の治療としてF(富士見高原)のサナトリウム(結核専用の療養所)に転地療養に行くことになります。「私」が療養先の院長の知り合いということもあり、節子に付き添ってサナトリウムで生活するほうがよかろうということになりました。

節子の病気は一進一退でした。しかし、「私」と婚約したことで生きる気力と希望が湧いてきた節子は、「私達、これから本当に生きられるだけ生きましょうね」と静かに決意します。4月下旬、実家を離れて節子と「私」はサナトリウムに向かいます。

第3章の「風立ちぬ」。節子は病棟2階の第一号室に入院し、「私」は付添人の隣室に寝泊まりすることにしました。院長から節子の病状は「病院中でも2番目くらいに重症」だと告げられました。節子は安静を命じられて寝たきりです。とはいえ「私」は限られた時間の中で節子といられる幸福を感じます。

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夏が終わり秋になりました。病院の中で最も重症だった17号室の患者が亡くなります。さらに一週間後には別の神経衰弱の患者が林の中で縊死します。節子が2番目に重症と言われていた「私」は、「思わずほっとするような気持ち」になりました。

「私」は節子に2人のことを小説にしたいと言いました。「おれ達がこうしてお互に与え合っているこの幸福、皆がもう行き止まりだと思っているところから始まっているようなこの生の愉しさ」を小説という形で残したいと告げました。2人は自分たちが幸福であることを確認しあいます。

第4章は「冬」。ここから日付が入り、1935年10月20日から始まる日記形式になります。「私」は節子の世話をしたり、小説の構想を考えたりする日々でしたが、主題を節子と「私」との「生の幸福」と定めました。2人の幸福について考えて、手帳の日記をしたためます。

節子の病状は悪化し、徐々に気弱になっていきます。「なんだか(家に)帰りたくなっちゃったわ」とさえ言うようになりました。

最終章の「死のかげの谷」。日付は1年後の1936年12月1日、「私」は節子と出会ったK村(軽井沢)で小屋を借りますが、すでに節子は亡くなった後の話です。その小屋で1年ぶりに手帳を開き、節子との思い出を追想しようとします。教会に行ったりリルケの『レクイエム』を読んだりします。思い出を振り返る中で、節子との日々がどれだけ幸せなものだったか、そして自分がどれだけ節子の愛によって生かされてきたのかを理解するのでした。

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堀辰雄と『風立ちぬ』

堀辰雄は、1904年の東京生まれ。戦後に48歳で亡くなっています。1925年に東京帝国大学文学部に入学し、同人誌を立ち上げ精力的に小説を執筆するようになりましたが、肋膜炎の発症など病気がちで休学をしたため、卒業したのは1929年、25歳のときのことでした。 

著名な作品としては『聖家族』『菜穂子』『美しい村』などがありますが、恋愛や結婚の観点からは、この『風立ちぬ』がいちばん秀逸です。2013年のジブリ映画『風立ちぬ』もこの作品から着想を得たとされています。

『風立ちぬ』は章ごとに出版された小説で、「序曲」と「風立ちぬ」は1935年、最後の章である「死のかげの谷」は1938年に発表されています。完成までに3年を費やした作品でした。 

なお、節子にはモデルが実在し、本名を矢野綾子といいました。彼女と堀辰雄は1933年夏に軽井沢で知り合い恋に落ちていますが、実はその出会いについては別の作品である『美しい村』の「夏」の章以降に書かれています。ですから、実は『美しい村』を読まないと『風立ちぬ』が十分に理解できないという構造にもなっています。

『美しい村』における出会いの場面を要約すると、29歳の「私」が、軽井沢で油絵を描く綾子を思わせる「少女」と出会います。2人の距離がしだいに縮まっていくにつれ、会話を交わしたり、一緒に散策するようになったりもします。軽井沢滞在中に、2人の間に恋愛感情がしっかり根づいていった様子が描かれています。

現実の堀辰雄は、1934年9月に綾子と婚約します。しかし、綾子は胸の病状を悪化させて翌年の7月にサナトリウムに入院し、その年の12月6日に他界してしまいます。『風立ちぬ』は、この1933年~1935年までの2人の関係にヒントを得た作品であり、綾子への鎮魂歌(レクイエム)であり、悲歌(エレジー)でした。

この点に、当時の若者にこの小説が支持された理由のひとつがあると考えられます。『風立ちぬ』が完成した1938年は、まさに第二次世界大戦(1939年~1945年)の影が忍び寄っていた時期であり、この作品の「死」や「離別」といったテーマは切実なものであったからです。

なお、小説内に出てくる「風立ちぬ、いざ行きめやも」とは、ヴァレリーの詩集『海辺の墓地』の一節を堀が意訳したもので、「風が吹いた。さあもっと生きようか」といったような意味です。

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『風立ちぬ』における最頻出語

この作品を理解するにあたって、まず小説の中でどのような言葉が多用されているか、数量分析をしてみました。どの語がどれくらい使われているかで、堀辰雄が何を強調したかが理解できると思ったからです。その結果が図表1になります。

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図表1 『風立ちぬ』で頻出する抽象語

「幸福・幸せ」が37回でもっとも多く、続いて「死」35回、「生・生きる」29回、「夢」23回となっています。回数はずっと減りますが、「消(える)」が15回、「失(う)」「悲しい・悲しみ」が10回ずつ、「寂(しい)」8回、「人生」8回、「愛・恋」が7回となっています。

なお、「私」と節子の未来につながる言葉である未来・将来・希望といった言葉は一度も使われていません。これは節子との関係が過去と現在のみであり、未来にはないことを示しています。節子の「死」が必然である以上、「悲しみ」や「寂しさ」が多く使われていることも自然です。また、サブリミナル効果としてか、「消(える)」「失(う)」という言葉が小説中にちりばめられていることも目を引きます。

唯一、未来を暗示する言葉として「夢」がありますが、作中ではあくまでも実現が難しい「夢」としてとらえられていて、決して「希望」につながるイメージでは存在していません。

したがって、描写の頻度という観点からは、『風立ちぬ』のメインテーマは、「人生」における「生」と「死」をどう見つめるか、「生」が続く間のつかの間の「幸福」とは何かいうことになります。不可避な「死」があるからこそ「生」が生き生きとしてくるのであり、『風立ちぬ』の場合は、その「生」の中心に節子との「幸福」が存在するということになります。いつ終わるとも知れない2人の時間をいかに幸福に生き、実感できるかこそが、堀辰雄が描きたかった主題だったわけです。

たしかに、作品中には節子への愛情が溢れています。しかしその愛情は静かな激しさなのです。恋愛バブルは通常、情熱的なのものですが、「死」という厳然たる恐怖を受け入れたうえで、いかに節子と一緒に幸福な時間を共有し続けることができるかが丁寧に描かれているわけです。どれだけ節子を愛し愛されることができるのか自問自答しながら、小説内の時間は静かに流れてゆきます。

なお、抽象的ではありませんが、最頻出語は「雪」で、55回も使われています。タイトルの「風」は、実は27回しか出てきません。雪は「白」であり、色彩的に「死」=黒の対極にある存在として象徴的な意味を持っていることを追記しておきます。

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夫婦における「幸福」について

厳密にいえば、「私」と節子の2人は結婚に至っていませんので、この作品で描写されているのは婚約についてです。ただし、サナトリウムでは一緒に暮らしていましたので、2人の関係は夫婦とほぼ同じであると言ってよいでしょう。したがってこの作品で参考になるのは、どのようにしたら「私」と節子のように、夫婦間で「愛し合う」ことができ、「幸福」な関係を築けるかという点になります。

これは、たいへん難しいテーマです。結婚している人ならば、肯いてくれるはずでしょうが、そもそも「愛し合う」ことが難しいし、「幸福な関係」を維持していくことはさらにたいへんです。

以下では、この「私」と節子のように

夫婦の幸福な関係をどのように維持できるか?

をテーマにして、深く考えていきたいと思います。

なにしろ、『風立ちぬ』の中で「幸福」とは最頻出語なわけですから、このテーマを考えることはこの小説を理解することにつながります。とくに、重要なのは「私」と節子のような男女のあり方であり、さらには「幸福な夫婦関係」の築き方となります。そのためには、まず

夫婦における「幸福」とは何か?

について、十分に理解していただくことが先決になります。

私たちは、「幸福」「幸せ」という言葉を頻繁に目にしますが、それが何を意味しているのか分かって使っている人はほとんどいません。よく女性誌が「結婚して幸せになる」と書きたてたり、プロポーズ前の男性が女性に「君を幸せにする」などと言ったりしますが、それはことばのあや、方便というものです。「幸せ」は、簡単に手に入り、維持できるものではないのです。 

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「幸福」とは何か?

では「幸福」とはそもそも何なのでしょうか? 「幸福」をしっかり定義すると、

「幸福」とは、ある結果または状態が自分の期待以上のときに生じるもの

となります。

他方、幸福の反対には不幸があり、「不幸」とは「ある結果または状態が自分の期待以下のときに生じるもの」となります。

みなさんにもいままでの人生で幾度となく「幸福な瞬間」や「不幸な瞬間」が訪れたはずです。前者の例では、運動会で一等賞をとった、学校の先生に褒められた、告白して成功した、志望していた大学に合格した、など。その反対に「不幸な瞬間」は、たとえば先生に怒られた、好きな人にフラれた、受験に失敗した、仕事でしくじった、など…があったに違いありません。

なぜ幸福と感じたり不幸と感じたりするのかは、上記の「期待」で説明できるのです。幸福ないし不幸は、現在の自分がいて、将来起こりうる事象、現在起こっている事象に対して、どのように期待するかという心の問題です。期待以上であれば「幸福」、期待以下であれば「不幸」となります。昭和の詩人である相田みつをが「幸せはいつも自分の心が決める」と詠んだのは、幸福を実に正しく理解しているからこそなのです。

「幸福」、つまり満足している状態には、物資的な側面と精神的な側面の2つがあります。

物質的な側面とは、衣食住が整っているとか、給料がどのくらいとか、相手の見かけとか家事能力といったような目に見える物資的なものです。衣食住や給料には質量の違いがあるわけですが、それをどのように評価(期待)するかが重要となります。

たとえば、世帯収入が年収300万円で生活している状態について、「幸福」を感じる人もいれば、「不幸」と感じる人もいます。発展途上国に住んでいる人々は物資的には恵まれていませんが、幸福と感じている人は(たとえば、一人あたりの名目GDPが日本の12分の1しかないブータン王国など)たくさん存在します。このように物資的なものに対してどの程度幸福に感じるかは、個々人の期待の問題なのです。

もうひとつは精神的な側面です。こちらも「幸福」のためには不可欠です。「恋愛バブル」に象徴されるように、お互いが愛し合っている状態、お互いの関係が良好な状態がどうかは精神的な満足度を規定します。この場合も当事者が評価(期待)して、満足なのか不満なのかが重要なのです。たとえば、自分は相手を「十分に」愛していると思っているけれども、相手にとってみれば、その愛情度は「まだ不十分」と思うような場合がありえます。十分か不十分かといった評価は、自分と相手が期待する度合いで変わってしまうものということです。もちろん恋愛の場合は何らかの形にしなければ相手は理解できないので、愛情を表現する行動や言葉に対して、相手がどのように評価するかで決まってきます。

『風立ちぬ』では、「おれ達がこうしてお互に与え合っているこの幸福」とあります。「私」と節子が精神的な側面において期待以上であると考えていること、愛し合うことに対してお互いに満足している状態にあることがうかがえるわけです。

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「幸福」は慣れると消えてしまう運命にある

「幸福」は、宿命的とも言うべき大きな問題を孕んでいます。それは、いずれはかなく消える運命にあるということです。人生の一時点では幸福だと感じていても、その後、幸福とは思えなくなる場合があるのです。

それは、経済学的にいうと「限界効用逓減の法則」が当てはまるからです。「限界効用逓減の法則」とは、「消費財を消費すればするほど、満足の総量は増えても、満足度は徐々に減ってゆく」法則を指します。

たとえば、大学受験で合格したときにはうれしくて幸福感に満たされますが、実際に大学に通い始めると、そのうち在学していることが当たり前になってきて、当初感じた幸福感は消えていきます。

それと同じように、結婚にかかわるほとんどの行動、感情はこの限界効用逓減の法則が当てはまります。というより、残念ながら当てはまってしまうのです。たとえば「見かけ」。当初は素敵だったとしても、年齢とともに劣化してゆきますし、「仏の顔も三度まで」や「美人は三日で慣れる」との格言どおり、外見的な満足度は低減してゆきますので、徐々に当初抱いていた喜びはなくなっていきます。

夫婦のセックスもまったく同じことが言えます。既婚の読者ならば理解していただけると思いますが、配偶者との最初のセックスは、愛を確かめあうことやお互いの性感帯を刺激しあうことでしばらくは満足するものだったはずです。ところが最初の高揚感は、回を重ねるうちに減少していったのではないでしょうか。現在の夫婦のセックスレスが60%前後である事実は、このことの傍証です。夫婦における営みの快楽は必然的に薄れていくものなのです。

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『風立ちぬ』に見える幸福な夫婦関係のポイント

それではすべての幸福は遅かれ早かれ消滅するのでしょうか? いいえ、努力次第で消滅を回避したり、場合によっては幸福を増大させたりすることもできるのです。

その方法が『風立ちぬ』に描かれています。堀辰雄が意図的に描写したのかはともかく、節子を愛する過程で、幸福な関係を保つ方法が読者に示唆されています。とくに重要な4点は以下のとおりです。

 ① 夫婦関係が長期的でないこと
 ② 愛する気持ちを五感で伝えること
 ③ 与え合う補完的関係を構築すること
 ④ 減点制から加点制に転換すること

この4点への理解は、『風立ちぬ』を作品として深く鑑賞することにつながりますし、読者の方々の結婚生活を幸せなものにしてくれます。後編では順を追ってこの点を解説していきたいと思います。

後編につづく


バックナンバーはこちら↓

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